カウンセラー?3
軋む階段を上り、廊下の突き当たりにある、今は使われていない特別教室の前で男が止まった。
鍵はかかっていない。男が扉を引くと、埃の匂いと一緒に、閉じ込められていた氷のような冷気が溢れ出してきた。
「どうぞ」
男に促され、慶太はわけもわからず部屋に足を踏み入れた。
窓際には古びた理科の実験器具や、主を失った顕微鏡が並んでいる。冬の低い陽光が床に長い影を落とし、静止した埃を白く照らし出していた。
「何かあったのかい?」
男は窓辺の机に腰を下ろし、無機質な声で問いかけた。優しさは微塵も感じられない、ただ事実を確認するためだけの響きだ。
慶太は躊躇った。何をどこまで話すべきなのか。不用意に口を開けば、またあの惨劇が繰り返される。警察、児童相談所、学校の介入――そして、そのすべてを無効化する父の「完璧な微笑」と、帰宅後の地獄。
「お父さんに殴られた?」
心臓を素手で掴まれたような衝撃が慶太を襲った。喉がひきつり、声がうまく出ない。
「……転んだって、」
「なぜ、嘘をつく?」
慶太は唇を強く噛んだ。見透かされている。この男の瞳は、嘘という膜を易々と突き破り、中の膿を暴き出していく。
「……警察とか、児童相談所には言わないでください。絶対に」
「なぜ?」
「めんどくさい、から」
「なぜ?」
男の執拗な「なぜ」に、苛立ちが爆発しそうになる。どうしてこんなに問われなければならないのか。なぜ、静かにさせてくれないのか。
「どうせ、何を言っても無駄だからだよ!」
慶太の叫びが、がらんとした教室に虚しく反響した。
「大人なんて誰も助けてくれない。結局、自分でどうにかするしかないんだ。俺が……、弟を守らないといけないんだ」
「なぜ、誰にも相談しない? なぜ一人で抱え込む。君は、もう限界だろう」
男の言葉が、パンパンに張った水風船に針を刺した。
視界が急激に歪み、熱いものが目に滲む。
「だって、俺が……がんばれば、それで済むから……」
「なぜ、がんばる?」
「それは……っ、やらなきゃ、怒られるから……」
「怒られるからやるの?それだけかな?」
「……認めて、くれるかも」
絞り出すような声が、慶太の口から漏れた。
「俺がもっと勉強ができて、強くて……父さんの理想通りになれば……。そしたら、お母さんもいなくならなかったかもしれないし、父さんも……俺を、認めてくれるかもしれない」
手が、激しく震え始める。
「認めてほしい?」
その問いに、慶太は愕然として顔を上げた。
殺したい。消えてほしい。そう思っていたはずなのに、そのどろどろとした殺意の底には、泥に塗れた「肯定への渇望」が、惨めな姿で横たわっていた。
憎んでいる。でもそれ以上に、愛されたかった。
ただ、父に自分を認めてほしかった。
本当は、たった一言だけ、自分という存在を肯定してほしかった。
「……っ、う、あ……」
慶太は顔を覆った。指の間から涙が溢れ、床の埃を濡らしていく。
自分の奥にあった願望を引きずり出された恥ずかしさと、絶望的なまでの虚しさが、濁流となって慶太を飲み込んでいった。
男は窓辺に腰掛けたまま、泣きじゃくる慶太を慰めることも、否定することもしなかった。ただ、冬の薄い光の中で、祈りにも似た低い声で呟いた。
「君は、よく頑張った。もう、頑張らなくてもいい。お父さんの期待に応えなくてもいいんだよ」
その無機質だったはずの声に、一瞬だけ、風に舞う雪のような淡い体温が宿った気がした。
誰にも言ってもらえなかった言葉。
成績表の数字でも、理想の息子という虚像でもなく、ただボロボロになって立ち尽くしている「自分」に向けられた、初めての全肯定。
「あああああ……っ!」
慶太は声を上げて泣いた。
幼い子どものように肩を震わせ、喉を詰まらせ、体中の水分を絞り出すように泣き続けた。父の前で押し殺してきた悲鳴が、旧校舎の冷たい空気の中に溶けていく。
どのくらいの時間が経っただろうか。
涙が枯れ、腫れた目蓋をゆっくりと持ち上げたとき、窓際には、もう誰もいなかった。
古びた顕微鏡と、埃の積もった実験台。男が座っていた場所には、体温の欠片も残っていない。
ただ、窓がわずかに開いていて、そこから入り込んだ冬の風が、慶太の涙で濡れた頬を冷たく撫でた。
男は、最初からそこにいなかったのではないか。
そんな錯覚に陥るほどの静寂の中で、慶太は自分の胸の奥に、以前とは違う、静かな火が灯っているのを感じていた。




