最終話 幸福なカメラマン 骨皮すじ男 終
扉がゆっくりと開いて、中へ入ってきたのは、間違いなく骨皮だった。なぜなら彼は私を見るなり、「あれ?くるぶし?」と、狐につままれたような顔をして、こちらを見下ろしていたのである。
だがほっとしたのもつかの間、私は目にとびこんできた光景に、思わず卒倒しそうになった。骨皮の足下には、もう一匹ー私とそっくりの姿をした猫が、得意げに座っていたのである。
*
「おぼえておけよ」たぬ子が私の耳元で憎々しげに囁いた言葉が、脳裏にフラッシュバックした。たぬ子はその言葉通りにーこうして私に復讐を遂げようとしている。それも思いつく限りで一番の、残酷な形で!
骨皮は目の前に現れた二匹の猫を、交互に見やった。
「ど、どちらが本物のくるぶしなのです?」
するとたぬ子は骨皮の足元へ、にゃあんと甘い声を出してすり寄った。私は愕然としたー
たぬ子の首には、私のつけていたはずの首輪があったのだ!
どうみても、圧倒的不利であった。私は頭が足元のふらつくのを感じた。私はもうなにをいう気力もなくしてー黙り込んだ。
「ねこさん、ねこさん!」たろきちの叫ぶ声が聞こえた。「しっかりしてよ、ねこさん!負けちゃいけない!」
「もうだめだよ、たろきち。私の負けだよ。骨皮を不幸にしようとした罰だー」
「ばかいうなよ、ねこさん!たった今ぼくを励ましてくれたばかりじゃないか!」
するとたぬ子は私たちを哀れむように見やってから、骨皮の腕の中へ勢いよくジャンプして、飛び込んだ。そう、まるでーあの写真のように!
その瞬間、骨皮が目を見開いて、たぬ子を見下ろした。
「きみはー」骨皮はかすれた声でつぶやいた。「きみは、くるぶしじゃないですね。」
戦慄が走った。私は絶望に沈んでいた顔をあげた。たぬ子はあまりのショックに、がたがたと震えはじめた。
「なぜー」徐々に狸の姿に戻っていきながら、たぬ子が呟いた。「なぜわかったの?」
「だってくるぶしは、私の腕に飛び込んでなんかきません」
「でも、でもだってーあの写真では、そうしていたじゃないの」
骨皮は悲しげに首を振った。「いいえ、あれは、くるぶしではありません。あれはまったく別の猫ですー」
「どういうことなの?」
「くるぶしはーくるぶしは、私が選ばなかった猫なのです。私はあの日、ペットショップへ行ってーくるぶしと、もう一匹の猫とを買いました。かわいい兄妹でした。幸せな日々が待っていると信じて、疑いませんでした。
しかしある時、くるぶしが、おしっこをもらす癖のある猫だと気付いたのです。いくらしつけても、治りませんでした。家の中はいつもおしっこの匂いがして、夜も眠れないようになりました。
そうして結局、我々家族はくるぶしをー捨てることを決めたのです。車で遠くへ連れて行って、そのまま一度も振り返らずにー
つまり、あの写真に写っているのは、くるぶしではない方の猫なのです。私はその猫を寿命のくるまでかわいがりましたーその猫は幸せな一生を終えると、無事に成仏したのです。ですがくるぶしはーくるぶしは、そうではなかった」
骨皮は私を泣きそうな瞳でじっと見つめた。
「だからくるぶしが幽霊となって私の目の前に現れたときー私は随分ほっとしたのです。そうして彼女の満足行くまで、かわいがってやろうと決めたんです。それがいかにー手遅れだとわかっていても」
たぬ子はすっかり気が抜けて、その場へへたりこんだ。骨皮はたろきちの檻を開けてやると、たろきちはすごすごと出てきて、震える妹の肩を優しく抱いた。たぬ子はみじめに鳴き始めた。
「騙せなかったことなんて、今までなかったのに…」
