第六話 屠殺係の夢 その1
私は猫こそが、この世で二番目に上等な生物と信じている、しがない一匹の猫である。
では、一番上等な生物とは何であるか。
まさか、犬畜生ではない。あれはプライドがなくていけない。ネズミは馬鹿だ。虫は論外。人間は我々に餌をよこすために存在する下等動物だ。
では何であるか。
答えは豚。豚である。
彼らは高尚である。あの穏やかな目つきをみよ。死を前にして、穏やかに眠れるあの強さをみよ。
醜い人間どもよ。一度しか言わないからよく聞け。我々はみな、豚である。それは、迫り来る死を待ちながら、何の意味もない日々を、ただ生き続けているという点で。
しかしいざ死に際が迫ったら、彼らのように落ち着いた態度で臨めるものが、果たして何人いるであろうか。大半の者はさんざめき、己の悲運を呪い、鼻を鳴らして無様に泣きわめくのだ。
人間どもめ。彼らを敬え。然もなくば私がお前らをいつか豚カゴに閉じ込めてやるから覚えておけ。
東京・汐留。56階建の巨大ビル。大手広告代理店K社の自社ビルである。全面ガラス張りのそのビルは、今は雲ひとつない青空を写して、自らも空の一部に溶け込んでいる。
古ぼけたスーツーよくみると喪服であるーに身を包んだ骨皮は、ビルの入り口に立って、しばらく呆然と見上げていた。あまりの高さに、圧倒されていたのである。
横を通り過ぎていく人々は、皺ひとつないスーツやジャケットに身を包み、自信に満ちた表情を見せながら、颯爽と行きすぎてゆく。
どこか遠くで、三時を告げる鐘がなる。骨皮は約束の時間が迫っていることに気づき、皺だらけの喪服をまっすぐに伸ばし、髪をぎゅっと撫で付けると、カツンカツンと大仰に踵を鳴らしながら、大股で受付に向かって歩いていった。
五人ほどの受付嬢が、円形のカウンターの中で、せわしなく客の応対をしている。骨皮はロボットのような足取りでカウンターの前まで行くと、調子外れの大音量でこう言った。
「あのう、お世話になります。私、骨皮すじ男と申しますが。」
ディスプレイから顔を上げた女はプロモデルのように出来上がった見た目をしていた。この場に不釣り合いなみすぼらしい骨皮の全身を不躾に見回すこともなく、隙ひとつない笑顔を見せて、「お世話になっております」とお辞儀した。胸元で上品にカールされた髪の毛が、ふわりと踊った。
「いえ、こちらこそ。お世話に…あの、クリエイティブ部の宇田様と3時15分に約束をしておりますのですが、はい」
「ではこちらにご記入くださいませ」
上品な薄ピンクのネイルを施した指が、一枚の紙とボールペンとを差し出した。血の飛び散ったような筆記体で「骨皮」と書いたその時、背後から小さな声で名前を呼ばれた。
「骨皮さんですよね?」
「はっ」
勢いよく回転をつけて振り向くと、驚いた相手が一歩後ずさった。骨皮は慌てて「すみません」と謝った。
目の大きな女だった。背は骨皮の半分ほどしかない。黒髪から覗く真っ白な耳は、雪うさぎを思わせる。
女は微笑んで「初めまして、宇田と申します。」とツヤツヤにコーティングされた名刺を差し出した。骨皮が名刺を取り出そうとすると、宇田が遠慮がちに言った。「あのう、大変申しあげにくいのですが」
「はあ」
「裏口がありますので。そちらからお願いできますか。」
「裏口…ですか」
「はい。あの、ここは人目につきますから」
骨皮は一瞬、答えに詰まった後、
「ええ、それはもちろん!」
と目を輝かせて答えた。裏口、という響きが彼をひどく安心させたのだった。彼は正面口の華やかさに、無意識のうちにずいぶん疲れてしまっていたのだった。
案内されたのは、警備員専用のエレベーターであった。
宇田が階数を押している間に、骨皮はそっと、もらった名刺を盗むように見た。そこには金色の文字で、
「第3クリエイティブ部 チーフプランナー 宇田沙羅」と印字されていた。
「ちょっと、極秘のお仕事というか、あれなので。正面だと、いろいろ、見られるとまずい人がいますので」沙羅は骨皮に背を向けたまま、言った。「本当すみません」
「いえ、こういう扱いの方が、私は落ち着きますので」
「そうですか…」
気まずい沈黙の中、窓のないエレベーターは静かに上昇して行った。気圧の変化を耳で感じる。骨皮は一瞬寒気のようなものを感じてハッとしたが、すぐに立ち消えてしまった。
扉が乱暴に開く。宇田は泥棒でも連行するような足取りで、コソコソと周りの目を気にしながら歩き、隅っこの小さな会議室に骨皮を案内した。「少々お待ちください」と言い残し、勢いよく扉を閉めて、外へ出てゆく。
