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殺意が聞こえる  作者: あまりなな
カウンセラー?
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カウンセラー?2

 冬の鋭い陽光が、通学路の霜を無慈悲に照らしていた。


 陽太の小さな手を引きながら、慶太の頭の中では、父がぶちまけた分厚い参考書の山が何度も崩れ落ちていた。あんな量、今日中に終わるはずがない。一問でも間違えれば、明日の飯はない。それはただの脅しではないことを、慶太は嫌というほど知っていた。


(俺は、まだいい。耐えられる……。でも)


 ふと隣を見ると、陽太が腫れた慶太の頬を不安そうに見上げていた。

 もし、父の矛先がこの小さな肩に向けられたら。自分という盾が壊れた後、陽太があの地獄に一人で放り出されたら。


 想像しただけで、心臓の奥がどろりと濁った殺意で満たされる。慶太は自分の腫れた頬を指先でなぞった。熱を持ってズキズキと脈打つそこには、父の支配が刻印されている。

 自分はまだいい。だが、このままではいつか陽太にまであの硬い掌が振り下ろされる。母が逃げ出した今、あの家で陽太を守れるのは自分しかいない。


(殺さないと。……あいつを消さないと、陽太まで壊される)


 どろりとした黒い決意が、空腹の胃の底からせり上がってくる。殺意はもはや衝動ではなく、生き残るための冷徹な「義務」に変わりつつあった。


「にぃちゃん、バイバイ」


 保育園の門をくぐる陽太の背中を見送り、慶太は一人、学校への道を引き返した。

 だが、校門を目前にして足が止まる。

 以前、担任の教師に相談したときのことが蘇ったからだ。痣を見た教師は騒ぎ立て、大事になりかけた。しかし、父の外面の良さと「教育熱心な親」という完璧な仮面によって、結局は「行き過ぎた指導」として片付けられた。


 その夜、家で待っていたのは、言葉にできないほどの暴力と罵声だった。

『俺に恥をかかせるな!』

 あの時の恐怖を思い出すだけで、指先がガタガタと震え、吐き気が込み上げる。あの日以来、慶太は大人を信じることをやめた。


「……痛そうだね。その頬」


 唐突にかけられた平坦な声に、慶太は肩を跳ねさせた。

 振り返ると、校門横の古びた煉瓦塀の陰に、一人の男が立っていた。

 膝下まである白衣。目元を隠すほど長い前髪。以前、全校集会で「スクールカウンセラーが来る」という話を聞いた気がするが、よく覚えていない。


「……。はあ、まあ……」


 慶太は顔を伏せ、足早に通り過ぎようとした。これ以上、大人に深く関わって「大事」にされるのは御免だった。下手に同情されれば、またあの夜の再来になる。


「どうしたの?」


 男の声が追いかけてくる。感情の起伏が削ぎ落とされた、ひどく乾いた声だ。


「別に。転んだだけです」


「どうして転んだの?」


 淡々とした問いかけが、慶太の逃げ道を塞ぐように投げられる。


「……あなたには関係ないですよね?!」


 慶太が苛立ちをぶつけると、男は動じなかった。前髪の隙間から、ひどく冷ややかな瞳が慶太を凝視している。その視線は、腫れた頬ではなく、慶太の心の奥底に沈殿した「黒い火」を検品しているようだった。


「なぜ、隠す?」


「……っ、しつこい!」


 思わず声を荒らげた慶太に、男は一歩、音もなく歩み寄った。冬の冷気を纏った白衣の裾が、死神の羽のように揺れる。


「なぜ、そう思う?」


 男の問いかけは、慶太が今朝からずっと抱いていた、どろりとした殺意を見抜いているようだった。慶太は言葉を失い、震える拳をポケットの中で、爪が食い込むほど強く握りしめた。


「あんたに……話したって、どうにもならない。大人は、結局あいつの味方をするんだ」


 父の完璧な外面、教師たちの無力な同情、そしてその後に訪れる絶望的な暴力。その記憶が、慶太の喉を物理的に締め上げる。


「少し、話をしないか?」


 男はそう言うと、答えるのを待たずに背を向けた。

 男は校門をくぐり、喧騒の絶えない新校舎ではなく、木々が鬱蒼と茂る裏手の旧校舎へと足を進めた。


「……っ」


 慶太は立ち尽くしていたが、磁石に吸い寄せられる鉄屑のように、ふらふらとその後ろ姿を追い始めた。

 教室へ行けば、また「優等生」を演じなければならない。家に戻れば、地獄が待っている。今の慶太には、そのどちらでもない「空白」が必要だったのかもしれない。

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