第5奏パート6 前編:花火舞い散る夜に咲く、恋の騒ぎ。 When Fireworks Bloom, So Does Love
早速、夢日記を始めてみたけれど──どうやら今日は夢を覚えていない。
ノゾミに確認してみると、昨夜の睡眠は至って健康そのものらしい。
寝言もなく、脳波も安定。
レム睡眠とノンレム睡眠の山と谷を、きれいな波のように行ったり来たりしていた、と。
大きなあくびをひとつ。
上半身を起こして、これでもかってくらいに両手を伸ばす。指先のそのずっと向こうから、カーテンの隙間を抜けた朝日が差し込んでくる。
――今日はちゃんと、花火大会やります。
そんなふうに約束してくれているみたいな、眩しい光だった。
窓を開けて、朝の空気を胸いっぱいに吸い込む。
鼻から吸って、口からゆっくり吐き出すたびに、頭の中のエンジンがゆっくりと回転数を上げていく。ぼんやりしていた意識が、現実へとピントを合わせていく。
視線の先には、クローゼットに掛かった一着の浴衣。
――父さんの浴衣。
それを見た瞬間、今日の“ミッション”を思い出す。
陸、西園寺、笠原さん。それに――ノゾミを入れた5人で、花火大会に行く。
今さらになって、ようやく気づいてしまった。
これまでの人生で、女の子たちと花火大会に行ったことなんて一度もないってことに。
……あれ? これって、もしかしてWデートってやつじゃないか?
自分の鈍感さに、思わずため息がこぼれた。
そんな僕を見て、ノゾミがクスッと小さく笑う。
「実はさ、今さらなんだけど……デート? いや、その……花火大会って、何すれば良いのかな?」
口に出した瞬間、顔から火が出そうになる。
けれどノゾミは、いつも通りの柔らかな笑みで首を振った。
「大丈夫だよ。肩の力を抜いて、いつもの湊でいいんだよ♪ 私もね、花火大会は知識でしか知らないからさ。今日がすごく楽しみなんだ」
えへへ、と照れたように笑うノゾミを見ていると、自分が必要以上に気負っていたことが分かる。
やんわりと諭されたみたいで、僕もつられて照れ笑いを浮かべた。
そのときだった。部屋の扉が、
コン、コン、コン。
と、リズミカルに叩かれた。
「あら、今日は珍しく早起きしてたのね。ノゾミちゃんも、おはよう」
母さんが顔を出す。
きっちりメイクをして、きれい目のブラウスまで着ているところを見ると、これから出かける直前って感じだ。
「美波さん、おはようございます」
ノゾミは相変わらず丁寧に、軽くお辞儀をして挨拶を返した。
「もちろん起きてるけど……どうしたの? こんなに早く部屋に来て?」
問いかけると、母さんは少しだけ申し訳なさそうに笑った。
「母さんね、これから仙台のおばあちゃんのところに行くことになってさ。もしかしたら二、三日は帰って来られないかもしれないから、留守番お願いしようと思って」
なるほど、そういうことかと僕が納得しかけたとき、ノゾミが心配そうに眉を寄せる。
「美波さん、お祖母様に何かあったんですか?」
「全然、大したことじゃないのよ。母さん――あ、湊からしたらおばあちゃんね。ぎっくり腰になっちゃって、家のことがあまり出来ないみたいなの。だから、ちょっと顔を出して様子を見てこようかなって。遅めの帰省みたいなものよ」
母さんはそう言って、ノゾミに安心させるように微笑んだ。
「良かった……。大事じゃなくて、ほっとしました」
ノゾミの表情から、不安がすっと抜けていくのが分かる。
「なら、俺も行ったほうがいいんじゃない? 父さんも居ないし、男手があったほうがさ」
「大丈夫よ。重いものを運ぶわけじゃないし、向こうにもサポートAIがいるからね。男手は無くても何とかなるの。それより、今日は……花火大会なんでしょ? 若人は若人らしく、一度しかない青春を楽しんできなさい」
教師の鏡みたいな台詞をさらりと言ってのけるあたり、さすがは僕の母さんだと思う。
「……ありがとう。でも、無理しないようにね」
嬉しさと気恥ずかしさをごまかすように、視線をそらして俯いた。
「美波さん、家のことや湊のことは、私に任せてください。それに、何かあったらすぐ連絡ください。遠隔でサポートAIの操作や、緊急時の対応も出来ますので」
ノゾミがえへっと笑いながら、敬礼ポーズまでしてみせる。
母さんはそれにすっかり感激したらしく、
「さすがノゾミちゃん♡ いつでも湊のお嫁さんになって良いんだからね♡」
と、余計なひと言を添えてくる。
