最終話 幸福なカメラマン 骨皮すじ男 その7
目を覚ました骨皮はしかし、以前よりも一段とふぬけた男になってしまっていて、私が話しかけてもうんともすんとも言わないのであった。私が見えているのかいないのかもわからぬほどであった。
帰る場所を失った骨皮はネットカフェへ向かった。野球中継をぼんやりと見つめる彼は、なにも感じていないかのように見えた。もはや幸福も不幸も通り越してしまったかのようだ。このままここで即心仏になってしまったとしてもなんの不思議もない。
「おい、おい、おおい」
声をかけてみても反応がない。きっと元の自分に戻ってしまったことへの反動でこんなふうになってしまったのに違いない。
「狸と過ごした日々はどうだったかね?」
しかし骨皮は答えなかった。私は時間が経てばすっかり元の通りに戻ってくれることと信じて、しばらく放っておくことにした。なに、すぐに元通りになるだろう。またすぐにどこか、汚いおんぼろアパートへ住んで、私も干物やなんかを頂戴して、暮らしていけるようになる…
だが、なにかを忘れているような気がした。なんだろう?私はぐうと腹の鳴るのを感じた。そして、なにかを忘れていることを忘れた。様々な食べ物が、頭の中へ去来した。さんま、ツナ缶、ちゃおちゅーる、めざしにくさや、ステーキ、そして、鍋…鍋…狸鍋!
私ははっと飛び起きた。そうだ、たろきちを忘れていた!だが捕まったとはいえ、妹に捕まったのである。もはやそうなれば兄妹喧嘩の範疇であって、他人の猫が口出しをするものでもあるまい。私はすぐに元の通りに丸くくるまって、寝息をたてはじめた。しかしどうしても、眠れないのである。たろきちの姿と、狸鍋の姿がゆらゆらと脳裏に浮かんでは消え、浮かんでは消えを繰り返した。ふむ、しかし、イチ狸の行く末など、私の知ったことではない!
たろきちの言葉が思い出された。「選ばれなかった狸なんだよ」…私はがばと跳ね起きた。そしてすやすやと座ったままハナ提灯を膨らまして眠る骨皮を置いて、闇夜へと飛び出した。
*
私はふんだんに嗅覚を駆使して、たろきちの匂いを追いかけた。すると一時間も経たぬうちに、たろきちの居場所はあっけなく見つかった。なんと彼は骨皮のとった宿の隣の個室へ、檻に捉えられて眠っていたのであった。なんたる不気味な偶然か?私はあたりを警戒しながら、たろきちへ呼びかけた。
「ううむ、なんだ、君か」
「おい、なにをしてる?」
「なにをしてるって…骨皮さんがここへ連れてきてくれたんだよ。このあと、寺へ送り届けてくれるってさ…」
「なんだって?骨皮?そんなはずがない」
「どうして?間違いなく骨皮さんだったよ」
「だって君を連れていったのは君の妹だったし…骨皮は、ずっと私といたはず…」
そこまで言い掛けて、私は口をつぐんだ。まさか?まさか、そんな…たろきちも私と同じ不安へ行き着いたようで、青ざめ、こちらを見つめていた。
「おまえをここまで連れてきた骨皮はどこへいったんだ」
「トイレだとおもうけど…君をここまで連れてきた骨皮のおじさんは?」
「隣で眠っているはずだよ…」
私は耳と鼻を澄ませて、あたりの様子を伺った。しかし、様々ないびきや、たばこのにおいなどが入り乱れて、私の感覚を混乱させた。私はさきほどまで一緒にいた骨皮の様子を思い出そうとした。不気味な沈黙と、そっけない態度。そして、いつもとは違う匂い。
畜生、わたしとしたことが!すっかり油断して、浮かれていた!
「君の妹の狙いは一体なんだ?」
「わからないよ」
「とにかく、ここを出るんだ…次にここへ戻ってくる骨皮は、偽物かもしれない」
「だけどここから出られないんだ、鍵がなくちゃ」
たろきちは蚊の泣くような声でつぶやいた。足音が近づいてくるのがわかった。それは一歩ずつ、着実に、こちらへ近づいてくる足音だった。私たちは目を見合わせ、息を呑んだ。
「妹は…妹は、きっと僕を人間に売り渡すつもりだよ。僕をきらってるんだ…僕が出来の悪い兄だから」
こつん、こつん、こつん…私は必死に意識を研ぎ澄ませ、漂う匂いをかいだ…こつん、こつん…偽物か?本物か?たしかにどこかで、獣臭い匂いがするが…
「僕のような兄がいるのが、恥ずかしくってたまらないんだ。妹はいつも、自分は狸界に収まるような器じゃないって言い張ってた…それで、ママと、骨皮のおじさんをだまして、人間界で活躍するつもりで…そうだ、ゆくゆくは、ママタレになりたいって、そう言ってた」
こつん、こつん。足音はもう、隣の個室まで近づいてきている。私のひげは緊張のあまり震えた。
「あいつは恐ろしい妹だよ…ぼくはあいつには勝てないんだ!」
「たろきち!」
私の厳しい声に、たろきちはびくりとして顔をあげた。「約束したろう?猫の視点を持つと…」
「ぼくにはむりだよ」たろきちの目に涙が浮かんだ。「ぼくは所詮、狸だもの…無能な、誰の役にも立てない、金玉のちいさな、しょぼくれた狸だ!」
「たろきち、いいか。落ち着くんだ。入ってきたのが偽物かどうかを、二人で見分けるんだ。私は匂いを嗅ぐ、けれどもここは空気が淀んで、鼻がうまいこと効かない。だから君君が見た目を観察するんだ。そして二人で答えを導き出すんだ」
「偽物だったら?」
「そこにあるコードを巻き付けて、絞殺する」
「こ、絞殺!」たろきちは目を回した。
「やるかやられるかなんだぞ!」
「絞殺じゃ甘い!」たろきちが牙をむいた。私は驚いてとびすさった。たろきちは見たことのないような、邪悪な顔をしていた。「あんなやつは、生きたまま切り刻んで、狸鍋にいれていくのがいい!いやそれでもまだ足りないくらいだ」
「たろきち!落ち着け。君は我を失っているんだよ!」
「あ、ああ!」たろきちはひっくり返って、生え替わり途中の毛をあたりへ飛び散らせながら、悶絶した。「きみの言うとおりだ。やっぱり僕はだめだよ…!僕にはなにもできない、ここで死ぬほうがいいよ」
「たろきち!」
「僕などおいていってくれ!」たろきちは叫んだ。「君は立派な幽霊猫だ、君もあぶない目に遭うよ…成仏さえられちまうかもしれない、あいつならやりかねない!」
「たろきち」私はたろきちの瞳を見据えて、言った。「いいかね、たろきち。君にいいことを教えてやる…選ばれなかった狸である君に」
たろきちは静かになって、私を見据えた。
「いいかねたろきち。君が今まで、どれだけうだつのあがらぬ狸で…そしてこれからも同じあったとしても…そのうだつのあがらなさほど、大事にしなくちゃならないものはないんだよ。」
「どうして?よくわからないよ…」
「だってそうだろ?うだつのあがらないことが、君を生かしてるんだ…うだつがあがってしまったら、おしまいなんだ…選ばれないことが、君の力になるんだよ。」
たろきちはじっと私の目をみつめた。必死に言葉をかみ砕いて、飲み込もうとしているようだった。
「猫さん、どうして君はそんな…」
そのとき、足音が扉の前で止まった。私たちは石のように身を堅くして、息を潜めた。
次回最終回です(三◎(ェ)◎三)




