殺意が聞こえる 1
その夜、響は狭いアパートのソファに深く身体を沈め、染みの浮いた天井をぼんやりと見つめていた。
窓の外では、夜の静寂を切り裂くように冬の風がヒステリックな音を立てて鳴いている。建付けの悪いサッシがガタガタと震えるたび、部屋の温度が一段階下がるような気がした。
「……腹が減ったな」
静まり返った室内で、不意に自分のお腹が情けなく鳴った。そういえば、昼間にあの子と話してから何も食べていない。緊張の糸が解けた途端、胃の奥が空っぽであることを思い知らされた。
響はゆっくりと目を閉じ、意識の底へと潜っていく。
冷えた空気の中で、記憶の澱がゆっくりと浮上してきた。
それは、彼が固く封印し、二度と触れないと誓ったはずの「あの日」――自分の無力さと、響き続けるノイズに打ちのめされた、あの忌まわしい過去へと彼を引き戻していった。
*
始まりは、十歳の夏だった。
猛暑の中、川遊び中に足を取られた響は、一度完全に意識を失い、死の淵を彷徨った。冷たい水の底で心臓が止まりかけたあの瞬間、世界から音が消え、代わりに真っ黒な「澱み」が脳内へ直接流れ込んできた。
一命を取り留めた響を待っていたのは、他人の心の濁流だった。
とりわけ、誰かが誰かを憎む、粘りつくような「殺意」の音だけは、耳を塞いでも頭蓋を直接叩くように響いた。
「お母さん、助けて……みんなの声が聞こえるんだ。でも、みんなはそんなこと言ってないって言う。僕が変だって、嘘つきだって……みんな僕を仲間外れにするんだ!」
震える手で母に縋り付いた。
困惑して叱られるか、気味悪がられるのを覚悟していた。けれど、母は響を突き放さなかった。それどころか、見たこともないほど悲痛な、そして全てを悟ったような顔で響を抱きしめたのだ。
「……響、あなたにも聞こえるようになったのね」
母の腕は、自分と同じように震えていた。
「よく聞きなさい。このことは、誰にも、お父さんにさえ秘密にして。いい? 絶対に隠し通すと約束して」
「どうして……っ!? だって、僕、頭がおかしくなりそうなんだよ!」
「知られれば、あなたはきっと誰かに利用されてしまう。そして、あなた自身も、その力を自分のために利用してはいけないの。それは、魂を削る毒にしかならないから」
母は響の頬を両手で包み込み、言い聞かせるように、祈るように続けた。
「じゃあ、どうすればいいの!? ずっとこの音を我慢しろって言うの!?」
「……本当に困っている人が、どうしても放っておけない時だけ、あなたにできることをしてあげなさい。それ以外は、ただの石ころでいなさい。それが、この血を引く私たちが生きていく唯一の道なのよ」
当時の響にとって、母のその言葉は救いではなく、一生逃れられない冷たい鎖だった。
*
思春期を迎えた響は、この異常な能力を徹底的に拒絶した。
クラスメイトが笑顔の裏で抱く嫉妬、教師が隠し持つ軽蔑、街ですれ違う見知らぬ誰かの殺意――それらすべてを「ただの雑音」だと自分に言い聞かせ、意識の端へと切り捨てた。
心を殺し、耳を塞ぎ、ただの平庸な高校生として、偽りの平穏を貪ることに必死だったのだ。
それが、取り返しのつかない「悲劇」を招くことになるとも知らずに。
高校の校門をくぐること。それは響にとって、泥濁りの沼に素手で飛び込むような苦行だった。
朝の昇降口。無数の生徒が吐き出す「おはよう」という快活な挨拶の裏側で、響の脳内にはそれとは似ても似つかない不協和音が突き刺さる。
(死ねばいいのに)
(目障りだ)
(あいつばっかり、ずるい)
(消えてしまえ)
言葉にすらならない、粘りつくような殺意の断片。それは鋭利な針となって、響の三半規管を容赦なくかき回した。
教室へ向かう廊下を歩くだけで、視界がぐにゃりと歪む。すれ違う見知らぬ生徒の心の澱が、物理的な重圧となって肩にのしかかる。
「……っ」
響は、こみ上げる胃液を必死に飲み込んだ。常に吐き気が喉元までせり上がっている。
教室に入れば、そこはさらに濃密な「密室の地獄」だった。
三十数人の欲望と嫉妬、そして誰かに向けられた無自覚な攻撃性が、狭い空間に充満している。教師の淡々とした授業の声など、その濁流にかき消されて聞こえもしない。
響は机に伏せ、耳を強く塞いだ。だが、肉体の耳を閉じても、脳に直接響く「音」を遮る術はない。
(聞こえない。俺は何も聞いていない。これはただの雑音だ……石になれ。ただの石になれ)
母の言葉を呪文のように繰り返し、響は自分自身の心を麻痺させることに心血を注いだ。
周囲からは「いつも寝ている、根暗な奴」と気味悪がられたが、それで良かった。誰とも関わらず、誰の心にも触れず、この地獄のような三年間をただやり過ごすこと。
それが、十七歳の響にとって唯一の生存戦略だった。
だが、そんな響の「石ころのような静寂」を、一人の少年が粉々に砕いていく。
同じクラスの友人、朝日だった。