ノゾミも真に受けてしまったのか、頬を朱に染めて、2人の女子トークに一気に花が咲きそうな雰囲気になる。
キャッキャと盛り上がる気配を察知して、僕は慌てて割って入った。
「あーーー、そういうのはいいから。ほら、さっさと仙台行った行った。おばあちゃんによろしくね。新幹線、行っちゃうよ。ほら、しっしっ」
手を振って追い出すような仕草をすると、母さんは呆れたように笑いながらも、玄関へと向かっていく。
「相変わらずノリが悪いんだから……。あ、そうそう、これ!」
何かを思い出したように踵を返し、母さんは小さな包みを僕に差し出した。
「お祭りには必要だから、これ持って行きなさい。きっと役に立つから。悠真さん――あなたのお父さんも最初は気づかなかったけど、あとから『あって良かった』って言ってたわ。あなただって、優しいだけじゃなくて“気の使える”男の子になりなさい」
そう言って僕にそれを手渡すと、壁のデジタル時計を見上げ、
「やばっ、もうこんな時間! タクシー呼んであるから、行ってくるわね!」
バタバタと音を立てながら、家を飛び出して行った。
手の中の包みを見つめても、正直“今”の僕には、そのありがたみがぴんと来ない。
とりあえずノゾミにも見せてみると、さっきとは打って変わって、先生みたいな顔つきで説明してくれた。
なるほど……確かに、話を聞けば聞くほど「必要になりそう」だ。
僕は頷きながら、机の上に置いてあった巾着袋を手に取る。
その中に“コレ”を入れてから、朝のシャワーを浴びに一階へ降りていった。
♦ ♦ ♦
夏至を過ぎても、新都心の夏は容赦ない。
日差しはまだ眩しくて、空には沈む気配のない太陽が居座っている。
待ち合わせの十八時になろうとしているのに、まるで最後の悪あがきみたいに、ギラギラと地上を照らし続けていた。
アスファルトの照り返しは凶悪で、コンクリートジャングルという言葉が大げさに思えないほどだ。
腰に挿しておいたうちわをパタパタと扇ぐ。
ほんの少しだけれど、顔に当たる風が心地良い。
今ごろ母さんは、無事に仙台に着いたころだろうか。
そんなことをぼんやり考えていると、背後から賑やかな声が飛んできた。
「おーーい! 湊くーーーん!! こっち、こっち!!」
雪崩のように押し寄せる人波の向こう側で、大きく手を振る影が見える。西園寺だ。
駅の出口を振り向けば、今日の花火大会を楽しみにしている家族連れやカップルで、ごった返している。人の波をかき分けて、二人の女子が僕のほうへ小走りで向かってくる。
カラン、コロン。
下駄の音が近づくたびに大きくなり、やがて僕の目の前でぴたりと止まった。
「ごめんね! 急に二駅前から混みだしちゃって、改札出るまで時間かかっちゃったの。待たせちゃったかな……?」
両手で“ごめん”のポーズを作ってから、西園寺は手をパタパタさせて、顔に風を送る。暑さのせいか、頬がいつもよりピンク色に染まって見えた。
その表情に、いつもよりずっと“女の子”を感じて、つい見入ってしまう。
「湊くん? 何か付いてる? それとも……今日の私、変……かな?」
不安そうに首を傾げる西園寺の言葉で、ようやく我に返る。
「う、ううん! そんなことないよ。僕も今来たばっかりだし!」
咄嗟に返した声は、きっと情けないくらい裏返っていたと思う。
無理もない。
正直に言えば――今日の西園寺は、反則なくらい可愛かった。
いつものツインテールはほどかれていて、浴衣に合わせた編み込みのアップスタイル。
大きな花の髪飾りと、同じ色味の柄が控えめに散った黒の浴衣。
歌舞伎町で見かけた露出の多い服装とも、学校の制服とも違う。
彼女本来の良さをそっと引き立てるような、落ち着いた黒だった。
少し上目遣いになった西園寺と目が合う。
途端に、僕は慌てて視線をそらし、彼女も同じようにそっぽを向く。言葉を失った沈黙が、ふたりの間にふわりと落ちた。
その空気を破ったのは、もうひとりの彼女だった。
笠原 透花さん。
同じクラスだが、正直あまり話したことはない。けれど、“深窓の令嬢”といっても大袈裟じゃないくらい、男子人気の高い美少女だ。
西園寺とはまた違う意味で、彼女もよく名前が挙がる。
「佐倉くん、今日は……無理言ってごめんね」
頬を少し赤くしながら、笠原さんが申し訳なさそうに笑う。
その姿に、通り過ぎていく男たちが一瞬だけ足を止め、思わず目を奪われていた。
いや、無理もない。
こんなふうに並ばれたら、誰だって見とれてしまうだろう。
