葦沢と城戸、馴れ初め。Ⅰ
とある日の夜。
卓上ライトの無機質な明かりに照らされたノートにシャープペンシルを走らせる。
「はぁ……マジで課題終わらん……」
私が取り組んでいるのは学校の数学の課題。
昔は学校の宿題なんて先生から怒られるまでろくにやってこなかったのに、千歳と付き合い始めてからは私も影響されてちゃんと宿題をやるようになった。
で、やるようになって始めて課題の多さに気付く。一応は進学校と言われるようなそこそこ良い高校に通っているせいで、学習量が半端じゃない。
やれどもやれども終わりの見えない課題。
夕飯を食べてすぐの私を睡魔が襲う。頭が回らない。
「あー、疲れた。今日もうやめよ……」
ノートを閉じて乱雑に棚に押し込み、そのままスマホを手に取ってベッドに倒れ込む。
その時、ちょうどスマホから着信音が鳴った。千歳だった。
私はニンマリと笑みを浮かべながら電話に出る。
「あ、もしもし?綴ちゃん、聞こえる?」
「ん、大丈夫。聞こえる」
「今何してた?」
「数学の課題」
「おー。綴ちゃん偉いね〜」
「ふふ、ありがと」
毎日の夜の電話。それが至福の時。課題で疲れた心身が一気に癒されるような感じがする。
電話越しで声を聞くだけでも安心する。
私はこの子と出会ってからの約一年と少しで、本当にこの子の事を心から好きになってしまったようだ。
未だに、その愛は成長を続けているようにさえ思う。
ふと、思い返す。
そういえば、私たちが付き合い始めてから結構経った。
付き合った日から換算してみると――だいたい半年ちょいくらいだろうか。
「ねえ千歳」
「なぁに?」
「私たちが付き合い始めてからってさ、もう半年経つっけ?」
「えーっと…………うん、半年と少しくらいだと思う」
私はそれを聞いて、なんだか深い安心感を覚えた。
半年。それは私にとって、少し特別な意味を持つ期間だったから。
それを乗り越えた事は、私にとって深い安堵を伴うものだった。
「そっかぁ……もうそんな経つのか……」
たった半年。とは思えないほど色々な事があった。私はしみじみと思う。
この期間で、私はかなり変わってしまった。
何であれ、私は変わるという事それ自体があまり好きではない。でも、その変化がどうしてか今回ばかりは肯定的に受け止められるのは、全て千歳のお陰だろう。
千歳が千歳のまま、変わらずにずっと近くにいて私を繋ぎ止めてくれるから、私はどこまでも私でいられる。そうも感じられる。
私は変わる、千歳もちょっとずつ変わる。でもお互いがお互いを繋ぎ止めあっているから、絶対に私たちは私たちでいられるし、その変化も愛し合える。
お互いの手と手が離れてしまうような、そういう変化さえ無い限り。私はそういうものだけが未だに怖い。
「もう半年っていうより……まだ半年なんだ、って感じがするな、私は」
千歳が言う。
その言葉に救われる。いつもの事。
私が少しでも不安に苛まれそうになると、私がその不安に堕ちる前に千歳の言葉が私を引き上げてくれる。
千歳は「まだ半年」と思ってくれている。
千歳は何年先まで見据えているのだろう。
不安も抱える暇無く一瞬で吹き飛んだし、私はいつもの調子で続ける。
「まあ確かに、まだ半年にしては私は千歳の事が好きすぎるし、千歳に依存しすぎかもしれない」
まだ半年にしてはこんな歯の浮くような言葉を本人に面と向かって伝えるのにも慣れすぎかもしれない。
好きすぎるだなんてこんな恥ずかしい事、千歳にしか言えない。
「んへへ……私も」
「はぁ……千歳と初めて会った時はここまでお互いの事好きになるなんて思ってなかったな……」
「そうだねぇ」
初めて会った時を思い出す。
高一の時の四月。懐かしい。
「ところでさ千歳。私の第一印象って覚えてる?」
昔の事を想起しているうちに、ふと気になって私は尋ねた。
千歳は「えー……んー……」と少し悩んだあとに言った。
「ちょっと苦手な感じの人、だったかも」
