介護士?1
湿ったオムツの重みは、そのまま康子の人生の重みのようだった。
「この、役立たず! 泥棒! 早く出てけ!」
義母の静江が、枯れ木のような手で康子の腕を激しく叩く。認知症が進み、かつての穏やかさは微塵もない。返ってくるのは、感謝ではなく、底のない悪意と暴言だけだ。
康子は無言でその手を受け流し、手際よく汚れを拭き取る。
(……そもそも、あんたの息子が悪いんだ。あいつが、全部)
数年前、施設への入所を検討した際、夫の正一は「親を捨てるのか!」と大声を上げて反対した。
「俺の家なんだ、俺が最後まで面倒を見る」
そう大見得を切ったくせに、正一が静江の排泄物を片付けたことなど一度もない。それどころか、深夜に酔って帰宅し、静江の叫び声が響くと「お前のやり方が悪いから母さんが興奮するんだ」と、すべての責任を康子に押し付け、自分はさっさと耳栓をして眠りにつく。
康子にとって、正一はもはや共犯者ですらない。自分の人生を食いつぶす「寄生虫」の親玉だった。
(……ああ、もう、いいんだ。全部終わらせてやる)
康子の心の中で、何かが音を立てて断ち切れた。 怒りすら通り越し、今はただ、目の前の肉塊を「処理」したいという、透き通った殺意だけが沸々と煮え立っている。
自分が捕まったところで、正一も子どもも、誰も困りはしない。むしろ、厄介な介護から解放されて、正一は心のどこかでせいせいするはずだ。そして自分もまた、刑務所の冷たい壁に囲まれることで、この地獄のような「自宅」という名の監獄から、ようやく出所できる。
(大丈夫。ほんの数分、枕を押し当てるだけ。それで、私は自由になれる)
康子は震える手で、静江の頭の下にある枕に指をかけた。指先には、獲物を狙う獣のような、静かで確かな力が宿っている。殺意が視界を真っ赤に染め上げたその時だった。
――ピンポーン。
静寂を切り裂くようなインターホンの音が、薄暗い部屋に鳴り響いた。
康子の肩が大きく跳ねる。枕を掴んでいた指先が、痙攣したように強張った。
「……誰よ、こんな時に」
毒づきながら、康子は這い出すように居間へ向かった。 モニター越しに映っていたのは、昼の光の中に佇む、長い前髪の知らない男だった。
白衣のような羽織りものを着て、表情も読めないまま、ただじっとカメラを見つめている。その清潔感のある白さに、康子の胸が跳ねた。
(……もしかして、介護施設の人?)
夫の正一には内緒で、夜な夜なスマホで調べて取り寄せた資料。あの施設の担当者が、様子を見に来てくれたのだろうか。
「今、行きます!」
そう思うと居ても立ってもいられず、康子は髪を整える間も惜しんで、急いで玄関の鍵を開けた。
「どうぞ、入ってください。散らかっていますけど」
「失礼します」
男の声は、驚くほど静かに家の中へ溶け込んだ。 招き入れた男は、廊下を歩きながら、襖の隙間から見える義母・静江の様子をチラリと一瞥した。横たわる静江の放つ、饐えた匂いも、陰鬱な空気も、彼は平然と受け止めているように見えた。
「あ、そこに座ってください。今、お茶を出しますので」
男は小さく会釈をして、古びた畳の上に腰を下ろした。 台所へ向かいながら、康子はふと疑問を抱く。
(介護施設の人が、白衣なんて着ているかしら……?)
けれど、今の彼女にとっては、この地獄の淵から自分を掬い上げてくれる者なら、医者でも施設職員でも、あるいは天使でも構わなかった。
お盆の上に、ありあわせのお茶を乗せる。あいにく来客用のお菓子なんて切らしていた。仏壇に供えていた小ぶりなみかんを二つ、添えるのが精一杯だった。
(申し訳ないわね。手を付けないかもしれないけれど)
男の元へ運ぶと、彼は差し出されたお盆をじっと見つめ、ぽつりと呟いた。
「……みかん」
「あ、すみません。お菓子を切らしていて。……お嫌いですか?」
「いえ、好きです。でも、みかんって、今は高いですよね」
予想外の言葉に、康子の肩からふっと力が抜けた。
「そう、そうなんですよ! 果物って、いざ買うとなると本当に高いんですよね。この前もスーパーで値段を見て、結局やめちゃって……」
「わかります。手軽なようでいて、贅沢な食べ物だ」
「そうなの。でも、たまに無性に食べたくなって。これ、和歌山の親戚が送ってくれたんです。甘いですよ、どうぞ」
殺意に満ちていたはずの部屋で、なぜか「みかんの値段」という世俗的な話題が盛り上がる。 男が細長い指でみかんの皮を剥き始めると、冬の陽光が差し込む部屋に、爽やかで鋭い柑橘の香りがぱっと広がった。
その香りは、静江の部屋から漂う淀んだ空気や、康子の心に沈殿していた黒い澱を、ほんの一瞬だけ、外側へと押し流してくれるような気がした。




