第6奏 パート2:雷鳴の中で、ふたりがみたもの(第6話)
九月の中頃。
夜はもう、夏の名残を手放しかけていた。
昼間に蓄えられた熱は、ゆっくりと地面から逃げていき、代わりに乾いた冷気が肌のすぐそばまで降りてくる。
風はやさしい。
けれど、確かに変わっていく。
カブを走らせながら空を見上げると、星は夏よりも少しだけ鋭く、澄んで見えた。
濡れた服の上から羽織ったレインポンチョの中で、僕は小さく肩をすくめた。
♦︎♦︎♦︎♦︎
僕たちは夜の学校を出て、濡れた服のまま、バイクを停めていた場所へ戻っていた。
思っていたよりも、ずっと寒い。
けれど翼くんは、そんなことなど少しも気にしていないように、前を歩きながら鼻歌まじりに言った。
「湊くん、銭湯って行ったことある?」
「多分……あるけど……この時間に、それに、ずぶ濡れで行くのは初めてだよ」
『当然です。普通はそんな経験、しません!』
スマホの画面越しに、ノゾミがまだ怒っていた。
怒っている、というより、心配しすぎて言葉が尖っている。
「まあまあ、ノゾミちゃん。男にはな、湯で流さなきゃいけない夜ってもんがあるんだよ」
『あなたの場合、まず流すべきは反省です』
「はいはいまた出た。優等生AIの正論パンチ」
翼くんは、いつもの軽口で笑った。
その笑い声は、さっきまでのプールの水音をまだ含んでいるみたいに、少しだけ弾んでいた。
バイクを停めていた場所まで戻ると、ノゾミがきっぱりと言った。
『二人とも。そのままバイクに乗るのは禁止です』
「えぇ〜。銭湯、近いんでしょ? ちょっとくらい――」
『ちょっとでもダメです。濡れた服で夜道を走れば、体温が奪われます。手も滑ります。判断も鈍ります。事故になります』
「正論パンチ、今日何発目……?」
『追加で殴られたいですか?』
翼くんが、すっと口を閉じた。
ノゾミの言っていることは正論だった。
とはいえ、身体を拭くタオルなんて、当たり前だけど、僕も翼くんも持ってきていない。
そんな様子を感じ取ったのか、ノゾミは小さくため息をついてから言った。
『湊。カブの左サイドボックスを開けてもらえますか?』
「左?」
言われるままに開けると、中には圧縮タオルと簡易防寒ブランケット、それから薄手のレインポンチョが二つ入っていた。
「……いつの間に」
『あなたたちが、私の想定外のことばかりするからです。念のため、美波さんに頼んで積んでおいてもらいました』
「ノゾミちゃん、マジでさっきから嫁っていうか母さんじゃん♪」
『翼さんは本当に黙って髪を拭いてください』
「はいはい、優等生AIの生活指導パンチね」
『湊を巻き込んだ分、あなたは三発目です』
その一言で、翼くんの顔がムンクの叫びみたいになった。
思わず笑ってしまうと、ノゾミはすかさず続けた。
『湊も笑ってないで、すぐに髪を拭く。移動は私がルートを指定します。速度は抑制。信号の多い大通りを避けすぎず、暗い裏道にも入りません。翼さんのV-MAXにも、一時的に安全ナビを共有します』
さすがにそこには、翼くんも少し不満があるみたいだった。
「えぇ〜。俺のV-MAXにまで口出すの?」
『当然です。今のあなたの信用値は、ブラジルに届くくらい最低です』
「ひどっ!? ってか、ブラジル人に悪いでしょ!!」
「うん、ブラジル人は悪くないよ。今回は翼くんが悪い」
「湊くんまで!?」
あはは、と僕が笑う。
ノゾミも画面の向こうで、少しだけ口元を緩めた気がした。
それにつられるように、翼くんも濡れた前髪をかき上げながら笑った。
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ノゾミが指定したルートは、カブに搭載されたXRモニターに青い線となって浮かび上がっていた。
夜の街を縫うように伸びるその光に合わせて、先を走るV-MAXが少しずつ速度を落としていく。
赤く光るテールランプが、細い路地を左へ曲がった。
品川区。
戸越銀座と荏原中延のあいだ。
そこに、まるで時間から取り残されたような、小さな銭湯があった。
暖簾には、白い文字でこう書かれている。
月見湯。
「着いたよ、湊くん。俺の馴染みの湯」
「……うん」
思わず、僕は言葉を失いかけた。
絵に描いたような、昭和の下町の銭湯だった。
古びた木の引き戸。
少し色褪せた暖簾。
ガラス越しに漏れる、柔らかい橙色の明かり。
レトロ、という言葉だけでは足りない。
そこには、誰かの日常がずっと積み重なってきたような温度があった。
暖簾をくぐり、濡れた靴を脱ぐ。
番台には、いかにも頑固親父と言わんばかりの、眉間に深い皺を刻んだ強面のおじいさんが座っていた。
その鋭い眼差しが、品定めするように僕を見る。
少し身構えた僕の前に、翼くんがいつもの軽さで入った。
「いつも急に来て悪いね〜、源さん」
「気にするなって、若! 先代も昔はしょっちゅう、揉め事のあとに子分を連れて来たもんだよ」
かっかっか、と景気よく笑いながら、源さんは立派な顎髭を撫でた。
見た目よりずっと、話のわかりそうな人だった。
そんな僕の様子を感じ取ったのか、翼くんが振り返る。
「湊くん。この人は源さんって言って、爺さんの幼馴染なんだよ。俺らは昔から世話になっててさ。顔はおっかねーけど、良い人なんだよ♪」