たろきちはすると、先ほどまでたぬ子を殺そうとしていたのが嘘のように、きりりとした兄の顔になって、「お前は…」と呟いた。「お前は今まで、随分選ばれすぎたんだ」
そして私のほうへ振り向くと、さよならの代わりにしっぽを振った。私もしっぽを振って返してやった。そのまま二匹は、すごすごと部屋を出ていった。
骨皮は長いため息をついた。それから顔をあげて、あたりを見回し、「くるぶし、くるぶし?」と不安げに名前を呼んだ。だが私はもう、前のように彼の前に姿を現してやることはできなかった。
*
「あら、くるぶしさん。ごきげんよう」
麗しい声に声をかけられて振り向いた。ニャービスエリアで世間ばにゃしをかわした、さる美しい貴婦人猫が私を見つめていた。
「あなたもご無事に成仏されて?」
「ええ、そのようですね」
「まあ、素晴らしいこと」貴婦人猫は尻尾をしゃなりしゃなりと揺らして、微笑んだ。
「ここは本当に素晴らしいところですわね。苦しみも、悲しみも、なに一つない…あ、これ、見てくださる?先ほど記念撮影をして参ったんですのよ」
彼女の差し出したのは、マグロを加えて幸福そうに微笑む彼女の写真であった。彼女の隣には毒殺された息子らしい猫の姿も写っていた。
貴婦人はかつて下界で会話を交わした時ほど美しくないように思われた。自分を死なせた世界を恨み、怨念となってまでしぶとく浮世にとどまって、幽霊猫の女王として君臨を狙っていた時の、あの凜とした美しさは失われてあった。貴婦人は私を心配そうに覗き込み、「あら、顔色が悪いようですけれど…どうされて?」と尋ねた。
「いえ…ちなみに、一つお尋ねしたいのですけれど」
「ええ?」
「下界への出口はどちらです?」
*
「もう本当に、あなたの作品が気に入ったんです。あの日、友人に連れられて、あなたの作品展に行ったとき、最初はなんてつまんない写真なんだろうと思っていたんですけど、それがまさか、あんな血なまぐさい写真に変化するなんて!すばらしい演出でした…私、今でも思い出して、ぞくぞくするんですよ」
「はあ」
「それでね、骨皮さん。どうです?幸せな人間が不幸に突き落とされる瞬間と銘打って、うちで写真集を出してみませんか?きっと話題になりますよ!」
「…」
「骨皮さん?骨皮さん?」
「いえ、すいません、ちょっと…今そこに、猫が見えた気がしたものですから」
「猫?」
「ええ、いや、気のせいかもしれません…あ、ちょっと、トイレに」
「はい、ええ、どうぞ」
骨皮はトイレへ駆け込むと、鏡の中をのぞき込んだ。鏡の中に一瞬、白い毛玉が横切ったような気がした、骨皮は目をこすり、顔を洗った。そうして自分に向かって、「しっかりしなくては」と言い聞かせた。「今度こそ、幸せをつかむのだ」
トイレから戻ると、編集者の姿は消えていた。骨皮は驚いて、あたりを見回した。しかしどこにも姿は見あたらない。
「いやあ、すみません」
突然肩を叩かれる。編集者がスマホを片手に、戻ってきたところだった。
「電話が入ってしまいましてね」
「ああ、そうでしたか」
「それで、どうです?考えていただけましたか?」
「はい、あの…ぜひ、お願いさせて頂ければと思います」
骨皮はすっかり冷えてしまったコーヒーを飲んだ。胸がどきどきしていた。いよいよだ、いよいよ自分は認められ、幸福になるのだ…するとコーヒーカップに、茶色い毛玉が浮いているのに気がついた。骨皮ははっとして、顔をあげた。編集者はにやりと微笑んでいた。
「自分だけ幸せになるつもり?」
編集者の頭から、茶色い耳が飛び出していた。テーブルの上にはくるぶしが座って、骨皮をじっと見上げているのだった。
「そんなの、絶対にゆるさない」
そのとき骨皮には、いくつもの不幸が、足音を立てて忍び寄ってくるのがわかった。




