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殺意が聞こえる  作者: あまりなな
カウンセラー?
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カウンセラー?4

 旧校舎の冷たい静寂から抜け出した慶太の瞳には、もう迷いはなかった。頬を撫でた冬の風は相変わらず冷たかったが、男に言われた『よく頑張った』という言葉が、折れかけていた慶太の心に、小さな、けれど硬い芯を作っていた。


 慶太はそのまま職員室へと向かった。放課後の喧騒が響く廊下を、まっすぐ前だけを見て歩く。


「先生、お話があります」


 担任の教師を呼び出す声は、自分でも驚くほど低く、安定していた。かつて殴られたときのように、怯えて縋るような目はしていない。慶太は相談室の椅子に深く腰掛け、駆けつけた担任と、学年主任の教師を正面から見据えた。


「父から暴力を受けています。今日、模擬試験の結果が悪かったという理由で殴られました。それだけじゃありません。弟の陽太も、このままでは危険です。僕と弟を、今すぐ保護してください」


 慶太は一気に、そして「洗いざらい」話した。毎日強要される膨大な学習量、一問の間違いで食事を抜かれること、母が逃げるように実家へ帰った真相。教師たちは絶句し、顔を見合わせた。


「……慶太くん、お父さんにも事情を伺わないと」

「父さんは嘘をつきます。前もそうでした。でも、僕はもう、あの家には帰りたくありません」


 数時間後、連絡を受けた父・昭彦が学校に現れた。彼は以前と同じように、仕立ての良いスーツを纏い、眉をひそめて「心配でたまらない父親」の仮面を完璧に被っていた。


「先生、申し訳ありません。息子は最近、ストレスで少し情緒不安定なところがありまして……。慶太、ほら、帰ろう。お前の好きな夕飯を準備するから」


 昭彦が、慈しむような手つきで慶太の肩に手を置こうとする。かつてなら、その手の威圧感に縮み上がっていただろう。だが、慶太はその手を冷たく振り払った。


「嫌だ。帰らない」

「慶太、何を言っているんだ。他人様の前で我が儘を言うんじゃない」


 昭彦の目が、一瞬だけ鋭く細まった。仮面の奥で「後でどうなるか分かっているな」という無言の脅しが光る。しかし、慶太は一歩も引かなかった。


「我が儘じゃない。……このまま一緒にいたら、僕が死ぬか、父さんが死ぬか、どちらかしかなくなる」

「な、何を言って……」


 昭彦の言葉が詰まる。相談室の空気が一瞬で凍りつき、大人たちが当惑したように顔を見合わせた。冗談や脅しではない。慶太の瞳には、追い詰められた獣のような切実さと、すべてを投げ打つ覚悟が宿っていた。


「……弟も一緒に保護してください。もし無理やり家に返されるというなら、僕は今からそこを飛び降ります」


 慶太は窓の外を指差した。その乾いた、けれど断固とした拒絶に、昭彦の仮面が音を立ててひび割れた。周囲の教師たちも、慶太の異常なまでの決意に、これが単なる「情緒不安定」で片付けられる問題ではないことを痛いほど察し始めていた。


『君は、よく頑張ったよ』


 あの男の声が、耳の奥でリフレインする。

 本当は、何よりも父に、母に愛されたかった。ただ認めてほしくて、殴られても、食事を抜かれても、自分を殺して期待に応えようとしてきた。でも、その願いが叶うことは決してないのだ。


 自分が父を殺さないように。あるいは、父に自分を殺させないように。

 この鎖を断ち切らなければならない。自分を認めてもらうために耐える日々は、もう終わった。これからは、陽太を守るために、そして自分として生きるために、この怪物と戦うのだ。


「……もう、あんたの顔色を伺うのは、今日で終わりにします」


 慶太の瞳には、冷徹なまでの光が宿っていた。それは、旧校舎で出会ったあの白衣の男と、どこか似通った色を帯びていた。


 *


 窓の外では、季節外れの温かい風が吹いていた。一時保護所での生活は、決して自由ではない。けれど、ここには父の足音も、重苦しい沈黙もない。隣で眠る陽太の、規則正しい寝息だけが部屋に満ちていた。


「にぃちゃん、今日のご飯、おいしかったね」


 そう言って笑った弟の顔を思い出し、慶太は自分の指先を見た。もう震えていない。父という呪縛から切り離され、ようやく自分という存在の輪郭を取り戻しつつあった。



 ふと、あの日の記憶が鮮明に蘇る。

 旧校舎の薄暗い空気に、埃の舞う冬の光。冷徹なまでの静寂の中で、自分という存在をまるごと肯定してくれた、あの白衣の男。


(……あの人は、一体誰だったんだろう)


 一時保護所での生活が落ち着き始めた頃、慶太は職員に許可をもらい、通っていた中学校へ電話をかけた。形式上は担任への挨拶だったが、どうしても確かめたいことがあった。


「あの……スクールカウンセラーの先生にお礼を伝えたいんですが、いらっしゃいますか?」


 電話口の事務員は、少し意外そうな声を上げた。


「ああ、カウンセラーの先生ね。今日はいらっしゃってるわよ。代わりましょうか?」


 心臓の鼓動が速くなる。やがて受話器から聞こえてきたのは、おっとりとした穏やかな女性の声だった。


『はい、相談室ですが。何かあったかしら?』

「えっ……。あの、スクールカウンセラーの先生は、男性の方ではありませんか?」

『……? うちの学校のカウンセラーは私一人よ。ずっと私が担当しているけれど』

「でも、僕は旧校舎で、白衣を着た男の人と話したんです……」

『白衣? うちの学校にそんな先生がいたかしら……?』


 受話器を置いた後、慶太はしばらくの間、呆然と立ち尽くしていた。

 学校の教師でも、カウンセラーでもない。ならば、あの日自分を地獄の淵で引き留めたのは、一体何者だったのか。


 ――なぜ、隠すの?

 ――なぜ、一人で抱え込む?


 繰り返されたあの問い。自分の心を解剖するように見つめてきた、あのひどく冷ややかな瞳。

 幽霊だったのか。それとも、限界を迎えていた自分の心が作り出した、一時の幻影だったのだろうか。


「……まあ、いいか」


 慶太は小さく呟き、窓の外に広がる澄んだ青空を見上げた。

 正体が誰であれ、あの日、あの男が自分に執拗なまでに「なぜ」と問いかけてくれたおかげで、自分の中に眠っていた本当の願いに気づくことができたのだから。


 誰かの顔色を伺うためではなく、自分の意志で、大切なものを守るために生きたい。


 慶太は、棚に置かれた一冊の本を手に取った。施設にある図書室から借りてきた、心理学の入門書だ。


(いつか、あの人みたいに……誰かの心の奥底に沈んでいる『なぜ』を、一緒に見つけてあげられるようになりたい)


 ぼんやりとした、けれど決して消えることのない新しい火が、慶太の心に灯っていた。

 庭の隅では、厳しい霜に耐えていた小さな蕾が、静かに春の準備を始めている。

 慶太はもう、光を遮るカーテンを開けることを恐れなかった。

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