介護士?2
静江は今、嵐の合間の静寂のように、すうすうと穏やかな寝息を立てている。
ふと見れば、男は鞄を持っていないことに康子は気づいた。施設の人なら、契約書類やバインダー、せめて名刺入れくらいは持っているはずだ。白衣の胸ポケットにはボールペンの一本すら刺さっておらず、雪原のような白さが、かえって不自然に際立っている。
「ええと……それで、今日はどういったご用件で……?」
康子が堪りかねて切り出すと、男は剥きかけたみかんの手を止め、前髪の奥の瞳をまっすぐに康子に向けた。
「ああ。……とても苦しそうだと思って」
「え?」
康子は思わず、襖の向こうの静江を見た。
「母なら、今は寝ていますけど……。文字通り、眠っている間は静かなもので、苦しそうには見えませんが」
「いえ、彼女のことではありません」
男は、淡々と続けた。
「なぜ、あなたはそんなにも苦しそうなのですか?」
「わ、私……?」
康子は絶句した。介護の相談に来たはずなのに、自分のことを聞かれるなんて微塵も思っていなかった。不意を突かれ、喉の奥が熱くなる。
「私は別に、苦しくなんて……。主婦なんて、みんなこんなものですよ。毎日同じことの繰り返しで、子育てが終わったと思ったら、今度は介護をして……私の周りもみんな、当たり前にそうしています」
「なぜ、自分を、周りを『そんなもの』だと決めているのですか?」
「そ、それは……」
康子は言葉に詰まる。
「だって、私たちは結婚して、子どもができたら育てる。親が病気をすれば介護をする。それが当たり前で、当然のことじゃないですか。義務というか、役割というか……。私に、それ以上に何か特別なことができるわけでもないし……」
「なぜ?」
男の声は、責めるわけでもなく、ただ透明に響いた。
「な、なぜ……?」
康子は思わず考え込んでしまう。 なぜだろう。いつから、自分の人生を「誰かのための時間」だと決めつけてしまったのか。 「嫁」になり、「母」になり、「介護者」になる。それは川の流れに身を任せるように自然なことだと思っていた。けれど、その川の底で、自分という個人の輪郭が砂のように削られ、消えていくのを、見て見ぬふりをしてきた。
「なぜ……と言われても、それが『幸せ』だと思うからです……」
絞り出すような言葉は、康子自身も気づいていなかった本音だった。 男はみかんの白い筋を丁寧に一本取り除き、それを口に運ぶことなく、ただじっと康子の震える手元を見つめていた。
「本当に?」
「え?」
「『幸せ』ですか? ではなぜ、あなたは今、そんなにも苦しそうな顔をしているのですか?」
「それは……」
康子は視線を彷徨わせた。男の琥珀色の瞳に見透かされているような気がして、畳のささくれに目を落とす。
「……多分、当たり前で幸せだからこそ、私はもう誰にも必要とされていないんです。子どもたちは大人になって、用事がある時しか連絡もよこさない。夫は私を、そこにいて当然の家政婦か何かだと思っている。そして、あそこにいる母だって……」
康子は襖の向こう、眠り続ける静江の気配を指した。
「私のことなんて、もう、これっぽっちも分かっていないんです」
静江の世話し始めた当初は、感謝されていた。けれど次第に、名前を呼ばれなくなり、ただの「泥棒」や「役立たず」と罵られる日々へと変わっていった。誰よりも尽くしている相手から向けられる、憎悪に満ちた瞳。
康子の中に積もっていた、誰にも見られることのない「悲しみ」という名の澱が、男の静かな問いかけによって激しく揺り動かされる。
「私なんて、明日いなくなっても、誰一人困らない。むしろ、みんな清々するんじゃないかしら……。私の代わりなんて、いくらだっているんです」
自嘲気味に笑う康子の視界が、急にぼやけた。膝に落ちた涙が、古い畳に黒い点を作った。
「本当に、いなくなってもいいのですか?」
男が、さらに深く踏み込んでくる。逃げ場を塞ぐような、けれど不思議なほど柔らかな響きだった。
「本当に、あなたは誰にも必要とされていないのですか?」
「……本当よ。私はもう、誰の目にも映らない透明人間なんです。生きていても、死んでいても、この家の空気と変わらないの」
吐き出した言葉が、冷え切った部屋の空気に溶けていく。康子は、自分の存在そのものが希薄になっていくような感覚に陥っていた。
ふと見れば、男は剥いたみかんを一房、いつの間にか口に運んでいた。咀嚼する微かな音さえ、この静寂の中では鮮明に響く。男は、まるで冬の陽だまりを味わうような平穏さで言った。
「人は遅かれ早かれ、いつか死にます。……急ぐことはない。急いでも、良いことなどありませんよ」
その声が、康子の胸の奥を直接掴んだような気がした。
心臓が早鐘を打つ。さっきまで、暗い部屋で一人、あのみすぼらしい枕を握りしめていた指の震え。どす黒い殺意に身を任せようとした、あの地獄のような数分間。そのすべてが、この男の琥珀色の瞳には透けて見えているのだと確信した。
「私は……」
叫び出したいような、あるいはそのまま足元から崩れ落ちて泣き伏したいような、激しい衝動が康子を襲った。 「嫁」として、「母」として、自分を殺して誰かのために尽くすことで、辛うじて保ってきた均衡。それが、この得体の知れない男のたった一言で、音を立てて崩れ去っていく。
「……だって、そうしないと……私はずっと『幸せ』になれないじゃない……!」
喉の奥からせり上がってきたのは、言葉というよりは悲鳴に近かった。