一人取り残された骨皮は、窓からの眺めに息を飲んだ。まるで、青空の上に立っているようだ。はるか遠くの眼下では、車や人がアリンコのように蠢いている。
扉がコンコン、とノックされる。骨皮が返事をする間も無く、宇田がコーヒーカップ一つを手に戻ってくる。もう片方にはスタバのマグカップを持っている。「♪うださら♪」とひらがなでシールが貼ってある。広告プランナーとしての腕を疑いたくなるようなセンスである。
「あの、ずいぶんと良い景色で」骨皮はありきたりなおべっかを言った。
「いえ、まあ、そうですね」宇田は作り笑いで返した。「でも、毎日だと飽きますよ」宇田は謙遜と本気の入り混じった声で答えた。
「はあ」
「このビルの最上階に、バーがあるんですけど。そこからの眺めに比べたら、全然です」
「はあ」
「あ、本日は、ご足労いただいてすみません。どうぞ、お座りいただいて」宇田のその口調からは、余計な雑談はさっさと切り上げて、とっとと本題へ突入したいという気持ちが感じられた。骨皮は下手に気を使って、雑談など振ってしまった自分を恥じた。
「では、失礼してー」目の前には新品のパイプ椅子と古ぼけたパイプ椅子とがあった。骨皮は一瞬迷ったあとで、古いほうへ腰掛けた。
「今日はどのような件で?」骨皮は宇田に負けじと、早口で本題を振った。
「実はですね」宇田は力強くうなづいて、「お気づきかもしれませんが、このビルには、13階がありません。以前の社長がこのビルを建設する時に、不吉な数字だからと言って、あえて避けたらしいんです。」
「はあ、なるほど。ホテルなどでも、よく使っているやり方ですね。13階を、12・5階と表記したりですとか」
「そうなんです。けれど、前の社長は、変なこだわりが強い人でして。こちらをご覧ください。」
宇田は新型のアイパッドを取り出して見せた。このビルの断面図が表示されている。まるでミルクレープのようだ…空腹の骨皮はそう思った。
「まるでミルクレープのようだ」
「はい?」
「あ、いえ、なんでも」骨皮は慌てて口をつぐむ。いけない。また心の声を口に出してしまっていた。
すると突然、アイパッドが震え始めた。驚いて顔を上げると、宇田が笑っているのだった。
「私も、ちょっと思ってました。ドトールのミルクレープっぽいなって」
「あ、はあ、まあ」
骨皮はそこで少し、緊張を解いた。落ち着いた目で見ると、宇田が大層な美人であることに気が付いた。
「ごめんなさい。脱線してしまって。それで、ここなんですが。」宇田は豚色のネイルで、空洞になっているフロアを指し示した。
「これ、13階なんです」
「と言いますと」
「つまり、前の社長はこう考えたんです。13階を14階と表記したり、12・5階と表記したりしても、結局それが13階であることには変わりはないと。そんなごまかしをするくらいなら、実際に13階を作っ
て、そこを開かずのフロアにする方がずっと確かだと」
「はあなるほど。ではこのビルには幻の13階が存在している、ということですね」
「そう。そうなんです。ですが、ここへきて、状況が変わりまして。一年前に就任した新社長が、そういうスピリチュアル的なことを、全く信じない人でして。」
「はあ」
「新社長は就任して間も無く、事業を拡大する方針を固めました。そうなると、場所がもっと必要になってきます。新社屋を建設する案も挙がったのですが、何せ、経費がかさみます。それで開かずの13階が槍玉に上がったのです。」
「はあ」
「すぐに13階の工事が行われて、そこをオフィスとして使用し始めました。私の所属する第四クリエイティブ部も、丸ごとそこへ移動しました。それが半年前のことです。最初は皆、新しくて綺麗なオフィスに喜んでいたんですがー」宇田は力なくアイパッドを置いた。「奇妙なことが起こるようになったんです」
「というのは」
「夜中、残業をしていると、どこからか、悲鳴が聞こえてくるんです。それも人間の悲鳴というよりは、その…獣の悲鳴のような」
「あなたも聞いたのですか?」
「はい」宇田は思い出すのもおぞましい、というような顔をした。
「どんな声でしたか?」
「…ぶひ」
「えっ」
「ぶひ、ぶひ。そういう悲鳴でした」
骨皮は唖然として宇田を見つめた。宇田はしかし、深刻な顔をして、ちっともふざけているようには見えなかった。