「顔がおっかねーは余計だよ、若! このヤロー♪」
源さんが翼くんの頭を軽く小突く。
「痛いよ〜源さん〜」
そう言いながら笑う二人は、まるで祖父と孫みたいに見えた。
少しだけ、羨ましいと思った。
僕にはお婆ちゃんはいるけれど、お祖父ちゃんはいない。
母さん方のお祖父ちゃんには、幼い頃に会ったことがあるらしい。けれど、僕の記憶には残っていない。
まして、父さん側のことは、ほとんど話にも上がらない。
勢いで銭湯に来てみたけれど、いざこうして中に入ると、背中の傷が疼くような気がした。
今思えば、父さんも母さんも、僕のこの傷を気にしていたのかもしれない。
だからプールにも銭湯にも……あまり連れて行かなかったのだと思う。
そんなふうに考えていると、翼くんの明るい声が飛んできた。
「湊くーーん。風呂上がりに一杯やろうと思うんだけど、コーヒー牛乳派? それともイチゴ牛乳派?」
「えっ? あっ……コーヒー牛乳かな」
「だよね〜、俺も♪ 俺たちってやっぱ気が合うよな! ってか、寒むっ! 早く温まろうぜ。風邪引いたら、ノゾミちゃんにまた怒られるからさ♪」
少年みたいに軽やかに笑いながら、翼くんは脱衣所へ向かっていく。
頭では、わかっていた。
このまま進めばいい。
服を脱いで、湯に入って、温まればいい。
それだけのことだ。
なのに、身体が動かなかった。
その時、僕はようやく気づいた。
この傷を見た翼くんが、どんな顔をするのか。
それが、怖いのだと。
子供の頃から向けられてきた、好奇の目。
同情。
沈黙。
そして、ほんの少しの悪意。
それらが一度に胸の奥からせり上がってきて、心臓が早鐘のように鳴り始める。
耳元で警鐘が鳴っているみたいに……。
『湊……大丈夫? 心拍の変化が、こっちにも伝わってきてるよ。やっぱり今日は、無理せず断ったほうが――』
ノゾミの声が最後まで届く前に、僕は目の前の光景に息を呑んだ。
翼くんが、何でもない顔でTシャツを脱いだ。
その瞬間、褐色の引き締まった身体に、黒い羽根のタトゥーが広がっているのが見えた。
胸元から肩へ。
肩から腕へ。
流れるようなその意匠は、ただ綺麗なだけじゃなかった。
肌に残る無数の傷跡に沿うように、ひび割れた線と羽根の模様が絡み合っている。
まるで傷そのものから、翼が生えてきたみたいだった。
僕の様子に気づいたのか、それまで少年みたいに軽快だった翼くんの顔が、少しだけ曇った。
彼は脱衣所の合わせ鏡の前で、自分の姿を見ていた。
どこか遠くを見るように。
まるで、自分自身を見失わないように。
「やっぱり初見だとビックリするよね〜。まぁ、これは……ちょっとね♪」
合わせ鏡越しに、お茶目に舌を出して誤魔化す。
けれどその顔には、いつもの軽さでは隠しきれない憂いがあった。
ああ。
やっぱり。
翼くんも、人には言えない何かを抱えている。
そう思った。
それでも彼は、僕に見せた。
気にしていないふりをして。
笑いながら。
でも、逃げずに。
それはきっと、彼なりの信頼だった。
信用、というより、もっと不器用で、もっと熱いもの。
だから僕も、応えたいと思った。
震える足で、一歩だけ前へ出る。
僕は合わせ鏡越しに、まるで翼くんの対になるようにそこに立ち、上半身の服を脱いだ。
「ちょっ……どうしたの? 湊っ……くん?」
翼くんの声が、途中でわずかに止まる。
その反応だけで、やっぱりこの背中の傷に思うところがあったのだとわかった。
そう思った、その瞬間だった。
「湊くんって、やっぱり最高にクーーールだね♪」
翼くんは、嬉しそうに笑ってくれた。
「やっぱり俺たちって、似たもん同士じゃん♪」
次の瞬間、彼は何のためらいもなく僕に抱きついてきた。
「ちょ、翼くん……!」
僕が動揺していると、合わせ鏡の洗面台に置いていたスマホが、青く光った。
『翼さん! 湊が困惑しています。距離が近すぎます!』
「アレ? ノゾミちゃん、焼き餅焼いちゃってる? 俺にもちょうだい♪」
『焼いてません。あげません。そもそも餅ではありません。なんなんですか、もう……! 湊も、なんとか言ってください』
画面の向こうのノゾミは腕を組んで怒っていた。
けれど、どこか様子が変だった。
こちらに背を向けている。
いつものように正面から怒るのではなく、少しだけ、画面の端に視線を逸らしている。
「そう……だね。汗もかいてベタベタしてきたし、そろそろ入ろうか」
「ってことで、俺たちは男同士の湯の付き合いがあるから、ノゾミちゃんは待っててね♪」
『結構です。私はAIですので、浴室に入る必要はありません。それに、湊の健康管理データなら私が一番よく把握しています。翼さん“なんか”に張り合う理由はありません。ふん!』
そう言い残すと、スマホのXRの光は静かに閉じた。
やれやれ。
帰ったら、またノゾミに説教されるかもしれない。
そう思うと少し気が重い。
けれど今は、まずこの銭湯を楽しむことにしよう。
それに。
翼くんの本当のことも、少しだけ知りたかった。
そうして僕たちは、湯煙の立ちのぼる浴室へと入っていった。
そこには、僕が思っていたよりもずっと熱く、そして冷たい、翼くんの過去が待っていた。




