第6奏パート1:始まりの風。
新学期が始まって、もう2週間が経った。
9月の空は、まだ夏の名残を抱えたまま、その気配のどこかだけ薄くほどけはじめていた。
まっすぐ伸びる国道246号を、ペールグレーのカブがひとつ、静かに走っていく。
ハンドルを握る僕の指先には、まだ少しだけ力が入っていた。
倒れないように。ぶれないように。
そんな意識ばかりが先に立って、風を楽しむ余裕なんて、ほんの少し前まではなかったはずなのに。
『このままで大丈夫だよ、湊』
耳の奥に届くノゾミの声は、案内というより、風のつづきみたいだった。
僕は小さく息を吐く。
それだけで、肩の力が少し抜けた。
気づいたみたいに、カブがさらに滑らかに速度を乗せる。
白いシャツの裾が揺れる。
頬を撫でていく風は、夏より少しだけやさしくて、それでいて、どこまでも行けそうなくらい自由だった。
ミラーの隅で、空が細く流れていく。
道の向こうで、光っていた。
こんなふうに、景色の中へ自分ごと溶けていく感覚を、僕はまだうまく名前にできない。
ただ――ノゾミとふたりきりで、同じ風の中にいるのだと思った。
それだけで、胸の奥が少しだけ熱かった。
「ノゾミ、今日学校で陸がさ――」
少しだけ、喋る余裕が出てきた。
イヤホン越しに、ノゾミの柔らかな笑い声が返ってくる。
今までは通学といえば電車だった。
周りの目もあるし、こんなふうに気兼ねなくノゾミと話すことなんてできなかった。
景色を眺めながら、身体を通り抜けていく風を感じられるのも心地いい。
やっぱり、陸の言う通りだった。
バイク通学にしてよかった。
そう思って、思わず口元が緩みかけたときだった。
『湊?ちゃんと聞いてる?』
「うん、聞いてるよ」
『いくら私が動力を制御してるからって、気を抜いちゃだめだよ。躯体のバランスを取るのも、操縦するのも湊なんだから』
少しだけ呆れたみたいな声に、僕は苦笑する。
耳元越しに、眉を寄せているノゾミの顔が浮かぶ。
最近のノゾミは、少しだけ口うるさい。
たぶん母さんの影響もあるし、運転中の僕を任されている責任感もあるんだと思う。
だけど――嫌じゃなかった。
むしろ、そんなふうに僕のことを気にかけてくれる声まで、今は風の中に溶けて聞こえる。
『湊。この先、少しだけ右だよ』
「了解」
小さく返して、言われた通りにハンドルを傾ける。
道が、少しだけ新宿のほうへひらいていく。
信号待ちのあいだ、カブは驚くほど静かだった。
エンジンの唸りではなく、先に耳へ届くのは風の気配だ。
だからこそ、空の広さまで、すぐ近くに感じられる。
薄い硝子みたいな空だった。
そう思った瞬間、ミラーの端に映る青が、かすかに歪んだ。
信号が青に変わる。
発進した途端、アスファルトの照り返しが足もとから遅れて追いかけてきて、身体の奥へじんわりと染み込んできた。
ヘルメットの内側では、自分の呼吸だけが少し近い。
それでも、不思議なくらい息苦しさはなかった。
頬をかすめていく風が、まだ知らないどこかまで連れていってくれる気がした。
ただ、風を感じているだけなのに。
『ねえ、湊……風を感じるって、どんな感じ?』
ふいに、ノゾミがそんなことを訊いた。
「どんな感じ、か……」
うまく答えられなくて、少しだけ考える。
けれど、ぴったりの言葉はなかなか見つからなかった。
「分からない。ただ……手を伸ばしたら、どこまでも行ける気がする。そんな感じ、かな」
『どこまでも……』
ノゾミが小さく繰り返す。
その声は、少しだけ遠くて、少しだけやさしかった。
『湊、最近ね。運転してるとき、すっごくいい顔してるんだよ。だから、いいなって思って』
「いいなって?」
『うん……私も、いつか湊と一緒に体験してみたいなって』
その言葉に、胸の奥がかすかに揺れた。
ノゾミは、風を直接感じられない。
頬を撫でていく温度も、空の匂いも、アスファルトの照り返しも、僕みたいには触れられない。
それでもこうして、僕の隣にいてくれる。
「いつかじゃなくて、今だよ」
気づけば、そんな言葉が口をついていた。
『え?』
「俺は、この風と一緒にノゾミも感じてる」
言った瞬間、自分でも何を言ってるんだって思った。
たぶん、母さんの昔のドラマでも気取って真似したような台詞回しだった。
一瞬だけ、ふたりのあいだに妙な間が落ちる。
やばい。滑った。
そう思った次の瞬間、イヤホンの向こうでノゾミが吹き出した。
『あははっ……なにそれ、変な湊♡』
「笑うなよ……」
『だって、急にそんなこと言うんだもん。でも……うれしい』
最後の一言だけ、少しだけ小さかった。
ミラーの端に映る自分の顔が、たぶん赤い。
穴があったら入りたい。
でも、今ほんとうに入ったら事故になるから、それだけは勘弁してほしい。
『変わったね、湊』
不意に、ノゾミがそう言った。
「そうかな」
『うん。少しだけ……前より、やわらかくなった気がする』
その声は、からかうでもなく、ただ静かだった。
変わったのは、たぶん本当だ。
出会って、まだ3か月も経っていないのに。
季節が少しずつ色を変えていくみたいに、僕の中の何かも、知らないうちに変わっていた。
それはきっと、ノゾミがいたからだ。
明るく笑って。
冗談を言って。
ときどき少しだけ口うるさくて。
でも、肝心なところでは、誰よりもやさしい。
そんなノゾミのそばにいれば、嫌でも少しずつ変わっていく。
季節が移ろうように。
風向きが変わるように。
たぶん、人もそうやって変わっていくものなんだと思う。
それでも、変わらずに残るものもある。
ノゾミと一緒に感じた、この“はじまりの風”を。
たぶん僕は、ずっと忘れない。
ペールグレーのカブは、今日も静かに道を走っていく。
ミラーの向こうで、9月の空が光っていた。
そして、その後ろには――
いつだって、ノゾミだけの特等席がある。




