第6奏 パート2:雷鳴の中で、ふたりがみたもの(第5話)
いつもの軽口を終えた僕たちは、GS新宿店を後にした。
翼くんが「このあと行きたい場所がある」と言うから、てっきりすぐに目的地へ向かうのかと思っていた。
けれど、彼がまず向かった場所は――。
「いや〜、やっぱ腹が減ってはなんとやらだよね〜♪ まずは腹ごしらえしよう、湊くん!」
麺々亭だった。
カウンター席に並んで座るなり、翼くんはチャーシューマシマシのラーメンを注文した。
さらに餃子を2人前。
それだけでも十分多いはずなのに、彼は熱々のチャーシューを一気に口へ運んで、はふはふと息を逃がしながら、幸せそうに頬をゆるませている。
「うっま……なにこれ。麺々亭、ヤバくない?」
「そんなに?」
「そんなに。俺、新宿を舐めてましたわ、マジで」
翼くんは箸で掴んだチャーシューを、なぜか僕の前に差し出してくる。
「って、意外だった?」
「……うん。翼くん、こういう店、普通に詳しいのかと思ってたから」
「あー、まあねぇ」
翼くんはラーメンの湯気越しに、少しだけ目を細めた。
「俺、12歳まで海外にいたからさ。実質、日本に来て今年で5年目なんだよね。新宿も、最近までは色々あってあんま来なかったし」
「色々?」
「不可侵条約。まあ……俺たち“界隈”での取り決めみたいなもんかな。湊くんは気にしなくて大丈夫!」
さらっと言うには、少しだけ物騒な言葉だった。
けれど翼くんは、それ以上説明するつもりがないらしい。
すぐに店主へ顔を向ける。
「おじちゃん、餃子もう2人前追加で!」
「まだ食べるの?」
「食べるよ? このあと動くし」
「このあとって……」
「行きたい場所、複数あるんだよね♪」
翼くんは上機嫌だった。
よほどこのラーメンと餃子が気に入ったらしい。
そういえば、さっきスマホで見せられた電子免許証には、彼の本名が表示されていた。
翼・ツゥンダーハマ・山本。
薄々感じてはいたけれど、やっぱり彼はハーフらしい。
けれど、その名前の響きよりも、僕の印象に残ったのは、翼くんがラーメンを食べる時の顔だった。
まるで、初めて宝物を見つけた子どもみたいな顔。
「またマーウィンのあと、ここ来ようよ。湊くんのチームメイトにも会いたいしさ」
「みんな驚くと思うよ」
「いいじゃん。驚かせるの好きだし」
そう言って笑う翼くんは、いつも通り軽かった。
でもその軽さの奥に、さっきから何かが引っかかっている。
僕はそれをまだ、うまく言葉にできなかった。
ラーメンを食べ終えたあと、翼くんが次に指定した場所は、僕の学校だった。
華金の20時半過ぎ。
GS新宿店の地下ピットを抜けると、新宿三丁目の夜はまだ熱を帯びていた。
ビルのガラスにネオンが流れ、明治通りの車列が赤い光の川になって南へ伸びている。
前を走る翼くんが、ヘルメット越しにこちらを振り向いた。
「湊くん、学校まで競争だ」
「え、ちょっと――」
言い終える前に、翼くんのバイクが夜の光を切るように前へ出た。
もちろん、本当の意味で競争なんてできるわけがない。
ノゾミがAIカブの安全制御を解除するはずもないし、そもそも公道で無茶をする気もない。
それでも。
前を行く翼くんの背中を見た瞬間、僕の胸の奥で、子どもの頃の何かが弾けた。
「……負けるかよ」
右手がアクセルをひねる。
AIカブのモーター音が少しだけ高くなり、渋谷へ向かう光の帯が後ろへ流れていく。
『湊! 速度、ちょっと……上げすぎ! 安全制御は絶対に外しませんからね!』
イヤホン越しに響くノゾミの怒った声。
けれど、その声すら風に混じって、どこか甘く聞こえた。
渋谷の光。
二四六の夜。
三軒茶屋へ続く都市の鼓動。
僕はハンドルを握りしめたまま、ただ前を走る翼くんの背中だけを追いかけていた。
やがて、僕たちは校門の前に着いた。
私立世田谷翔陽総合学園。
2038年の今年、創立百周年を迎える都内屈指の老舗校。
自主性と探究心、そして“考える力”を重視する自由な校風で知られている。
少子化の影響もあって、2020年以降は進学科や普通科だけではなく、芸能科や技術サイエンス科も設立された。
