表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
43/47

第6奏パート1:始まりの風。


新学期が始まって、もう2週間が経った。


9月の空は、まだ夏の名残を抱えたまま、その気配のどこかだけ薄くほどけはじめていた。


まっすぐ伸びる国道246号を、ペールグレーのカブがひとつ、静かに走っていく。


ハンドルを握る僕の指先には、まだ少しだけ力が入っていた。


倒れないように。ぶれないように。


そんな意識ばかりが先に立って、風を楽しむ余裕なんて、ほんの少し前まではなかったはずなのに。



『このままで大丈夫だよ、湊』



耳の奥に届くノゾミの声は、案内というより、風のつづきみたいだった。


僕は小さく息を吐く。


それだけで、肩の力が少し抜けた。


気づいたみたいに、カブがさらに滑らかに速度を乗せる。


白いシャツの裾が揺れる。


頬を撫でていく風は、夏より少しだけやさしくて、それでいて、どこまでも行けそうなくらい自由だった。


ミラーの隅で、空が細く流れていく。


道の向こうで、光っていた。


こんなふうに、景色の中へ自分ごと溶けていく感覚を、僕はまだうまく名前にできない。


ただ――ノゾミとふたりきりで、同じ風の中にいるのだと思った。


それだけで、胸の奥が少しだけ熱かった。



「ノゾミ、今日学校で陸がさ――」



少しだけ、喋る余裕が出てきた。


イヤホン越しに、ノゾミの柔らかな笑い声が返ってくる。


今までは通学といえば電車だった。


周りの目もあるし、こんなふうに気兼ねなくノゾミと話すことなんてできなかった。


景色を眺めながら、身体を通り抜けていく風を感じられるのも心地いい。


やっぱり、陸の言う通りだった。


バイク通学にしてよかった。


そう思って、思わず口元が緩みかけたときだった。



『湊?ちゃんと聞いてる?』



「うん、聞いてるよ」



『いくら私が動力を制御してるからって、気を抜いちゃだめだよ。躯体のバランスを取るのも、操縦するのも湊なんだから』



少しだけ呆れたみたいな声に、僕は苦笑する。


耳元越しに、眉を寄せているノゾミの顔が浮かぶ。


最近のノゾミは、少しだけ口うるさい。


たぶん母さんの影響もあるし、運転中の僕を任されている責任感もあるんだと思う。


だけど――嫌じゃなかった。


むしろ、そんなふうに僕のことを気にかけてくれる声まで、今は風の中に溶けて聞こえる。



『湊。この先、少しだけ右だよ』


「了解」



小さく返して、言われた通りにハンドルを傾ける。


道が、少しだけ新宿のほうへひらいていく。


信号待ちのあいだ、カブは驚くほど静かだった。


エンジンの唸りではなく、先に耳へ届くのは風の気配だ。


だからこそ、空の広さまで、すぐ近くに感じられる。


薄い硝子みたいな空だった。


そう思った瞬間、ミラーの端に映る青が、かすかに歪んだ。


信号が青に変わる。


発進した途端、アスファルトの照り返しが足もとから遅れて追いかけてきて、身体の奥へじんわりと染み込んできた。


ヘルメットの内側では、自分の呼吸だけが少し近い。


それでも、不思議なくらい息苦しさはなかった。


頬をかすめていく風が、まだ知らないどこかまで連れていってくれる気がした。


ただ、風を感じているだけなのに。



『ねえ、湊……風を感じるって、どんな感じ?』



ふいに、ノゾミがそんなことを訊いた。



「どんな感じ、か……」



うまく答えられなくて、少しだけ考える。


けれど、ぴったりの言葉はなかなか見つからなかった。



「分からない。ただ……手を伸ばしたら、どこまでも行ける気がする。そんな感じ、かな」



『どこまでも……』



ノゾミが小さく繰り返す。


その声は、少しだけ遠くて、少しだけやさしかった。



『湊、最近ね。運転してるとき、すっごくいい顔してるんだよ。だから、いいなって思って』



「いいなって?」



『うん……私も、いつか湊と一緒に体験してみたいなって』



その言葉に、胸の奥がかすかに揺れた。


ノゾミは、風を直接感じられない。


頬を撫でていく温度も、空の匂いも、アスファルトの照り返しも、僕みたいには触れられない。


それでもこうして、僕の隣にいてくれる。



「いつかじゃなくて、今だよ」



気づけば、そんな言葉が口をついていた。



『え?』



「俺は、この風と一緒にノゾミも感じてる」



言った瞬間、自分でも何を言ってるんだって思った。


たぶん、母さんの昔のドラマでも気取って真似したような台詞回しだった。


一瞬だけ、ふたりのあいだに妙な間が落ちる。


やばい。滑った。


そう思った次の瞬間、イヤホンの向こうでノゾミが吹き出した。



『あははっ……なにそれ、変な湊♡』



「笑うなよ……」



『だって、急にそんなこと言うんだもん。でも……うれしい』



最後の一言だけ、少しだけ小さかった。


ミラーの端に映る自分の顔が、たぶん赤い。


穴があったら入りたい。


でも、今ほんとうに入ったら事故になるから、それだけは勘弁してほしい。



『変わったね、湊』


不意に、ノゾミがそう言った。



「そうかな」



『うん。少しだけ……前より、やわらかくなった気がする』



その声は、からかうでもなく、ただ静かだった。


変わったのは、たぶん本当だ。


出会って、まだ3か月も経っていないのに。


季節が少しずつ色を変えていくみたいに、僕の中の何かも、知らないうちに変わっていた。


それはきっと、ノゾミがいたからだ。


明るく笑って。


冗談を言って。


ときどき少しだけ口うるさくて。


でも、肝心なところでは、誰よりもやさしい。


そんなノゾミのそばにいれば、嫌でも少しずつ変わっていく。


季節が移ろうように。


風向きが変わるように。


たぶん、人もそうやって変わっていくものなんだと思う。


それでも、変わらずに残るものもある。


ノゾミと一緒に感じた、この“はじまりの風”を。


たぶん僕は、ずっと忘れない。


ペールグレーのカブは、今日も静かに道を走っていく。


ミラーの向こうで、9月の空が光っていた。


そして、その後ろには――


いつだって、ノゾミだけの特等席がある。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