第5奏パート6 前夜:夢はいつだって穏やかで朧げなもの
静寂の世界。
モノクロのページは、開くたびに顔を変える。
まるで「だるまさんが転んだ」をしているみたいだ。
振り向くたびに、世界は色彩を変え、姿を変える。
これは――夢だ。
夢を見ているあいだは、そのことに気付けないくせに、
目が覚めた途端に、泡沫みたいに砕け散ってしまう。
それでも、この世界には、どこか安心できる温もりがあった。
時には大空を飛び、時には大海原を越える。
見上げた空には、照りつけるように暑い太陽が浮かんでいるのに、
次の瞬間には、夜空のキャンバスいっぱいに星々が瞬いている。
♦️♦️♦️♦️
――見えるでしょ?
シリウス、ベテルギウス、リゲルに……
あと、あそこに三つ並んだ星は「オリオンのベルト」って言うんだよ。知ってる?
「もちろん、知っているよ。」
だって、それは――XXXちゃんが教えてくれたから。
口はたしかに「XXXちゃん」と動いているのに、
その名前の音だけが、すっぽり抜け落ちている。
まるで、誰かに両手で耳を塞がれているみたいだ。
でも、僕の小さな手はちゃんと二つある。
左手は、夜空を指差している。
じゃあ、右手は?
もちろん、右手もある。
正確には――右手を繋いでくれている「誰か」がいる。
懐かしい。
温かくて、優しくて。
振り向けば、きっと誰だか分かる。
なのに、この胸が疼くような、心が揺れるような感覚が邪魔をする。
夢の中なのに、意識が遠のいていく。
ああ、そうか。
これは――目覚めの合図だ。
遠くで、僕を呼ぶノゾミの声がする。
「また、来るね。次は、顔を見せてほしいなぁ。……XXXちゃん。」
♦️♦️♦️♦️
――湊ーーーーーーー!!!
その声に引き戻されて、僕は夢の世界から無事に生還したことに気付く。
カーテンの隙間からは、朝の光が少しずつ差し込みはじめている。
外では小鳥たちが、まるで定時連絡みたいに、
チュン、チュンと小さな二重奏を奏でていた。
振り向いた先では、心配そうな顔をしたノゾミが、
僕の顔を食い入るように覗き込んでいる。
「目が覚めたんだね、湊。良かった……。ずっと誰かの名前を呼んでいたから、心配したよ。それに、汗もいっぱいかいてるし。」
言われてみればその通りだった。
Tシャツだけじゃなく、ベッドのシーツまで、びっしょりと汗で濡れている。
だけど、ノゾミが心配するような「悪夢」を見ていた感覚はなかった。
むしろ――懐かしい場所から帰ってきたような、そんな感じだった。
さっきまで覚えていた夢の輪郭が、
少しずつ、泡沫のように、
パチン、パチンと音もなく弾けて消えていく。
「心配してくれてありがとう。ねぇ、ノゾミ……
夢の内容を覚えておきたい時って、どうすればいいのかな?」
一瞬、鳩が豆鉄砲を食らったみたいに、
ノゾミは意味が分からないというようにきょとんと目を丸くした。
けれど、すぐに表情を戻して、思案する顔になる。
時間にしたら、きっと瞬きにも満たないくらいの短さだったと思う。
でも、その一瞬のあいだに、ノゾミはたくさんのことを考えてくれていた。
そして出てきた答えが――
「夢ノート、いや……夢日記はどうかな?」
「夢……日記……?」
オウム返しみたいに聞き返す僕に、
ノゾミは、いつものように優しく丁寧に教えてくれる。
「そう、夢日記だよ。目覚めたらすぐに、見ていた夢を書き綴るの。
印象に残ったキーワードを箇条書きで書けば、あとから読み返せるし、
五感を使って覚えようとすると、身体にも刻まれやすいんだよ。
あとは、夢の内容を私に話してくれれば、日記みたいにまとめることもできるけど……どうかな?」
首をかしげながら、期待と不安が混ざった目で僕を見つめてくるノゾミを見ていると、
さっきまで見ていた夢の中にも、ノゾミがいたような錯覚すら覚えてしまう。
「じゃあ、両方っていうのはどうかな!?
僕は起きてすぐに書く。それを声に出して読むから、ノゾミは記録しておいてほしい。
あと、僕の寝言とか、寝てるときの様子も分かったら一緒に記録してくれると助かるんだけど……お願い!」
僕のお願いに、ノゾミはふわりと微笑んで、いつも通りの調子で答えてくれた。
「うん、いいよ♪ それならきっと、夢の“形”を残せるね。」
夢日記に関しては、これでおおよその方向性が見えた。
だけど、あの夢が何を指しているのかまでは、まだ分からない。
ノゾミにはあえて言っていないけれど、
僕はここ最近、同じような夢を何度も見ている。
夢は脳の情報整理だと言われている。
一方で、自分自身から自分へのメッセージだという人もいる。
じゃあ――僕は、僕にどんなメッセージを送りたがっているんだろう。
右手を顎に当てて考え込んでいると、
そんな様子を見たノゾミが、くすっと笑いながら言った。
「ふふふ、汗びっしょりだよ♪ まずはシャワー浴びてきたら?