「えっ嘘」
衝撃発言が飛び出した。私は喉から裏返ったような声をひり出した。
「えと、話すようになってからはこの人好きだなーって思ってたから、安心して?」
「ぇあ……うん。にしてもだいぶ衝撃だな……」
「だよねー。でも当時は綴ちゃんの事だいぶ怖がってたなぁ」
「怖がってたんだ……」
初めて話した時、確かに千歳は怯えていたような気がする。あれは私の事を怖がっていたのだと今納得した。
「で、綴ちゃんは私の第一印象どうだった?」
「んー……そうだな…………なんか、淡い感じ?」
「えっ、どういうこと?」
「いや、周りよりコントラストが低いっていうか、なんか、彩度が低くて明るかった」
「そんなこと言われても分かんないよー」
千歳が半笑いで言う。
こんな表現しかできない自分に嫌気が刺す。
千歳は初めて見た時から、独特な、文字通り雰囲気が違うイメージがあった。
周りから浮いているとか、そういう事ではなくて、一人だけ別の時間軸を生きているような雰囲気があった。
「てか、この話楽しいな。せっかくなら私たちが会ったばっかの頃の話もっとしない?」
「いいね、しよしよ」
という訳で、昔の事を少し振り返ることになった。
***
高一の五月のこと。
中高一貫校に通う私たちにとって高校生になるというのは大して深い意味を持っていなかった。単に学年が一個上がっただけ、という感じ。
始業式からの一ヶ月間も、別に特段面白い事は無かった。
そんな最中のことである。
「よし窓際!」
「うわ私最前列じゃん」
この学年になって一回目の席替えがあった。
くじ引き制でどこの席になるかは完全に運。最前列を引いた浅羽が喉から汚い声をひり出して号哭している一方、私は窓際の後ろから二席目という完璧なポジションを引き当てた。
名前順の席順で近くだった浅羽やら明石やらの仲のいい友人たちと別れ、私は荷物を持って席を移動する。
新しい席の眺めは中々良いものだった。クラスの全体を見通せる。席替えの結果に不満を零す人やら喜ぶ人の姿が全て目に入ってくる。
とはいえ、どうやら周りの席に仲のいい友達がいないのは気がかりだった。
なんなら、私と仲良い奴らがみんな廊下側の前の方に固まっており、私だけ仲間はずれのような感じだった。
私は複雑な気持ちで机に突っ伏した。
その時だった。私の隣の席に城戸が座ってきたのは。
城戸はやたらと丁寧で上品な所作で深く椅子に座り、背筋を伸ばし、小さくため息をついた。
その姿が何か私の心に引っかかるような感じがした。
私が城戸について知っているのは、その名前と容姿くらいだった。部活も、去年のクラスも、仲のいい友達も知らない。なんなら声も知らないくらいだった。
だが、なんかこの時私はビビッと来てしまった。とにかく、話しかけたい。そう思った。
後から思い返してみると、これは運命のようなもの――あるいは一種の一目惚れのようなものだったのかもしれない。
「城戸さん、だよね?」
「えっ、あ、うん」
深いことを考える前に口が動いていた。
私が平然と、淡白に話しかけ、城戸がそれに戸惑ったように返した。ぎこちない会話。
私は次に言うことを思いつかなかった。
しばらくの沈黙ののちに、私は「よろしく」とだけ言った。城戸も困惑したように私と同じことを言った。
失敗したな、と私は思った。
これが私と城戸のファーストコンタクトだった。
城戸から私への印象は良いものでは無かったかもしれないが、こんな訳の分からない接触でも私は城戸に何故か好感を感じていた。
正直に言うと、顔が好みだったというのはある。
でもそれだけがこの感情の理由では無かった。他の人には無いような、独特な、耽美な雰囲気を城戸から感じて、私はそれに惹かれた。
まあ、ファーストコンタクトは失敗したけど、今後隣の席だし仲良くしていこう。私は気持ちを切り替えた。
そうしてこの日から、私たちは少しずつ仲良くなっていった――という訳でもなかった。




