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第六話 屠殺係の夢 その2


「それだけじゃありません。モー、モー。そういう声も混じっていました」


「…」ミルクレープが吹き飛んで、今度はハンバーグステーキが、骨皮の脳内を埋め尽くした。思わずゴクリと唾を飲んだ。


「あの、聞いてます?」


「は、はあ、聞いてます、大丈夫です」


「それだけじゃありません。ナイフを持った血みどろの男が歩いているのを見た人も。それも一人二人じゃありません。いくつもの目撃証言があるんです」


「はあ、なるほど」


「すぐに噂が立ち始めました。ここは呪われたフロアなんだって。ノイローゼになって、出社できなくなった新人もいます。上司に訴えたのですが、集団ノイローゼだって言われて、精神科の受診を受けるように言われました。…あまりにショックでした」


 骨皮は先ほどエレベーターで感じたあの一瞬の悪寒について、思い出していた。


「今はどうしているのですか」


「今は皆、他の階の空いてる会議室で仕事したりしてます。だから落ち着いて仕事ができません。それだけじゃありません。最近、変な噂も立ち始めて。第四クリエーティブ部は呪われてるから、一緒に仕事しないほうがいいって…多分、他の部が、つまり社内のライバルの部が、ここぞとばかりにそういう噂を流してるんだと思うんですけど。だけど我々の仕事って、信頼第一なので。こういうくだらない噂でも、結構な痛手になるといいますか…」


「はあ」


「それで私、幽霊と話せるブライダルカメラマンの話を聞いたことがあるのを思い出したんです」宇田は悲しそうにスタバのマグカップに口をつけた。「それで、骨皮さんに、幽霊とお話しして頂けるのなら、と思いまして」

 

 骨皮は心のうちで長いため息を吐いた。彼は失望していた。骨皮は広告カメラマンの仕事を期待していたのだった。しかしまた幽霊退治の依頼だった。


 ネットで事前に調べてきたのだが、彼女の手掛けているコマーシャルは、赤ちゃん用オムツや、洗濯用洗剤、それからファミリーレストランのものだった。どれもがまばゆいばかりの幸福にあふれたコマーシャルだ。骨皮はいよいよそういう輝かしい仕事のオファーが、自分に巡ってくる時がきたのかと、期待に胸を膨らませた自分を恥じた…

 

 しかし、すぐに頭を切り替えた。そうだとも、宇田も言ったように、この仕事は信頼である。骨皮がうまく幽霊と話をつけることができれば、彼女は骨皮を信頼し、幽霊なんかとは全然関係のない仕事を、紹介してくれるということも、全くないとは言い切れないのではあるまいか。


「では、13階へ参りましょう」


 骨皮はキリッとした面持ちで立ち上がると、喪服のシワを伸ばしながら言った。宇田は不安げにうなづいた。


「では裏階段からご案内します」

 

 骨皮はその言葉に、一気に全身から力が抜けていくのを感じた。そして「全然構いません」と弱々しくうなづいた。


              *


 誰もいない13階のオフィスは、夕方の暖かな日差しのなかで、心地よく眠っているみたいに見えた。壁には様々な広告のポスターが所狭しと貼り巡らされ、整然と並んだデスクの上には、書類や埃をかぶったパソコンが、置き去りにされたように乗っている。


 耳を澄ませてみるが、聞こえてくるのは選挙カーの声やエレベーターの作動音ばかりで、豚や牛の声は聞こえてこない。

 

 真ん中あたりに、パソコンに向き合って座っている社員がいる。頭を揺らして、熱心に仕事に打ち込んでいる。骨皮が挨拶をすると、相手も頭を下げた。


「ダメみたいですね」骨皮は宇田の方を振り返った。「また日を改めた方がいいかもしれません。次は、夜の方がいいと思います」


「わかりました」後ろから付いてきていた宇田が、憂鬱そうに返事をした。


              *


 階段を登りながら、骨皮は尋ねてみる。「先ほどの方は、同僚の方ですか」

 

 先頭を歩いていた宇田が、不思議そうに振り返った。


「先ほどの方って」宇田の声はかすかに震えていた。「どの方ですか?」


 骨皮はじっと宇田を見つめた。その顔には不自然な笑顔が張り付いている。唇だけが、恐怖にひくひくと引きつっている。


「…戻ってもよろしいですか?」


 宇田は笑顔のまま、答えない。骨皮はもう一度繰り返してみる。


「あのう…戻っても?」


 宇田は相変わらず笑顔のまま、答えない。こうしている間に、幽霊がいなくなってしまうかもしれない。骨皮は彼女の返事を待たずに元来た道を引き返した。後ろから怯えた宇田がアイパッドを盾にするようにしてついてきた。

 

 

 

          *


 その中年の男は、黒のゴム長靴を履いていた。腰にはナイフの鞘が巻いてあり、ビニール製のエプロンにはどす黒いシミが染み込んでいる。たるんで不格好な耳の後ろの毛は、雪のように白くなり始めている。骨皮が声をかけると、沈んでいたその顔に、人懐っこい笑顔がぱあっと広がった。