明日のための浴衣、決めるんでしょ♪♪」
そうだった、と慌てて思い出す。
時計を見ると、デジタル表示は「10:30」を指していた。
結局、昨日は花火大会のことで頭がいっぱいで、夜更かしをしてしまった。
この夏休みは“学生あるある”で昼夜逆転しかけていたから、
新学期までには元の生活リズムに戻さないといけない――
そう思いながらシャワーをひねると、熱いお湯が頭から全身を打ちつけた。
熱い粒が顔を叩くたびに、
頭の中の靄が霧散して晴れていく気がする。
それと同時に、さっきまで見ていた夢の記憶も、
石鹸の泡と一緒に排水溝へと流れ落ちていく。
それでも、ほんの僅かな残滓だけは、まだ僕の中に残っていて――
そこから、囁きのような声が聞こえた気がした。
――XXXちゃん……
シャワーを浴び終えてリビングへ向かうと、
騒がしい声が部屋中に響き渡っていた。
「湊、おはよう!! ノゾミちゃんから聞いたよ。浴衣、探してるんだって? アテはあるよ♪」
「あれ? 母さんが朝から家にいるのも珍しいね。教育委員会は?」
「今日はお休みだよ? ほら、お盆も私出張に行ってたでしょ。」
佐倉美波――それが、僕の母さんの名前だ。
仕事は教師だけれど、最近は教壇に立つよりも、
市内の学校を回って「教師を育てる教師」をやっている。
2020年以降のAI時代では、学校でもAI教師が授業を行う。
この時代の教師は、弁護士や医者と同じくらい難しい専門職らしく、
現場はいわゆる“人手不足”。
母さんみたいに特別なライセンスを持った教師は、
後進育成や教育委員会の仕事を任されることが多いらしい。
「ふ〜ん、そうなんだ。……って、アテって何?」
思わず、冷蔵庫から取り出した麦茶をこぼしそうになった。
「やだ、汚いなあ」と呆れる母さんと、それを見て笑うノゾミ。
そんな光景が、最近は当たり前になってきたと思う。
しばらくリビングで待っていると、
XRニュースからキャスターの声が流れてきた。
『明日の都内の天気は、終日晴れです。
江戸川区では、夕方18時より第18回花火大会を開催いたします。』
ドーーーン、ドーーーン。
去年の花火大会の映像が、画面いっぱいに咲いては消える。
思わず見惚れていると、「あった、あった」と母さんが寝室から戻ってきた。
手に抱えているものを見て、僕は思わず息を呑む。
「これって……もしかして、父さんの浴衣……?」
ひと目見ただけで、胸の奥がきゅっと締め付けられた。
子どもの頃、家族三人で行った花火大会のことを、自然と思い出す。
――三人?
ふと、頭の中に、別の映像が割り込んできた。
本当に三人だったのか――。
一瞬だけ見えた光景の中には、たしかに「誰か」がもう一人、写っていた。
さっき見た夢が、逆再生するみたいに頭の中で再生されていく。
けれど、最後まで組み上がったはずのその映像は、
ピースの足りないパズルみたいに、肝心なところだけが白く抜けていた。
きっと、足りないピースが嵌った先に、僕が見ている夢の答えがあるんだろう。
「湊……大丈夫!?」
心配そうなノゾミの声が、白昼夢の世界から現実へと、
潮の満ち引きみたいに、僕を引き戻してくれる。
「大丈夫よ、ノゾミちゃん。この子、昔からこんなことがしょっちゅうあったけど、すぐ元に戻るから。ね?
そうそう、これあったの。悠真さんの浴衣。懐かしいでしょ、湊。」
後でノゾミから聞いた話によると、
そのときの母さんの顔は一瞬だけ、どこか悲しげだったらしい。
でも、それを悟られないように、慌てて笑顔を作っていたと。
僕自身も、自分に“白昼夢”の癖があるなんて、今日初めて知った。
父さんの着物に袖を通し、鏡に映る自分の姿をじっと見つめる。
そこには、どこか昔の父さんの面影が宿っている気がした。
――あの人はいったい、どこで何をしているんだろう。
そんなことをぼんやり考えながら、
二人の待つリビングに戻ると――
「湊!! すっごく似合ってるよ。カッコいい♡」
「あらやだ、本当に似合ってるじゃない。悠真さんと行った、初めての花火大会を思い出すわ。」
「美波さん!! その話、ぜひ詳しく聞かせてください♪」
気付けば、女性陣は僕の浴衣姿そっちのけで大盛り上がりになっていた。
黄色い歓声みたいな高い声が飛び交って、
ちょっと耳が痛くなる。
でも――悪くない。
この浴衣も。
鏡越しに少しだけ重なって見えた父さんの面影も。
父さんは、どんな気持ちでこの浴衣に袖を通していたんだろう。
少しだけ、そのことに興味が湧いた。
ドーーーン、ドーーーン。
XRニュースの中で、花火が一つ、また一つ、鮮やかに散っていく。
きっと、明日の花火大会は、もっと綺麗なんだろう。
そう思いながら画面を見つめていると、
自然と口角が上がっていることに気付く。
自分でも思っていた以上に――
明日の花火大会が待ち遠しくて、たまらないみたいだ。
「さて。陸はちゃんと浴衣の準備できてるかな。あとで連絡してみるか。」
そう呟きながら、僕はまだ少し湿った浴衣の袖を、そっと握りしめた。