太めの黒いカチューシャから伸びる黒髪は、きれいに三つ編みにまとめられていて、耳元には白い花の髪飾り。
蒼みがかった淡い青の浴衣には、落ち着いた花柄が描かれている。
西園寺の黒×赤の“熱”に対して、透花さんは青×白の“涼”。
二人が並ぶと、まるで「動と静」「熱と冷」が目の前に立っているみたいだった。
「全然、気にしなくていいよ。あ、そうだ。陸なんだけど――練習試合が長引いてて、少し遅れるって。花火大会開始の十九時には間に合うから、先に指定席で見ててほしいって」
『指定席??』
十代女子特有の少し高い声が、二つ同時に重なった。
「それについては、私から説明致しますね。こんばんは、結菜ちゃん。それに、初めまして。笠原さん」
取り出しやすいように、スマホを浴衣の帯に挟んでいた。
そのあたりから、突然ノゾミの声が聞こえてきたものだから、三人そろってビクリと体を跳ねさせる。
帯からスマホを取り出すと、そこから小さなホログラムの光が立ち上がり、ノゾミが投影される。
二人はさらに目を丸くして飛び上がった。
最初に口を開いたのは、西園寺だ。
「……こんばんは、ノゾミちゃん。ちょっとビックリしたけど、第3世代AIってそこまで進化してるの!? すごい……普通の可愛い子にしか見えないよ! ねえ、透花!?」
西園寺の背中に隠れるようにしていた透花さんも、一歩身を乗り出し、まじまじとノゾミを見つめている。
無理もない。
僕だって、先日スマホがアップグレードされたときに改めて説明を受けなければ、きっと同じように驚いていただろう。
そんなことを考えていると、ふと、周囲から刺さるような視線を感じた。道行く人々の視線は、
僕ではなく――浴衣姿の二人と、ノゾミに釘付けになっていた。
「佐倉くん、本当にありがとうね。それから、お母様にもお礼を……」
考え込んでいた僕に、透花さんがやわらかく微笑む。
気づけば3人は、すっかり打ち解けて女子高生のようなテンポで会話をしていた。
最近のノゾミの感情表現や、コミュ力お化けみたいなところには目を見張るものがあるけれど、初めて西園寺にノゾミを紹介したときのようなギクシャクもない。
僕は胸をなで下ろしながら、すこしだけ遠巻きにその様子を眺めた。
気づけば空は、オレンジ色から群青へと、じわじわ色を変えていた。
沈んでいく夕日を追いかけるように、街のあちこちで灯りがともり始める。
花火大会の会場へ向かう道には、ずらりと屋台が並んでいた。
電球が1つ、また1つと点き始め、その通りはまるで、磨き直した真鍮みたいに輝きを取り戻していく。
「わあーーー、これが出店なんだね、湊!!」
子供みたいに目を輝かせるノゾミに、思わず笑いがこみ上げる。
「そうだよ。あれが射的で、その隣がお面屋。綿あめに、焼きそば……あそこから“ジュウジュウ”って聞こえるだろ?」
屋台説明をしていると、香ばしい匂いが次々と鼻をくすぐってくる。
ソース、油、甘いシロップ……いろんな匂いが混ざって、胃袋を直撃した。
ぐぅ~~。
間の抜けたお腹の音に、一番に反応したのは透花さんだった。
「もう、結菜ちゃんったら。はしたないんだから」
クスクス笑いながらつつくと、西園寺もすかさず反撃してくる。
「わ、私じゃないんだからね!? た、確かにお腹がきつくて、浴衣が苦しくないようにお昼ご飯は抜いてきたけどさ……って、何言わせるのよ、透花!!」
慌てて弁明する西園寺の顔は、さっきまでとは比べものにならないくらい真っ赤で、今にも沸騰しそうだった。
その様子がおかしくて、僕たち四人のあいだに笑い声が弾ける。
「ごめん、ごめん。それ、僕なんだ。久しぶりに屋台の匂いを嗅いだら、お腹空いてきちゃってさ」
僕が頭をかきながら白状すると、西園寺は半分涙目で睨みつけてくる。
「あとで何か奢るから、そんなに怒らないでって。西園寺は、何が好き?」
両手を合わせて謝る僕を見て、一瞬だけ彼女の視線が泳ぐ。
俯いて、少し考えるような間を置いてから――静かに小さくつぶやいた。
「……りんご飴が、食べたい」
そのときの西園寺の横顔を、僕は今でもはっきり覚えている。
♦ ♦ ♦
18時50分。
『まもなく第18回・新江戸川区花火大会を開始致します。会場にお越しの皆様は、今しばらくお待ちください』
アナウンスが流れ、それとほぼ同時に、
「おーーーい、湊!! わりぃ、わりぃ、遅れた!」
やっと陸が合流してきた。
「試合どうだった?」と尋ねると、
