第六話 屠殺係の夢 その4
宇田はそんな彼女の背中を、オロオロしながら撫で始めた。
「それ、本当?」
えみりは首を縦に激しく動かして見せた。骨皮は少しホッとして、そばにあった柱に寄りかかると、ネクタイを緩めた。
「私、聞いたことがあるの。前に、玉の輿を狙って、不動産屋の人と合コンしたんだけど。そしたらその人が、ここって昔、屠殺工場があった場所なんだよって。そう言ったの。その時は怖がらせようと思っていってるんだと思って、信じなかったけど」
「屠殺工場…」宇田が放心状態でつぶやいた。「そっか。それで豚の声が。」彼女はぶるっと身を震わせ、「怖い。ね、帰ろう。ナイフで襲いかかってくるかも。」
「宇田さん、あのですね。」
言いかけて、骨皮は柱がブルブル震えているのに気がついた。地震かと思ったが、柱だと思っていたものは、猪瀬だった。
「骨皮さん」
キャァ!と猪瀬に気づいたえみりが悲鳴を上げた。
「すいません、僕、彼女らに、嫌な思いさせちまったみたいで」
「いえ、そんなことはありません」
骨皮の言葉に、説得力はかけらもなかった。宇田は恐怖に肩を震わせ、えみりも顔を覆って泣きじゃくっている。
「僕、なんていったらいいか、その…生きてる時もね、似たようなことがあって。仕事で屠殺してるちゅうと、嫌われてしまうんです。どうしても。でも、しょうがないことだと思う。僕も彼女らみたいな世界に生きてたとしたら、同じようなこと思いますよ。気持ち悪いって…そこへ幽霊ときますでしょう。気持ち悪いと気持ち悪いの、ダブルパンチですよ。」
骨皮は言葉を失った。いくら励ましの言葉を並べようとしてみても、それは全て薄っぺらい、うわべの言葉にしかならないのだった。
「僕らの工場にもね。正門と、裏門とがあるですよ。正門はね、人通りが多くって。周りに、民家とかたくさんあってね。人目につくですよ。だから裏門通って、仕事場に行くですよ。みんなね。中にはもちろん、自分の仕事に誇りを持てちゅうて、堂々と正門から入る先輩もいましたがね。僕はそういう風には、できなかったです。最後まで。身内にも、仕事は肉屋だってギリギリの嘘ついてね。だから…」猪瀬は笑おうとした。しかし結果的に、泣いてるみたいな顔になった。
骨皮の胸に、ひとつの悲しみが去来した。それは今日の昼過ぎに、正門から入ろうとして、裏門へ誘導されたことへの悲しみだった。裏門へ誘導されたこと、それ自体への悲しみではなく、裏門に誘導されて、ホッと安心した自分自身への悲しみだった。
えみりは泣きじゃくり続け、宇田は押し黙っている。二人とも早くこの場から逃げ出したいと思っているのが、ありありと伝わってきた。
猪瀬は痛々しいくらいに明るい声で、骨皮に、「お二人に、今日はありがとうございましたと、そう伝えてください。僕はもう金輪際、ここには出てきませんから」
「でも、猪瀬さんー」
「いえもう。ほんとに。ええ。僕はもう、満足しましたですよ。冥土の土産ができましたです。はい。本当は、今日の合コンでもし誰かといい感じになれたら、自分の埋蔵金をその方に贈呈しようとおもっとったんですが。」
突然えみりの泣き声がやんだ。
「貯金をね、しとったですよ。家内にも内緒でね。いやあ、お恥ずかしい話ですがね、未来の愛人のために、せっせと貯めとったですよ。随分な金額になりましてねえ。まあこれは当時の換算ですが、家が一軒買えるくらい」
「それ、本当ですか」先ほどまでとは別人のような、しっかりした声で、えみりが言った。全員びっくりして、彼女を見つめ返した。
「骨皮さん。あのこ、いま、僕に話しかけたですか」
「ええ、まあなんて言うかー」
「私、だんだん、怖くなくなってきました」
えみりは泣きはらした目をハンカチでさっと拭うと、見たことのない笑顔になって、「さら。私、いけそ
う。戻るね」
「はぁ?」宇田は奇人を見るような目でえみりを見た。
「あ、さらは帰ってもいいよ。私がうまくやっとくよ。明日には、さらたちが安心して13階を使えるようにしておくから。」
呆然とする宇田を尻目に、えみりは満面の笑みで猪瀬に微笑みかけると、「あの子は忙しいみたいだから。よろしければ骨皮さんとお二人で、戻っておいてください。私はちょっとお化粧を直してから、行きますから」
「はぁ」
「すぐに戻りますから!」
えみりは楽しげに、ヒールを鳴らしながらトイレへの道を華やかに駆けていった。その背中を猪瀬はうっとりと見つめている。骨皮は野暮なことは言うまいと心に決めた。一人のけものにされた宇田が、骨皮をじっと睨んでいる。説明責任を要求する、険しい目つきであった。
*
「幽霊って、どうして出てくるんですか?」
一片の狂いもなく完璧に化粧を修正したえみりが、猪瀬の隣に座って、楽しそうに話している。猪瀬は鼻の下を伸ばしながら、頬を豚色に染めている。宇田は気乗りのしなさそうな顔を、窓の外に向けている。高給取りの彼女は、幽霊の埋蔵金などには興味がないのだ。