今では全学年あわせて3000人を超える、都内でも有数のマンモス校だ。
夜の校舎は、昼間とはまるで違って見えた。
正門の向こうに広がる校舎の窓は、ほとんどが暗い。
けれど、外灯に照らされた時計塔と、校庭の奥に見える体育館の輪郭だけが、青白い月明かりの中に浮かんでいる。
その前で翼くんは、愛車のV-MAX2038.WINGにまたがったまま、火のついていない細い煙草を指先でくるくると回していた。
『翼さん』
スマホから投影されたノゾミの声が、静かに低くなる。
「なあに〜い」
『それ、しまってください』
「まだ火つけてないじゃん」
『しまってください』
「はいはいまた出た。優等生AIの正論パンチ」
翼くんは不満そうに口を尖らせながらも、両手を上げるようにして煙草をケースに戻した。
「うっひょ〜。ここが噂の“世田学”ね。いや〜、聞いてた通りデカい、デカい」
翼くんは校門の向こうを眺めながら、子どもみたいに目を輝かせていた。
「うちの”メンバー”にも世田学の卒業生がいるんだよ。今年、100周年なんだっけ?」
「うん。11月の建校記念日に合わせて、大きい行事をやるって聞いてる」
「へぇ……いいねぇ。学校っぽい」
「いや、学校だから」
「そういうの、憧れるんだよ」
その言葉だけ、ほんの少し声の温度が違った気がした。
「それで……このあとどうするの?」
僕は校門を見上げる。
「見ての通り、夜は閉門してるし、AIセキュリティもある。まさか――」
「ビンゴ♪」
翼くんは僕のスマホに向かって、にっこり笑った。
「ねぇ、ノゾミちゃん」
投影されたノゾミの姿が、満月の光を受けて、どこか幻想的に揺れていた。
けれど、その表情はまったく幻想的ではなかった。
『だめです』
即答だった。
「まだ何も言ってないじゃん」
『言う前から分かります。だめです。絶対に、だめです』
ノゾミは翼くんに向かって、ぴしっと人差し指を向ける。
『湊に道交違反まがいのことをさせかけたうえに、不法侵入までさせるつもりですか? 何かあったら、私は美波さんに顔向けできません』
「いや〜、そこを上手くごにょごにょっとさ」
『ごにょごにょしません』
「校舎には入らないから。一回だけでいいんだよ。遊びたい場所があるだけ。お願いノゾミちゃん、一生のお願い!」
翼くんは両手を合わせて、拝むようなポーズを取る。
その顔は、ずるいくらい愛くるしかった。
たぶん、僕が女性だったら、この顔で頼まれたらつい許してしまうかもしれない。
でも、そこで譲らないのがノゾミだった。
『その顔をしても、だめなものはだめです。それに翼さん、その“一生のお願い”、湊と出会ってからすでに10回以上使っています』
「記録してるの怖っ」
『当たり前です。私はAIですから。まったく……AIを便利な猫型ロボットか何かと勘違いしていませんか?』
ノゾミが珍しく感情的になっている。
校門の前で、投影されたノゾミに説教されながら正座させられている翼くんの姿は、あまりにもシュールだった。
僕が思わず笑いそうになると、ノゾミがじろりとこちらを見る。
『湊も笑っていないで、翼さんに何か言ってください』
「え、僕?」
『そうです』
ノゾミの腕組みは、明らかに怒っている時のそれだった。
僕は少し迷ってから、翼くんを見た。
「翼くん。本当は、何がしたいの?」
その問いに、翼くんの笑顔が少しだけ止まった。
夜の校門前に、車の走る音だけが遠く聞こえる。
翼くんは視線を校舎へ向けたまま、ぽつりと言った。
「俺さ……ずっと海外の、それも貧しい場所で育ったんだよね」
さっきまでの軽さが、少しだけ薄くなる。
「物心ついた頃には、もう働かされてた。読み書きは何とかできるけど、学校に通ったことはない。同世代の“まともな友達”なんかいなかった」
僕は何も言えなかった。
翼くんは笑っていた。
でもその笑顔は、いつものように弾けるようなものではなかった。
月を見上げる横顔に、ほんの少しだけ影が落ちている。
「だからさ。湊くんの話す学校生活とか、友達とか、行事とか……そういうの、ちょっと羨ましかったんだ」
