介護士?3
30年前、その日は朝から、凍てつくような冬の雨が降り続いていた。
康子がこの家、橋本家に嫁いできた日の記憶は、常にその冷たい雨の匂いと共に蘇る。 当時の康子は、自分の素性に激しい引け目を感じていた。実家は父の放漫経営が原因で倒産し、両親とは逃げるように絶縁状態。おまけに康子自身も、心身を削るような激務で体を壊し、職を失ったばかりだった。
文字通り「何もない女」だった。 身ひとつで嫁いできた彼女を迎えたのは、橋本家の古い伝統という名の、分厚く冷たい壁だった。
正一の親戚が集まった顔合わせの席。 築百年の旧家の広間には、重苦しい沈香の香りと、それ以上に重苦しい品定めの視線が満ちていた。
「正一さん、もっと他にふさわしい方がいたでしょうに。何もよりによって、そんな苦労を背負い込まなくても……」
「お里が知れるわね。橋本家の嫁として、まともに務まるのかしら。お作法の一つもご存知ないのでしょう?」
親戚たちは康子の存在を無視するように、あるいは聞こえるようにわざと、露骨に鼻を鳴らした。それは、康子という人間を個として認めるのではなく、橋本家の家系図に紛れ込んだ不純物として排除しようとする、静かな暴力だった。
針のむしろに座らされているような、息の詰まる静寂。 康子は膝の上で拳を握りしめ、ただ視線を落として耐えるしかなかった。せめて隣に座る正一だけは味方であってほしかった。けれど彼は、その冷ややかな空気から逃げるように何度も何度も酒を煽り、康子を庇う言葉一つかけようとはしなかった。
「……すみません、不慣れなもので」
そう絞り出した康子の声は、雨音にかき消されるほど細かった。
その空気を切り裂いたのは、まだ五十代だった静江の、凛烈な一喝だった。
「――静かになさい!」
静江は、膳を叩くようにして立ち上がった。その毅然とした立ち姿と、有無を言わせぬ声の響きに、広間は一瞬で水を打ったように静まり返った。
「康子さんは、正一が自分の人生を共にする相手として、悩み抜いて選んだお嫁さんです。あの子の目は、私が一番信じています。正一が選んだ嫁なんだから、周りがとやかく言うのはお門違いというもの。これ以上、この子を傷つけるような真似をするなら、橋本家の嫁として、私が許しません!」
静江の視線は、卑屈に笑っていた親戚たちを一人ずつ射抜くように巡った。そして彼女は、凍りついたように震える康子の肩を、折れんばかりの力強さで抱き寄せたのだ。
康子の鼻先を、微かにお茶の葉の匂いと、石鹸の香りがかすめた。
「大丈夫よ。今日から、ここがあなたの本当の家なんだから」
耳元で囁かれたその声は、外の雨音を消し去るほど温かく、確かな体温を伴っていた。 実の両親にすら見捨てられ、「自分はどこにも居場所のない余計な人間なのだ」と絶望していた康子にとって、それは人生で初めて受け取った、剥き出しの「無条件の肯定」だった。
もちろん、仏のような毎日だったわけではない。 生活の端々で意見が食い違い、激しい口論をしたこともある。互いに背を向けて、数日間一言も交わさない冷戦のような日々もあった。けれど、ふとした瞬間に笑いのツボが同じだったり、煮物の味付けがいつの間にか静江のものと見分けがつかなくなっていたり、買い物に出れば「本当の親子みたい」と近所の人に笑われたりした。
ぶつかり合い、削り合いながら、二人は血の繋がりを超えた「母娘」になっていったのだ。
(ああ、だから……。だから、こんなに悲しいんだ……)
康子は、涙で滲む視界の中で、かつて自分を守ってくれたあの力強い肩が、今は見る影もなく細くなってしまったことを悟る。
大切だったからこそ、壊れていく彼女を直視することが耐えられなかった。いっそ憎しみにすり替えて、心を石のように硬く閉ざしていなければ、自分までその崩壊の渦に飲み込まれてしまいそうだったのだ。
殺意という名の、あまりに不器用な自己防衛。 康子は、男が剥いてくれたみかんの香りが漂う居間で、自分の心の正体をようやく掴み、震える肩を抱きしめた。
「……康子さん。康子さん……」
その時、襖の向こうから、弱々しく、けれど明晰な響きを持った声が漏れてきた。
「あ、はい……」
康子は反射的に返事をした。 空耳かもしれない。あるいは、脳が見せる最期の幻聴か、病が見せる一瞬の残酷な奇跡。それでも康子は、重たい腰を上げ、まるで巡礼者が聖域へと向かうような足取りで、ゆっくりと静江の待つ寝室へと足を進めた。




