第六話 屠殺係の夢 その3
社員用レストラン「天空」はビルの最上階にあって、全面ガラス張りの窓からは東京の夜景が一望できた。薄暗い照明の堕落した光の中に、ほんのり酔っ払った男女の顔が霊魂のようにぼうっと浮かび上がっている。商談を取り決めようとしている営業マンらしき男の顔は、裏社会の人間のそれのように、黒く艶めいて見えた。
骨皮は新品の喪服に身を包み、牛革のタイで武装していた。向かいには膝上までの黒いタイトなワンピースに身を包んだ宇田と、紺色の花を散りばめたワンピース姿の受付嬢とが、神妙な面持ちで着席している。
重たい沈黙。
二人の女は骨皮の隣の空席を、あえて見ないように振舞っている。骨皮は天井からぶら下がったトイレのマークをぼんやりと見つめていた。
フランス人の給仕が現れて、赤いクロスを敷いたテーブルの上に、静かにワイングラスを並べてゆく。コポコポと、血のようなワインが注がれる。お辞儀をして立ち去ろうとする給仕を、骨皮は慌てて呼び止める。
「あのう、すみません。グラスをもう一ついただけますか」
給仕はほんの一瞬の沈黙の後に、「かしこまりました」と答えた。骨皮はちらっと隣の席の幽霊を見やった。彼はさっきから随分と落ち着かない様子で、あたりをキョロキョロ見回している。
骨皮の視線に気づくと、彼はポッと頬を染めて、恥ずかしそうに耳糞をほじり、
「あ、すいません。みっともねえ態度とっちまって。こういうところ、初めてなもんですから」
「いえ、構いませんよ。誰にも見えてませんから」
「あ、そうでしたね。エヘエ。」
空気に向かって話しかける骨皮を、受付嬢は怯えたように見つめている。宇田は無理やりな笑顔を取り繕って、「えみりちゃん。すごいでしょ。この人今、本当に幽霊と話してんだよ」
「ええ…」えみりちゃんと呼ばれた受付嬢は、険しい笑顔になって答えた。「本当に…なんていうか、びっくり。あははは」
「あのう、骨皮さん。」猪瀬が小さな目をパチクリさせながら言った。「こんな美人二人と合コンできるなんて、僕は、幸せもんです。ありがとうございます。お二人に、そう伝えて下さいますか」
「まさか」骨皮はびっくりして彼を見返した。「もう成仏される感じですか。」
「え?どうして。」
「いや、成仏前の言葉なのかと思って」
「いやいや。僕は今夜いっぱい、楽しませて頂くつもりでおります。」
「はあそうですか。ではぜひそうされて下さい」骨皮はがっかりしながら答えた。
骨皮は女二人に向き直った。女二人は反射的に目をそらし、ワイングラスをいじったり、夜景を見つめたりした。
「あのう、猪瀬さんが、こんな綺麗なかたお二人と合コ…お食事ができて、大変光栄とのことです」
「そうですか、よかった」宇田が引きつった笑顔で、骨皮に微笑んだ。それきり目をそらして、黙り込んでしまった。骨皮は、さりげなく宇田の視線を猪瀬の方へと誘導しようとしてみたが、無駄だった。骨皮はそれで、今夜は自分が先導役にならねばならないのだと悟った。
「宇田さん。」
「はい」宇田がビクッとして顔を上げた。
「この方が、血みどろの理由を知りたいでしょう。」
宇田は磔のような笑顔で、「はい、とっても知りたいです。ねえ、えみり。」
「…」えみりは冷笑で答えた。
「実はですね、猪瀬さんは生前、豚の屠殺をされていたのです」
ただでさえ白い二人の顔から、さあっと血の気が引いていくのがわかった。骨皮はしまった、と思った。
猪瀬が骨皮の肩を、コツンコツンと叩いた。これから解体する豚の骨の位置を確かめるようなやり方で。
「どうされました」
「あのう、それはちょっと…隠しておいて欲しかったんですが。あの、つまり…」猪瀬の肩が、プルプル震え始めた。
すかさず宇田が「ちょっとお手洗いに」と言って、バッグを抱え、さっと立ち上がった。慌ててえみりもそのあとを追いかける。骨皮は悪い予感にとらわれた。
案の定だった。二人は早足で店を突っ切り、ガラスの扉を勢いよく開いて外へ飛び出してしまった。トイレは店の中にあるのに。骨皮は猪瀬を置き去りにして、慌ててあとを追いかける。
「待って下さい、待って」
聞こえないふりをして、二人の女はスタスタと歩き去ってゆく。「待って、お願いします…宇田さん」
骨皮の悲鳴に近い声に、えみりがちらっと振り向いた。泣きそうな顔で、「ねえさら。あの人ついてくるよ」
宇田は答えない。そんな彼女の態度に、えみりは少しムッとしたようだった。宇田は喫煙所に駆け込んだ。えみりはむくれた様子で、鞄の奥の煙草の箱を探る宇田に向かって、「私、帰る。」と声をかけた。
「待って。私もこれ一本吸ったら帰るから。」
宇田はそのセリフを、大声で言い放った。骨皮に聞かせるようにして。
骨皮は喫煙所の入り口に立って、悲しそうに宇田を見つめた。もうもうと立ち上る煙の向こうの骨皮を、宇田は憐れむように見つめた。
「今夜だけです、宇田さん。今夜、一晩我慢していただければ、あの人は13階からいなくなるんです」
「…私、どうかしてました。骨皮さん。上司が言う通りに、仕事で疲れてたから。幽霊なんて、いるはずもないのに。」
会話は噛み合わなかった。骨皮は消え入りそうな声で、説得を続けた。「豚の鳴き声は消えないかもしれません。だけどそれくらいなら構わないでしょう。一番不気味な血みどろのあの人は消えますから…」
「素晴らしいお仕事ですね。骨皮さん。本当に。こんなインチキ。屠殺者の幽霊?馬鹿らし。ホラー映画じゃあるまいし。馬鹿みたい。」
「インチキではないんです、宇田さん。明日になればわかることです」
宇田は答えずに、煙草をすりつぶすと、「えみり、帰ろ。変なのに巻き込んじゃった。飲み直そ。私が奢る」
「宇田さん、あのですね」
「骨皮さん。今日の分のお金は振り込んでおきますから。私たちはここで、失礼します」
宇田は背を向けて、エスカレーターを降りて行こうとした。しかしえみりは石のように固まったまま、動こうとしない。
「どうしたの」
「…インチキじゃない」
「えっ」
「あの人、インチキじゃない」
えみりは「私にも見えてる」と言った。「血みどろのエプロンを着たあの人が…腰には、ナイフを持ってる。私、すっごく怖くて、直視できなかった。」
えみりは顔を覆って、泣き出した。