骨皮は居心地の悪い気分で俯いていた。猪瀬がこのまま、若い顔だけの女にまんまと貯金を巻き上げられてしまうのだと思うと、他人事ながら、なんともやりきれない思いがした。
「えっと、でも、それは骨皮さんに聞いてもらったほうが」
「猪瀬さんに聞いてるのに?」
「えっ、いやあ、まあ、あははは。あっ、焼酎ください。」
「やだあ。焼酎なんてないですよお。」
猪瀬とえみりの二人きりの世界を、宇田が突然破るように、「ありますよ。焼酎。」と言った。「私がキープしてるやつ。骨皮さん。それでいいか、幽霊さんに聞いてみてくれますか」
「もちろんもちろん、それでお願いしたいです。」猪瀬は目をキラキラさせて喜んだ。
えみりが笑顔のまま宇田を睨みつける。宇田は試すような目で、猪瀬のいる場所を大きな瞳で見つめた。猪瀬は真っ赤になって、見つめ返した。骨皮には、彼のその目に、えみりを見る目にはなかった一種の切なさが宿っているように感じられた。
「これは随分高い酒ですね」運ばれてきた焼酎のボトルに、猪瀬はゴクリと息を飲んだ。
「さら、猪瀬さんが、随分高いお酒ですねって」えみりがすかさず仲介する。
「そうですか?一番安いやつですけど」
「いやいや、僕には手も足も出ない酒です。」猪瀬は差し出されたグラスに犬のように鼻をつけて、飲み込む代わりに思いっきり吸い込んだ。「ああ!上流社会の匂いがする」
「ふふふ」えみりが口に手を当てて笑う。「面白い」
「でも、そうですよね」宇田が誰にともなく呟いた。「豚を殺す仕事なんて、そんなに儲からなさそうですもんね」
えみりがたしなめるように宇田をみる。宇田は気づかないふりをして、ピスタチオの殻を割る。猪瀬は恥ずかしそうに俯いて、「そうそう、その通りです」と言った。「宇田さんの仕事に比べたら、全然です」
沈黙が流れる。猪瀬がパッと夜景を指し示し、「いやあそれにしても。こんな立派なレストランがくっついてる職場だなんて、信じらんねえですよ。ゴージャスです。」
えみりが宇田に伝えると、宇田は少し顔をテーブルの方へ振り向けて、静かに言った。「私、このビルが、高校の屋上から見えたんです。どこよりも高いビル。それで私、その時に決めたんです。大人になったら、あの会社に入るんだって」
「すごいことだ。すごい。きっと苦労されたんでしょう。入るのにも…優秀なんだなあ。ねえ。へへ」
「そうそう。さらは、めっちゃ優秀なんです」
「優秀じゃないよ」
「またまたぁ」
「優秀じゃない」宇田は繰り返した。「この前のコンペも落ちたし。新人に抜かれまくってるし。才能ないんじゃないって、先輩に言われたし」
「そんなことないよ」
「ありがと、えみり。」宇田は微笑んだ。
「この前もね、先輩に言われた。お前、自分の仕事、一番だと思ってんだろって。その通りですって答えた。実際、世の中を回してるのは自分だって思ってるし。でも先輩はね、こう言うの。クライアントの仕事を、羨ましいって、その仕事に転職したいと思うくらいまで、やらないとダメなんだって。その時に初めて、いいものが作れるんだって。だけどさ、私、一度も、そんな風に思ったことって、ない。」
骨皮は思わず、わかるような気がします、と言いかけて、その言葉を飲み込んだ。骨皮なんかの同意を、彼女が求めていないことは明白の事実であった。再び、重い沈黙が場を包んだ。
えみりが食べかけのポークソテーの皿を自分の方へ引き寄せて、「さら、食べないの?」と尋ねる。「私食べちゃおうか」
「うん、いいよ。食べて」
「ああ!美味しい!」えみりが大げさに褒めそやす。「私お肉めっちゃ好きなんですう。特に豚さん。豚さん美味しい〜」
突然猪瀬が、がたんとテーブルを叩き、「そうだ!」と叫んだ。骨皮はビクッと身をすくめた。
「なんですか」
「どうです、宇田沙羅さん」猪瀬は直接宇田に向かって話しかけた。「仕事をお願いできませんか。」
「なんのです?」骨皮はたまげて猪瀬に尋ねた。
「いやね、昔、うちの工場長がね、ずっと言っとったんですよ。会社のピーアール、ちゅうんですか。そういうの一度、やってみたいって。結局、頓挫しちまいましたけどね。でもどうだろう、いくらくらいかかるかわからねえけども、僕の財産でやれる範囲で、一つ、お願いできませんかねえ」
えみりのフォークから豚肉のかけらがこぼれ落ちる。猪瀬は子供のように目をキラキラ輝かせて、「自分のとこの会社はね、まだあると思うんですよ。名前は変わっちまってるかもしれませんがね。」
「元社員とはいえ、死人の一存でそんなこと勝手にやったらまずいのではありませんか」骨皮の質問に、猪瀬は子犬のような表情になって、「そう。そうなんです」と言った。骨皮は嫌な予感がした。
「だからね骨皮さん。あなたにも一つお願いしたいんです。聞いてきてもらえないですかね。今の社長に。シーエム、作ってもいいかって」
宇田が怪訝そうに、青ざめた顔のえみりと骨皮を、交互に見やった。