「ラスト5分前に、俺のシュートで同点からの逆転勝利だよ」
と、いつもの爽やかな笑顔で親指を立てる。
「調子、戻ってきたんだな」
そう言いかけたとき、西園寺が待ってましたと言わんばかりに口を挟んだ。
「陸くんが遅すぎて、透花がお腹空いたってさっきまで怒ってたんだからねー。罰として……透花と2人で、5人分の飲み物と、なんかご飯買ってきてよねーー!」
どこか既視感のある悪戯っぽい笑顔。
笠原さんは、あたふたしながら慌てて陸のほうを見る。
陸もすぐに西園寺に両手を合わせて謝ると、透花さんと二人で人混みの中へと消えていった。
きっと、西園寺なりのやり方で、透花さんの背中を押してあげたんだろう。
今日のミッションのひとつは、これでひとまず成功したのかもしれない。
そんなことを考えながら左隣を見ると、西園寺はさっき買ったりんご飴を、ゆっくりと大事そうに口へ運んでいた。
「笠原さん、陸と一緒にお祭り回れて良かったね」
「はへぇ!?」
きっと違うことを考えていたんだろう。
西園寺の肩がビクンッと大きく跳ねた。
こほん、と咳払いをひとつ。
呼吸を整えてから、西園寺はゆっくりと口を開く。
「透花ね、実はずっと陸くんのこと好きみたいでさ。実は湊くんや陸くんと同中なんだって。知ってた? 今でこそ、ああやって私とふざけたりする仲になったけど、最初は物静かな子だから、結構勘違いされて大変だったらしいよ? でもね……さっきの顔、見た? すっごく幸せそうでさ。私、自分のことみたいに嬉しくなっちゃったな♡」
そう言って見せた西園寺の笑顔は、本当に満ち足りていて。
ノゾミとはまた違う種類の、年相応の可愛らしさがそこにはあった。
その笑顔に、僕の胸がドクンと跳ねる。
――その瞬間だった。
ドスン、と背中に強い衝撃が走った。
僕は前のめりに押し出されるようにして、左側へと大きくよろめく。
「湊!!」
ノゾミの叫び声。
咄嗟に伸ばされた彼女の手は、空を掠めるだけで僕の身体を捕まえることは出来ない。
後ろから来た誰かが、上段の通路を急いで通ろうとして足を滑らせ、そのまま僕にぶつかってしまったようだった。
「す、すみません!」
慌てた声と足音が遠ざかっていく。
僕は受け身も取れずに、このまま顔から地面に落ちるんだ、と思った。
思わず、ぎゅっと目を瞑る。
冷たい地面が容赦なく顔面を打つ衝撃を覚悟していたのに――いつまで待っても、その痛みはやってこなかった。
代わりに、ふわりと温かいものに包まれるような感覚があった。
そう。
西園寺が僕を庇うように抱きとめ、そのまま二人で一緒に倒れ込んでいたのだ。
最初に彼女だと気づいたのは、あの香りだった。
夜の雨に溶けたシトラスと、柔らかなムスクの甘さ。
胸の奥に残っていた記憶と同じ匂いが、顔のすぐ近くを満たしていく。
浴衣越しに伝わる体温と、かすかな柔らかさ。
うまく体を起こせずにもがいていると、西園寺の身体がびくんと小さく震えた。
「……いたたた……湊くん、大丈夫!?」
体を起こした西園寺との距離は、本当にあと少しで鼻と鼻が触れそうなくらいだった。
その一瞬だけ、僕たちだけの時間が止まったように感じる。
実際には数秒もなかったはずなのに、何分にも伸びてしまったみたいだった。
りんご飴の甘い匂いが、彼女の吐息に混ざって僕の頬を撫でる。
胸の鼓動が、ドンドンと速さを増していくのがはっきり分かった。
西園寺の瞳は、どこか朧げでとろんとしていて。
その桃紅色に帯びたカラコンの奥に、僕自身が小さく映り込んでいる。
きっと、僕の瞳にも、今の彼女だけが映っている。
薔薇輝石みたいに火照った頬。
ぷっくりとした唇に乗ったグロスが、やけに艶やかに見えた。
喉の奥で、ごくりと大きく生唾を飲み込む音が自分でも分かる。
僕たちの唇が触れ合う
――その、ほんの刹那。
ドーーーン。
ドーーーン。
ドーーーン。
深海みたいに暗く深い碧の夜空に、巨大な花びらがいくつも咲き誇った。
その音に呼応するように、観客たちの視線が一斉に夜空へと引き上げられていく。
――おおぉーーー。
どよめきと歓声が、波のように押し寄せた。
さっきまで凍りついていた時間が、花火の音に打ち砕かれていく。
止まっていた秒針が、またカチリと音を立てて動き出したような気がした。
カチッ。
そして、時の針は再び進み出す。
「湊……大丈夫?」
ノゾミの、不安を含んだ静かな声が、僕を現実へと引き戻したのだった。




