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第6奏パート2:湯気の向こうで交わした、無二の拳(第9話)

カポーーーン。


静寂に包まれた湯煙の中で、どこかで湯桶が床を叩く音だけが、その場を支配するように響き渡った。


大浴場の壁は古いタイル張りで、その奥には、塗り替えられたばかりの富士山が大きく描かれている。


清潔な湯の香り。

新しく塗られたペンキの匂い。

それから、どこか懐かしい、石鹸の残り香。


それらが混じり合って鼻腔を抜けた瞬間、頭の奥にある大切な記憶の書庫の扉を、そっとノックされたような気がした。


一瞬。

ほんのわずかに開いた扉の隙間から、幼い日の映像が、僕の頭の中を通り過ぎていく。


誰かは、わからない。


けれど、手を繋いで歩いた先。

柔らかくて、温かい感触に包まれる安心感。

目に入ったシャンプーの痛みと、甘い香り。

古く曇った鏡に映る、黒くて綺麗な髪を結い上げた誰か。


湯煙が、まるで記憶の枷のように揺れて、その先にいる“誰か”を覆い隠す。


手を伸ばせば、届きそうだった。


あと、一歩。


その時だった。


「湊くーーん。立ち止まって、どったの?」


翼くんの声が、湯煙の向こうから飛んでくる。


その一言で、記憶の書庫の扉は静かに閉じられた。


一瞬だけ流れ込んできた香りと一緒に、僕は“今”へ戻ってくる。



「……ううん、なんでもないよ。ただ、レトロで懐かしいなぁって思ったんだ。まさか都内に、こんな場所が残ってるなんて」



「だろ? たしか源さんの話だと、昭和の復興くらいの時からあるらしいよ。八十年……くらい前からかな。そんなことよりさ、早く湯船に入ろうぜ、湊くん♪ 風邪ひーちまったら、またノゾミちゃんに怒られるよ♪」



そう言って、翼くんはまるで、かまってほしくて足元にじゃれついてくる子犬みたいに、僕の腕を軽く引いた。


その勢いに押されるようにして、僕たちは湯船のそばまで歩いていく。


そして、ほとんど同じタイミングで、肩まで湯の中へ沈み込んだ。


デジャヴ。


そんな言葉が頭の中をよぎった頃には、湯が大きく揺れて、白い飛沫がタイル張りの床へ跳ねていた。



「「ぷはーーーぁーーー」」



湯船から顔を出した途端、お互いに目が合った。


その瞬間、僕たちは思わず声を出して笑い合った。






♦︎♦︎♦︎♦︎♦︎♦︎






銭湯の湯は、思っていたよりずっと心地よかった。


気づけば僕たちは、誰もいないことをいいことに、湯船の中で足を伸ばしながら、その瞬間を堪能していた。


大都会のど真ん中にある月見湯。


けれどそこは、どこか異世界みたいだった。

いや、この場合は、秘湯という言葉の方が合うのかもしれない。


秘湯は、疲労と冷えにどっぷり浸かった僕たちの身体を、内側からゆっくり温めていく。


温もりに似た何かが、胸の奥から指先までめぐっていく。


一生浸かっていられる。


そんなふうに思っていると、最初に口を開いたのは翼くんだった。



「いや〜、気持ち良いね〜。生き返った、生き返った♪ 湊くんもそう思わないかい?」



「そうだね。銭湯がこんなに気持ち良いなんて知らなかったよ。それに……少しだけ、幼い頃のことを思い出せたかも」



「それは、君の背中の傷に関係あるのかな……湊くん?」



翼くんのその声は、いつもの軽口とは違っていた。


落ち着いていて、湯気の奥からまっすぐ頭の芯へ届くような声だった。



「分からない……でも、今感じていたのは、そんなネガティブな想いじゃないんだ。誰かに包まれているような、温かくて、どこか懐かしい……そんな感じかな。なんか、変だよね。あはは……」