「翼くん……」
「俺にも、そういう選択肢があったらなぁって。たまに思うんだよね」
その一言は、思っていたより深く胸に落ちた。
学校なんて、僕にとっては当たり前にある場所だった。
朝起きて、制服を着て、友達と会って、授業を受ける。
面倒くさい日もあるし、逃げ出したい日だってある。
でも、その当たり前を、翼くんは持っていなかった。
ノゾミも、何かを感じたのだと思う。
怒っていた顔が、少しだけ揺れた。
『……学校に、行ってみたかったんですね』
「うん」
翼くんは、子どもみたいに素直に頷いた。
「湊くんと」
その言葉で、胸の奥が少しだけ熱くなる。
「ノゾミ」
僕は静かに言った。
「違法行為が良くないのは分かってる。でも……今日だけ、少しだけ。翼くんに見せてあげられないかな」
『湊まで……』
ノゾミは困ったように眉を下げる。
しばらく、何も言わなかった。
その沈黙の間、僕はノゾミの表情を見ていた。
彼女はきっと、正しさと、優しさの間で迷っている。
僕を守るために止めるべきなのか。
それとも、僕が今、誰かのために何かをしたいと思った気持ちを、守るべきなのか。
そのどちらも、ノゾミにとっては大切なものなのだと思う。
やがて、ノゾミは小さく溜め息をついた。
『まったく。翼さんは策士ですね。湊を出しに使うなんて』
「え、バレた?」
『バレバレです!』
翼くんがこっそり舌を出す。
やっぱり全部が本音というわけではないのかもしれない。
でも、全部が嘘でもない。
それが、翼くんという人なのだと思った。
ノゾミはもう一度だけ、校門の奥を見た。
それから、静かに言った。
『条件があります』
その声に、翼くんの顔がぱっと明るくなる。
『校舎内には入りません。正門も使いません。侵入記録を完全に消すこともしません。外部工事用通路に残っている夜間メンテナンス用の導線へ、一時的にアクセスするだけです』
「つまり?」
『10分だけ。屋外通路とプールサイド周辺まで。危険行為は禁止。物を壊したら即終了。私の指示に従わなければ、2度とこういうお願いは聞きません』
「ノゾミちゃん……!」
『あと』
ノゾミの目が、翼くんをまっすぐ射抜く。
『私は、"湊を”犯罪者にするためにいるんじゃありません。……そこは、忘れないでください』
その言葉は、翼くんだけに向けられたものではなかった。
僕にも、そしてノゾミ自身にも向けられている気がした。
「……うん」
翼くんは、さっきより少しだけ真面目な顔で頷いた。
「ありがと、ノゾミちゃん」
『お礼は結構です。私は今、ものすごく怒っています』
「怒りながら助けてくれるタイプの優しさ?」
『本当に、あなたはずるい人ですね』
ノゾミは、見えないキーボードに触れるように、小さく指を動かした。
数秒後、正門から少し離れた裏手の工事用ゲートの端に、小さな青い認証灯が灯った。
それは解除というより、眠っていた抜け道に、そっと明かりがともるような光だった。
僕たちは正門ではなく、裏口から学校へ入った。
そのことが、少しだけ胸に引っかかった。
普通の生徒は、朝、正門から学校に入る。
でも翼くんは、この夜、裏口から入る。
それでも彼の隣には、僕がいた。
その事実が、なぜかとても大切なものに思えた。
外部工事用通路は、校舎の裏手をぐるりと回るように続いていた。
足元には仮設ライトが並び、フェンスの向こうにグラウンドと体育館が見える。
昼間なら、何気なく通り過ぎてしまう景色。
でも夜の学校は、まるで別の世界だった。
「すげぇ……」
翼くんが小さく呟く。
「学校って、夜だとこんな感じなんだ」
「普通は夜に来ないからね」
「だからいいんじゃん」
翼くんはそう言うと、急にこちらを振り向いた。
「湊くん」
「なに?」
「鬼ごっこしよ」
「は?」
「10秒ハンデ。俺が鬼」
「いや、ノゾミが――」
『許可しません』
「じゃあ3秒」
『秒数の問題ではありません』
「2秒」
『交渉しないでください』
そんなやり取りをしていた次の瞬間、翼くんはもう走り出していた。
「待って、翼くん!」