「僕が見えるですか」


「見えます、はい」


「ほんとですか」


「はい、ほんとです」

 

 男は立ち上がると、ゴム手袋を脱いでポケットにしまい、握手を求めた。骨皮が男の手の位置を慎重に見定め、本当に握手しているように見えるような位置まで手を持っていくと、男はその手を握りしめようとした。もちろん、実際に握ることはできなかった。しかし骨皮は握り返す仕草をした。


 男は随分大きな、無骨な手をしていた。ところどころに、マメの潰れた跡があった。職人の手だ、骨皮は思った。


「いやね、ずっと、こうして話しかけてもらえる時をまっとったんです」


「お名前は?」


「あ、申し遅れました、猪瀬と申します。」


「私は骨皮と申します。あ、それであちらはー」骨皮はずっと後方で、仕切りの陰からこちらを覗いている宇田を指し示し、「うだ、さらさんです」と言った。


 猪瀬は宇田を見て嬉しそうに目を細め、「彼女なら、知っとりますです。美人だなあと思って、よく見ておりました。まあ向こうさんは僕のこと、見えねえみてえですが」


「そうでしたか」骨皮は見かけの恐ろしさとは随分印象の違う、幽霊の人の良さに随分安心して、言った。「あのう、失礼ですが、こちらで何をされてらっしゃるんですか」


「いや、何、ちゅうことはねえんですが」猪瀬は口ごもった。「そのう、綺麗な姉ちゃんたちを観察してるだけですわ」


「なるほど」


「だけど、あんたも男なら、僕の気持ち、ちったあわかるでしょう」


「死ぬほど女好きと言うことでよろしいですか」


「死ぬほどてあんた、もう死んでるもんにそんなこと、よく言えますなあ」


「ええ、慣れてますので」


「ほんと、いやに慣れてますよ、あんた。なんだか不気味に感じるくらい。俺が言うのもなんだけど」


「ありがとうございます。時に、失礼ですが、あなたはこちらで亡くなられたのですか?」


「いやいや、僕は家で死んだんですわ。酒の飲み過ぎで、お風呂ですっ転んでね。だけども死ぬ前、ずっとここではたらいとったから。ここが実質家みたいなもんで。それで、ここから離れられんちゅうわけです」


「こちらで、どんなお仕事を?」


「ええと、なんだったっけ…」


 猪瀬は眉をひそめて唸り始めた。あまりに長くこの世に漂流しすぎたせいで、記憶が抜け落ち始めているのだろうか。幽霊にはよくあることだ。これをゴーストハイマー症と呼ぶ。


「ええと…そんだな…あれ、おかしいな」


「屠殺工場ではありませんか?」


 猪瀬の顔から一瞬、笑顔が消えた。骨皮は何か、まずいことを言ってしまったのだろうかと思った。


 猪瀬は震える声で、「あんた、僕が怖いかね?」と聞いた。


「いいえ、怖くありません」

 

 猪瀬は骨皮の方を、怯える野犬のような目でうかがった。骨皮はなぜ突然、そんなことを聞くのだろうと不思議に思った。


 猪瀬はそうやってしばらく骨皮の方をうかがっていたが、突然ホッとしたような顔になって、「そう、解体員でした。毎日ここで、豚と牛をさばいてたんです。アァ、思い出した思い出した。よかったァ。だけどもあんたよう分かりましたなあ」


「はい。なんとなく、その格好と、あと、豚の声が聞こえるという話で」


「そう、ここは以前屠殺工場でしてね。今こそこんな、キレーイなビルに変わっちまったけど。前は僕みてえな汚ねえ野郎どもがうじゃうじゃ寄り集まって、来る日も来る日も豚の皮剥いで…あんな綺麗なお姉ちゃんなんか、テレビでしか見たことなかったですよ。来る日も来る日も、豚、豚、豚で。嫁さんもね、豚に似てましたよ。まあ最後の方は、豚よりは牛に似とりましたがね。」


「はあ」


「ほんとに綺麗な方ですなあ。いやあ僕ね、一度でいいから、あんなに綺麗なような人たちと、合コン、ちゅうんですか、そういうの、してみたかったですよ。一度でいいから」


「はあ」


「だけども、一回もできずじまいでね。なんせ、ほら、こういう仕事じゃないですか。女の子たちに人気がないんですよ。死ぬ前に一度…一度でいいから、してみたかったなあ。」


「猪瀬さん。」骨皮は相手を慎重に見つめた。「それがあなたの一番の心残りなんですね?」


「あったりまえですよ!夢が叶ったら、僕、昇天する自信があります!」


 骨皮はそっと後ろを振り向いた。宇田が疑念と恐怖の入り混じった表情でこちらを見つめている。


「わかりました」骨皮は猪瀬の方へ向いた。


「えっ?」


「合コン、しましょう、そうしましょう」






 


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