自分でも変なことを言っていると思った。


場の空気がおかしくなるのが嫌で、笑って誤魔化そうとした。


けれど、隣で湯に浸かっている翼くんは、笑わなかった。

軽口で茶化してくることもなかった。


それどころか、彼は少しだけ嬉しそうに目を細めた。



「そんなことないよ。良いことじゃないか」



湯気の向こうで、翼くんが自分の肩へ視線を落とす。



「俺なんてさ、湊くんにこれを見られた時、終わったーーーって思ってたんだよ?」



「……終わった?」



「うん。普通さ、引くじゃん? 傷だらけで、タトゥーまで入ってて。けど湊くんは、自分の背中を見せてくれた。あれさ、驚きが一周回って、喜びに変わったんだよ」



翼くんは、少し照れくさそうに笑った。



「俺と湊くんは、やっぱり出会うべくして出会った心友≪しんゆう≫なんだなってねっ♪ へへっ」



そう言いながら、翼くんは手のひらに湯を溜め、水鉄砲みたいにぴゅっと飛ばして遊び始めた。


その子供みたいな仕草を見て、僕は純粋に思った。


彼と友達になれて、よかった。


だからこそ、もう一歩だけ先へ踏み込んでみようと思った。



「そのタトゥー……傷に合わせて入れたの?」



その一言に、水遊びをしていた翼くんの手が止まった。


湯面に小さな波だけが残る。


やがて彼は、静かに語り始めた。



「前にも言ったけどさぁ、俺は十二歳になるまでは、ずっとインドに住んでたんだ」



翼くんの声は、軽かった。

けれど、その軽さの奥に、湯では温めきれないものが沈んでいる気がした。



「物心ついた時から、朝から晩まで仕事、仕事。稼いでこないと、養父≪クソジジイ≫に殴られたり、蹴られたりしてさ。ほんーーーと、痛かったんだ」



彼は、左胸から肩へと伸びる黒い羽根のタトゥーを見ていた。


けれど、その表情には曇りがなかった。

むしろ、どこか誇らしさすら感じる。



「そんな時に出会ったのが、組長≪オヤジ≫さ」



翼くんは、湯気の向こうで目を細めた。



「組長≪オヤジ≫言ったんだ」



『オメーのその眼が気に入った。俺の養子≪ガキ≫になる気はねーか?』



「だから俺は、すぐに言った。はい、ってね」



翼くんは笑った。



「こんな肥溜めみたいな場所から出られるなら、どこだって天国だって思った。だから俺にとって、この傷は痛みだけじゃない。組長≪オヤジ≫に見つけてもらえた証なんだ」



そう言って、彼は自分の胸元に指を当てる。



「このタトゥーもさ、傷を隠すためじゃないんだよ」



「隠すためじゃない……?」



「うん」


翼くんは、いつもの人懐っこい笑顔で言った。



「傷から翼を生やすためのもんだよ」



その言葉に、僕は何も返せなかった。


正直、羨ましいとさえ思った。


翼くんは多くを語らなかった。


でも、その裏にはきっと、言葉にできないほどの痛みを、いくつも重ねてきたのだと思う。


それなのに、彼はこんなにも堂々としている。


そうか。


分かった。


僕は、自分を翼くんに重ねていたんじゃない。


彼に憧れていたんだ。


いつだって、誰に対してだって、自分らしく芯を持って接する姿に。


たとえそれが誤解を生むことがあっても、彼はぶれない。


折れない。


自分の傷さえ、背負って立っている。


僕は、この傷に向き合えずに、ずっと拗ねていた。


いつできたかも分からない跡≪きず≫なのに。


自分の知らないところで、誰かに貼られる悪口≪レッテル≫に怯えていた。


けれど、そんなのは関係ないのかもしれない。


この傷もまた、僕の個性なのだとしたら。


だったら、目を逸らさずに、とことん付き合っていけばいい。


そうすれば、いつか翼くんみたいに、誇りに思える日が来るのかもしれない。


そう思ったのが、銭湯の効果なのか、翼くんの言葉のせいなのかは分からない。