「捕まえてみなよ、湊くん!」
仮設ライトの間を、翼くんが風みたいに駆け抜ける。
僕は呆れながらも、気づけばその背中を追いかけていた。
『湊! 走らない! 足元、工事用ケーブルがあります!』
「分かってる!」
分かっている。
分かっているのに、止まれなかった。
夜の学校。
月明かり。
誰もいない通路。
前を走る、友達の背中。
それは、僕が知っている学校とは少し違っていた。
でも、なぜか懐かしい気がした。
翼くんが笑う。
「あはははつ、湊くん、遅い遅い!」
「そっちこそ、逃げるの上手すぎ!」
「逃げ足だけは昔から得意でね!」
その一言に、少しだけ胸が引っかかる。
けれど翼くんは、それ以上何も言わず、屋外プールへ続くフェンス沿いの通路へ飛び出した。
プールには、まだ水が張られていた。
月が水面に映り、青白く揺れている。
「ここ、夏に使うの?」
「うん。授業でも使うし、部活でも」
「いいなぁ」
翼くんはフェンス越しに水面を見つめた。
その横顔は、さっきまで走り回っていた人と同じとは思えないほど静かだった。
「俺にもさ、こういう場所があったら……」
そこで言葉を止める。
そして次の瞬間、いつもの笑顔に戻った。
「ま、湿っぽいのはここまで!」
「え?」
「湊くん、隙あり!」
翼くんが急に僕の肩を軽く叩いて逃げる。
「ちょ、待って!」
僕も反射的に追いかけた。
プールサイドは、夜露で少しだけ濡れていた。
ノゾミが何か叫んだ気がした。
『2人とも、そこは滑り――』
その声が終わるより早く、翼くんの足がつるりと滑った。
「うわっ」
僕はとっさに手を伸ばす。
けれど、掴んだはずの腕に引っ張られて、僕の足元も同じように滑った。
一瞬、視界が空を向く。
満月が見えた。
その次の瞬間。
ばしゃん、と大きな音が夜のプールに響いた。
冷たい水が、全身を包み込む。
「っ、冷た……!」
「ははっ、やっべ!」
水面から顔を出した翼くんが、びしょ濡れのまま笑っていた。
銀色の髪が額に張りついて、いつもの危うさが少しだけ幼く見える。
僕も水を吐きながら、思わず笑ってしまった。
「何やってるの、僕たち」
「青春?」
「最悪の青春だよ」
「でも、最高じゃん」
翼くんはプールの中で、夜空を見上げた。
そして、小さく言った。
「学校って、こんなに楽しいんだな」
その声が、さっきまでの笑い声よりもずっと静かで。
僕は何も言えなくなった。
直後。
『2人とも』
ノゾミの声が、恐ろしく低く響いた。
プールサイドに投影された彼女は、満面の笑顔だった。
でも、その笑顔が一番怖い。
『今すぐ上がってください。正座です。説教です。濡れたままバイクに乗るなんて論外です。風邪を引いたらどうするんですか。あと翼さん、あなたは本当に――』
「「ごめんなさい」」
僕と翼くんの声が、綺麗に重なった。
それでも、翼くんは水面に浮かびながら、にやりと笑う。
「じゃあさ、ちょうどいいじゃん」
「何が?」
「俺の馴染みの銭湯、近いんだよ」
「銭湯……?」
「そ。こういう時は、広い風呂で全部流すのが一番」
翼くんは濡れた前髪をかき上げる。
月明かりを受けたその笑顔は、さっきまでと同じようで、少し違って見えた。
『……本当に、あなたという人は』
ノゾミは深くため息をついた。
『分かりました。ただし、移動は私が安全ルートを指定します。2人とも、風邪を引く前に行きますよ』
「さすがノゾミちゃん。頼りになるぅ〜」
『翼さんはあとで追加説教です』
「えぇ〜」
僕はプールの縁につかまりながら、もう一度、夜の校舎を見上げた。
誰もいない学校。
濡れた制服。
怒るノゾミ。
笑う翼くん。
それは、きっと間違った夜だった。
でも、翼くんにとっては、初めて触れた“学校”だったのかもしれない。
僕が見ている世界なんて、ほんの一握りだ。
校門の外で笑っていた翼くんも、プールの中で笑っている翼くんも。
その奥には、まだ僕の知らない場所がある。
そのことを、僕はこの夜、初めて思った。
そして僕たちは、濡れた身体を抱えたまま、翼くんの馴染みの銭湯へ向かうことになった。




