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殺意が聞こえる  作者: あまりなな
介護士?
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介護士?4

 襖を細く開けると、そこには冬の光に照らされた静江の横顔があった。 その瞳は虚空を見つめるように開いていたが、焦点は結ばれていない。ただ、その唇だけが、大切な宝物を一つずつ確かめるように、穏やかに動いていた。


「……あら、康子さんはどこに行ったのかね?」


「私はここにいますよ」


「康子さんはね、本当に、できた嫁でねぇ……」


 康子は、敷居のところで雷に打たれたように息を止めた。


「不器用な息子にはもったいないくらいだ。あの子がうちに来てくれてから、家の中がパッと明るくなったのよ。……ああ、神様に感謝しなきゃねぇ。もったいないくらいの子だよ」


 静江の声は、あの日、親戚たちの罵声から救い出してくれた時と同じ、凛としていて、それでいてお茶の葉のような温かい渋みを含んでいた。認知症の闇に飲み込まれ、怪物のように叫んでいた今の静江ではなく、康子が心から憧れ、慕い続けた「お母さん」の声だった。


「……息子のことは、そりゃあかわいいさ。……でもね、康子さんにだけは、悲しい思いをさせたらいけない。あの子は、独りぼっちでうちに来てくれたんだから。……私が、私が一番に大事にしてあげなきゃ、ねぇ……」


 静江の言葉が、ふっと途切れた。 満足したのか、あるいは語るべき記憶の旅を終えたのか。彼女は深く、深く吐息をつくと、そのまま吸い込まれるような穏やかな寝息に戻っていった。


「……っ……」


 康子は、その場に崩れ落ちた。 自分が殺そうとしていた、自分を忘れたはずの「怪物」は、脳の回路がどれほど壊れてもなお、魂の最も深い場所で「嫁」を宝物のように抱きしめ、守ろうとしていたのだ。


 康子は、かつて静江がそうしてくれたように、骨と皮ばかりになったその細く、冷えた手を、震える自分の両手で包み込んだ。


「お母さん……ごめんなさい……っ、ごめんなさい……」


 言葉にならない謝罪が、止めどなく溢れ出した。 何を、自分は殺そうとしていたのか。この温もりを、この無私の慈しみを、自分の絶望ゆえに絶とうとしていたのか。 静江が自分を「泥棒」と呼んだのは、彼女が自分を忘れたからではなく、彼女自身が記憶の迷路で自分を見失い、必死に誰かを求めていただけだったのではないか。


 静江の寝顔は、かつて康子を「本当の娘」として迎え入れ、誇り高く家を守り抜いた、美しく気高い一人の女性の顔だった。


 康子は、静江の手に額を押し当て、子どものように泣き続けた。 心の氷が、静江の言葉という陽光によって溶かされ、温かな涙となって畳を濡らしていく。



 康子が、涙を拭いながら居間へ戻ると、そこにはもう人の気配はなかった。


「……あの、お待たせして……」


 声をかけたが、返事はない。 男が座っていた座布団の上は、まるでもともと誰もいなかったかのように整然としていた。


 康子は慌てて、玄関先へと行く。しかし、男の靴はなく、何の痕跡も残っていなかった。


「……え?あれ?」


 戻ってみても、やはり部屋は空っぽだ。 名刺の一枚も、施設のパンフレットも残されていない。名乗ることもなく、契約を迫ることもなく、彼はただ、康子の心の一番深く、誰にも触れさせたくなかった傷口をそっと覗き込み、そして去っていった。


(幻……? 夢でも、見ていたのかしら……)


 呆然と立ち尽くす康子の視界に、卓袱台の上が入った。 そこには、確かな現実が残されていた。


 男が丁寧に剥いて食べていた、みかんの皮だ。 独特の鋭い、けれどどこか懐かしい柑橘の香りが、まだ部屋の隅々に漂っている。皮はまるで、小さな命の抜け殻のように、綺麗に畳まれて置かれていた。


 康子は吸い寄せられるように、その皮を手に取った。 まだ、微かな湿り気と体温のようなものが残っている気がした。


「本当に……いたのよね……?」


 男は、康子の愚痴を聞きに来たのではない。 彼女が自分自身の殺意で自らを滅ぼしてしまわぬよう、あのみかんの香りで、彼女の正気をこの世界に繋ぎ止めてくれたのではないか。


 康子はもう一度、静江の眠る部屋を見た。 あれほど重く、暗く、逃げ出したかった家が、今は不思議なほど静謐な空間に見えた。


「……おやすみなさい、お母さん」


 康子はそう呟くと、みかんの皮を大切に片付けた。

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