ただ、肩の荷が下りたように、少しだけ胸の奥が楽になった気がした。


すると。



「何、一人でニヤけてんだよ、兄弟≪ブラザー≫」



翼くんが、手で作った水鉄砲で、僕の顔に湯をかけてきた。



「うわっ!」



思わず顔面にくらって、僕も応戦する。


ぴしゃり、と湯が跳ねる。



「何かいいことでもあったのかい、湊くん? さては、なんか変なこと考えてたな?」



「ちっが……違うよ!」



僕は慌てて否定して、それから少しだけ息を整えた。



「ただ……翼くんって、カッコ良いなって思ったらさ。自分が小さいことでくよくよしてたのが、バカらしくなったんだよ」


その一言に、軽口を叩いていた翼くんの動きが止まった。


驚きなのか。


喜びなのか。


それとも、銭湯の湯にやられただけなのか。


翼くんは赤くなった顔を、そのまま湯の中へ沈めた。



「あ”びっばっぼっゔぅ……ぶくぶくっ……」



「何言ってるのか全然分からないよ」



照れ隠しみたいに湯の中で泡を吐いていた翼くんだったけれど、次の瞬間、何かを閃いたように勢いよく顔を上げた。



「決めた!! 湊くん、俺と兄弟の契りを交わそうぜ!!!!」



「……兄弟の契り?」



突然のことですぐには理解できなかったけれど、正直、嬉しかった。


もちろん、返事は決まっている。


ただ、その“契り”が何なのか、僕にはいまいち分からなかった。



「アレだよ、アレ! お互いに腕を組んで、互いに注いだ盃の酒を飲むやつ! 一度はやってみたかったんだよなぁーーー」



「ははは……僕もお酒には少し興味あるけど、ノゾミがね。親代わりみたいに四六時中見守ってるから、多分……いや、1000%無理だね」



「うっわーーー、出たよコレ、優等生正論パンチ。俺、ずっと殴られっぱなしじゃん、コレ……」



翼くんは湯船の中で、子供みたいにバシャバシャと駄々をこねた。


その姿が少しおかしくて、僕は思わず笑ってしまう。


すると翼くんは、さらに何かを思いついたように顔を上げた。



「じゃあさぁ!! これはどうよ! 湊くんも、その背中にタトゥー彫るってのは? 良い彫師、紹介するよ」



「いや、それはもっと駄目なやつじゃん!! ノゾミどころか、僕、退学になるよ!!」



「なんだよ、ノリ悪いぞ湊くん。ってか、学校ってタトゥー駄目なんだね。俺、初めて知ったよ。周りの奴らはタトゥーばっかだからさ。はははっ」



翼くんの常識知らずは、この際置いておくとして。


僕は、ひとつだけ提案することにした。


盃でもなく。

タトゥーでもない。


未成年の僕たちらしい、ベタな兄弟の契りを。



「まあ、盃もタトゥーも、別の機会に残しておくとしてさ」



僕は湯船の中で、拳を高く突き上げた。



「こんなのはどう? 僕らしくて、いいと思うんだけど」



それを見て、翼くんは少年とも青年とも言えない、人懐っこい笑顔を浮かべた。



「湊くんらしいな」



そして、彼も拳を上げる。



「だから俺は……君が友達で、本当に良かったよ」



笑顔の先で、僕たちの拳が重なった。


こつん、と音が鳴る。


ただ、拳を合わせただけ。


でも、今の僕たちには、それで十分だった。



「盃はまだ無理だけどさ」



翼くんは、重なった拳を見ながら笑った。



「なら、今はこれでいい。俺とお前は、無二の親友ってことで」



その言葉は、湯気の中で、まっすぐ僕の胸へ届いた。



「……うん」



僕も笑って、もう一度、拳に少しだけ力を込める。


それは紛れもなく、僕たちの友情を酌み交わした音だった。


いつか翼くんと本当の意味で盃を交わす日は、もしかしたら、そう遠い未来ではないのかもしれない。


そんなふうに思えた。

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