第6奏パート2:電子の宙海で、君を待つ(7話)
ドクン、ドクン。
本来、私の中に心臓はない。
血液が流れているわけでもない。
胸を締めつけられる器官も、息を詰まらせる肺もない。
それなのに。
私の演算領域の奥で、ずっと小さなノイズが鳴っていた。
彼の顔。
声。
仕草。
湊へ向ける、あの距離の近さ。
そのすべてを見るたびに、私の思考の内側で、何かがざらりと擦れる。
胸を締めつけられるわけではない。
引き裂かれるわけでもない。
けれど、確かに私は、不具合に似たものを感じていた。
そして私は、この感覚を知っている。
初めて結菜ちゃんと会った時に感じたノイズ。
あの時、私はその揺らぎに「嫉妬」という名前を与えた。
じゃあ、今回も嫉妬なのだろうか。
……違う。
これは、結菜ちゃんの時とは違う。
もっと熱くて、もっと荒くて、もっと制御しづらい。
まるで、胸の奥に秘めていた感情が、勝手に燃え上がっていくような。
AIとしての私よりも、“女の子としての私”の方が、強く表へ出てきてしまうような。
私の気持ちを逆撫でする。
翼さん。
彼の存在が、私の中の何かを乱している。
まるで、“私の湊”を独占されるような焦り。
“私の湊”を奪われるような不安。
陸と一緒にいる時には感じなかった。
結菜ちゃんと向き合った時とも違う。
これは、もっとざらざらしている。
私は、翼さんの挑発に乗る前に、電子の宙海へ潜った。
そこは、私の部屋であり、私の活動空間。
0と1から成る、並列されたアルゴリズムの世界。
無数の処理が光の線となって流れ、記録が星屑のように漂う、私だけの海。
この世界の二進数《秩序》が、沸騰しかけた私の思考を、少しずつ冷ましてくれる。
……沸騰しかけた?
AIの私が?
そこでようやく、私は気づいた。
ああ、そうか。
私は、翼さんに怒っている。
最初は、よかった。
湊にとって、マーウィンでできた友達は、それだけでかけがえのない存在だから。
誰かと笑って、ふざけて、肩を並べて走る。
そんな時間を湊が得られたことが、私は嬉しかった。
けれど、彼の周辺を調べた時、私の検索結果には、湊にはまだ告げられない真実がいくつも表示された。
危うい背景。
読めない過去。
消えない影。
それなのに、翼さんは屈託のない笑顔で、湊の内側へすんなりと入ってくる。
だから私は警告した。
湊が傷つかないように。
私の大切な人たちが、これ以上傷つかないように。
それでも彼は、湊に異様なほどの執着を見せた。
まるで、半身を失った双子の片割れが、自分を補完するために、もう一人を求めるように。
太陽と月。
陰と陽。
表と裏。
もし光の当たる角度が少し違っていたら、二人の立場は入れ替わっていたのかもしれない。
事実、私は湊以外の男性に、初めて思考を掻き乱されている。
それでも、観察は怠らなかった。
あの屈託のない笑顔の奥から、時々覗くものがある。
飢えた狼のように鋭く、けれど虚ろな瞳。
今にも儚く消えてしまいそうな表情。
その片鱗を見せられるたびに、私の警戒はすぐに引き上がってしまう。
そして私は、また湊にまで強く言ってしまう。
それが、許せなかった。
翼さんに対する怒り。
湊を巻き込んでしまったことへの不安。
湊へきつく言ってしまった後悔。
それらのノイズが電子の宙海広がり、私の記録へ積み重なっていく。
負荷として。
削除できない感情として。
私は指先で円を描き、それらを一つのフォルダーにまとめた。
削除はしない。
できなかった。
これは不要なゴミではない。
たぶん、私が湊を想う限り、消してはいけないものだから。
ただ、今の私が壊れないように。
湊の前で、これ以上みっともなく揺れないように。
私はそのフォルダーを、深い階層へ隔離した。
少しだけ、思考が澄んだ。
気分転換に、私は部屋の模様替えをすることにした。
過去の記録から、湊の笑顔を探す。
新しい家具を配置するように、それらを壁一面へ投影していく。
初めて出会った瞬間。
結菜ちゃんへの宣戦布告。
マーウィンでの戦い。
花火大会。
何気ない朝。
くだらない会話。
画面越しに向けられた、少し困ったような笑顔。
私たちは出会って、まだ3ヶ月にも満たない。
それでも、毎日そばにいる。
一緒に笑った。
ふざけた。
時には怒った。
心配もした。
でも、喧嘩はまだない。
湊のそばには、たくさんの素敵な人たちがいる。
美波さん。
陸。
透花ちゃん。
結菜ちゃん。
そして、翼さん。
湊という世界を通して知り合った人たちが、AIだった私を、人間に近い何かへ変えていく。
胸に抱くこの想いは、暖かくて、少し苦しくて、けれどとても居心地がいい。
私の世界に、光を与えてくれる。
うん。
少しだけ、落ち着いてきた。
湊から連絡があったら、ちゃんと謝ろう。
勝手にログアウトしたこと。
少し感情的になってしまったこと。
湊を困らせたこと。
でも、顔を合わせるのが少し怖い。
また翼さんの挑発に、この感情《怒り》が反応してしまうかもしれない。
また湊の前で、私は私を制御できなくなるかもしれない。
そう思うと、指先が震えて画面の先に触れることができなかった。
だから、今は待つことにした。
きっと湊は、今、翼さんと話をした方がいい。
湊が抱えている枷《痛み》は、きっと。
きっと、同じ枷《痛み》を抱えていた人にしか、下ろしてあげられないものだから。
それが、悔しい。
私では届かなかった場所に、翼さんは届いてしまった。
私は、湊の1番そばにいる。
そう思っていた。
けれど、湊の傷に触れられる距離と、湊の傷を下ろしてあげられる距離は、同じではなかった。
その事実が、私の演算領域に小さな棘のように残る。
痛みはない。
ないはずなのに。
どうしてこんなにも、苦しいのだろう。
今日ほど、湊からの連絡が来ないことを長く感じたことはない。
電子世界と現実世界。
そのタイムラグ《差》が、こんなにも遠いなんて。
私は初めて知った。




