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殺意が聞こえる  作者: あまりなな
介護士?
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介護士?5

 男が風のように去ってから、一週間が過ぎた。 冬の朝の光はどこまでも透き通り、埃のひとつひとつを銀色に輝かせるほど鋭く部屋に差し込んでいた。その光のなかに横たわる静江は、もう動かなかった。


 肌は陶器のように白く冷え切っていたが、その表情は驚くほど穏やかだった。それはまるで、康子が抱え続けた「殺意」と、あの日男が持ち込んできた「赦し」の両方を見届け、ようやく自分の役目が終わったことを悟ったかのようだった。 執着も、悔恨も、すべてを冬の光に溶かして、彼女は静かにこの世を去った。



 お葬式は、拍子抜けするほど静かなものだった。 祭壇の中央で微笑んでいるのは、康子の隣で、まだ生命力に溢れていた頃の静江だ。


「康子さん、本当に……長い間、大変だったでしょう」

「よく頑張ったわね。あなただったからこそ、静江さんも最後まで自宅にいられたのよ。本当に、頭が下がるわ」


 かつては康子の至らなさを突き、陰で言葉のつぶてを投げていた親戚たちが、今は手のひらを返したように彼女を労う。 「最高の嫁」「献身の鑑」 溢れんばかりの称賛を浴びながら、康子はただ深く、深く頭を下げ続けていた。自分の中にあったどす黒い感情を知る者は、もうこの世にはいない。皮肉な充足感が、冷えた足元から這い上がってくるのを感じていた。



「お母さん、本当にお疲れ様。……ごめんね、私、何ひとつ手伝えなくて」


 都会で自らの生活を築き、巣立っていった子どもたちが康子の肩を抱く。その手の温もりに、康子はふっと強張っていた肩の力を抜いた。


「いいのよ。おばあちゃん、最後はとても静かだったから。まるでお昼寝でもしているみたいに、すうっと……」


 康子の言葉は嘘ではなかった。けれど、その「静けさ」に至るまでに、どれほどの嵐がこの部屋を吹き荒れたかを知る必要はない。


 出棺の時、冬の空はどこまでも高く、青かった。



 親戚たちの喧騒が去り、急激に静まり返ったリビング。


「……お袋」


 遺骨と遺影が置かれた祭壇の前で、正一がぽつりと呟いた。 康子はお茶を淹れる手を止め、夫の丸まった背中を見つめた。その肩は、冬の冷気に当てられたように微かに震えている。


「俺……怖かったんだよ。あんなに強かったお袋が、俺のことも分からなくなって、化け物みたいに喚くのが。見るのが辛くて、だからお前に全部押し付けて、逃げてた。……康子、今まで本当に、悪かった」


 正一の声は震え、最後は嗚咽に変わった。 もし、あの「男」が現れなかったら。 もし、あの夜、絶望に駆られた康子が手を汚していたら。 今、目の前で泣いているこの夫を、康子は一生、軽蔑し、呪い続けていたに違いない。「今さら何を」と、冷え切った言葉を投げつけていただろう。


 けれど、今の康子の心に満ちているのは、鋭い憎しみではなく、凪のような静けさだった。


「いいえ、許さないわ」


 康子の言葉に、正一の肩がびくりと跳ねる。


「……康子」


「あなたが逃げていた時間は、もう二度と戻らない。私の中に刻まれた、あの暗い夜の記憶も消えはしないわ。だから、簡単に許すなんて言わない」


 康子は急須を置き、ゆっくりと正一の隣に歩み寄った。そして、遺影の中の若き日の静江を見つめながら、静かに、けれど強く言葉を継いだ。


「だから、これからは私を旅行に連れて行って。ずっと子育てと介護で、自分のために歩くことさえ忘れていたわ。私、行きたいところがたくさんあるのよ」


 不意を突かれた正一は、涙に濡れた顔を上げて康子を見た。


「いいのか……?」

「何が?」

「いや……俺みたいな勝手な男と、まだ一緒に、その……」


 正一の戸惑いに、康子の口元に微かな、本当に久しぶりの苦笑が浮かんだ。


「お義母さんが、あんなに必死に私を引き止めたんだもの。ここで私があなたを見捨てたら、化けて出てくるかもしれないわよ」


 祭壇の静江は、誇らしげに二人を見守っているように見えた。正一は鼻をすすり、康子の手元に視線を落とす。


「……ああ、わかった。どこへでも行こう。まずはどこがいい? 康子がずっと行きたがっていた、あの北の温泉か?」

「ええ、それもいいわね。でも、まずは静かな、空の広いところがいいわ」


 二人の間に漂う線香の香りが、少しだけ和らいだ気がした。長く暗いトンネルを抜けた先にある、冬の終わりの柔らかな光。康子は、正一が差し出した少し震える手を、拒むことなくそっと見つめ返した。



 数日後の朝。康子は、突き抜けるように青い冬晴れの下で、庭の掃除をしていた。 冷たく乾いた空気が肺の奥まで入り込み、淀んでいた心の中を洗い流していくようだ。竹箒たけぼうきが落ち葉を掃く乾いた音が、静かな住宅街に規則正しく響いていた。


 ふと、康子は手を止め、あの日のことを思い出した。 あの長い前髪の男は、一体何者だったのだろうか。


 死期を悟った静江の執念が呼び寄せた、虫の知らせのような幻影だったのか。あるいは、ずっと前に亡くなった静江の夫――一度も会うことのなかった義父が、嫁が深い傷を負うのを防ぐために、姿を変えて現れてくれたのだろうか。 「康子にだけは、一生消えない罪を背負わせるな」と、あの世の端っこから必死に駆けつけてくれたのかもしれない。そう思うと、顔も知らない義父の存在が、不思議と身近で温かいものに感じられた。


 男が最後に残していった「なぜ?」という問い。 それは、憎しみと疲弊に塗りつぶされそうになっていた康子が、自分自身の底にあった「愛」を見失わないための、一番厳しく、そして一番優しい魔法だったのだ。


 康子は箒を立てかけ、ゆっくりと空を見上げた。 視界を遮るものは何もない。どこまでも高く、どこまでも清々しい、吸い込まれそうなほどの蒼穹そうきゅう


 これからは、自分のために時間を使おう。誰かのための私ではなく、私自身として生きていこう。 庭の隅には、寒さに耐えながら小さく芽吹こうとする水仙の姿があった。


 康子は大きく深呼吸をし、胸いっぱいに新しい光を吸い込んだ。 ゆっくりと背筋を伸ばし、新しく始まった静かな一日へと、迷いなく一歩を踏み出す。


 その足取りは、驚くほど軽やかで、どこまでも自由だった。

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