第五話 飢饉時代の亡霊、大食い選手権に出場する 終
サイン会は大盛況であった。
骨皮が着く頃には、雨の日の平日だというのにもかかわらず、列が入口付近まで延びていた。骨皮は買ったばかりの床の本を片手に、2時間近く待ち続けた。
客は中年男性が多かった。皆、床の清楚な美貌と、本の衝撃的な内容とのギャップに惹かれているらしかった。
骨皮の番までいよいよあと一人となった。
しかしなかなか骨皮の前の客が床と握手したまま手を離そうとはせず、矢継ぎ早に質問を浴びせていたものだから、なかなか番が回ってこなかった。
聞こえてくる会話は、次のようなものだった。
「君、すごいね。まるで、本当に飢饉を知っている人が書いたみたいで、驚いたよ」
「ふふふ、全部、想像なんです」
「いやあ、すごいなあ。想像力の勝利だね。だけど僕はてっきり、髪を振り乱した山姥みたいな作者を想像していたよ…まさか、こ、こ、こんな綺麗なお姉さんがねえ」
「いいえそんな。ふふ。」
骨皮はスタッフの一人が「では、ここで締め切らせていただきます!」という声を背中に聞いて、冷や汗をかいた。
ようやく番が回ってくる。
「人食い山姥サイン会」と、でかでかと描かれた腕章をつけたスタッフに、本を手渡すよう命じられ差し出すと、スタッフは獲物を見つけたような目で、「一冊だけですか?」と尋ねた。
「はあ、そうですが」
「申し訳ございません。先生のサインは、三冊以上のお買い上げの方限定とさせていただいているので」
「なんですって」
「あと二冊ご購入いただいて、また改めてお並び願えますか」
「しかし、もう締め切られているのでしょう」
「ああ、えーと、そうですね。」スタッフはうざったそうに骨皮を見た。本を乱暴に突き返し、「申し訳ありません」と早口で謝ると、骨皮を強引に列から追いやって、次の人に声をかけた。
その時高座に座る床と、ばちんと目があった。床は骨皮に向かって、得意げに微笑んだ。
骨皮がスタッフを押しのけて、床の方へ一歩踏み出そうとした、その時だった。
「君、君、」
突然、後ろの紳士が骨皮に声をかけた。
まんまる太ったカーネルサンダースそっくりの、ちょび髭の彼は、骨皮に新品の本を二冊差し出して、「二冊余分に買い占めてしまったものでしてね。よかったらどうぞ」と言った。
骨皮はその時、紳士の尻尾が、ゆらゆら振り子のように揺れるのを見た。
間違いなくタヌキチだった!
ああ、持つべきものは友だちだ!それが人間でなくたって、何だって!
骨皮は頭を深々と下げて、「これはどうも!」と言って、その本を受け取った。本は何だか熱を持って、生暖かった。
しかし骨皮は感激のあまりそんなことは気にも止めずに、意気揚々と床の元へと歩いて行った。
床は引きつった笑顔で微笑むと、サインペンの蓋をキュポッと開け、下を向いて、「お名前は?」と早口で尋ねた。
「骨皮と申します」
「骨皮さん。どうもありがとうございます」
床はすらすらとした字でサインを書いた。
「しかし、全く、素晴らしいアイデアですね」
「それはどうも」
床は答えずに、ニコニコしながら本を差し出した。
「あなたは宮千代どのを立派に利用されている」
「何のことです?」床はそこでスタッフに目配せして、「さあ、次の方」
「二冊目にもサインをお願いします」
「サインは一冊のみと決まっております」
スタッフが骨皮を追い出そうとするのを、床が素早く遮った。
「いえ。いいの。お書きします」
「これはどうもご親切に。」
「私は自分の力でこの本を書きました」床はサインペンの蓋をもう一度キュポっとやった。「誰の助けも借りずに」
「それは嘘です。あなたは宮千代どのの気持ちを踏みにじっている。あなたは宮千代どのの願いを叶えずに、自分の願いを叶えました。さあもういいでしょう。サイン会が終わったら、一緒に犬肉を振る舞う店へ参りましょう。そこではイノシシ、カンガルー、ワニなど、珍しいお肉が食べれるのです」
「せっかくですけど、この後、取材が入っておりますから」
「では、明日はどうです。明後日は?」
「すみませんけど。明日も明後日も、講演会と取材でいっぱいなんです」
「あなたはそこで、偉そうに飢饉時代を語るのですね。さも自分の手柄のように!」
バン! 床が怒り狂ってペンを置いた。床は今までにないほどきつい眼差しで骨皮を睨みつけていた。
「これは私と幽霊との問題です」
「しかしあの日あなたは、私に助けてほしくって、取材を申し込んだのでしょう」
「あの時は確かにそうでした。だけど事情が変わったんですー
幽霊だって私の体を利用しているのだから、お互い様なんです」
骨皮は机をバン!とたたき返した。
「あなたは恐れているのです。本当の自分を見破られることを。書くものなど何もない、空っぽな人間ということを。だから宮千代どのの悲しみや苦しみを利用している。だけどそれはあなたのものではない。あなたが本当に目を向けるべきは、あなたの心の奥にある悲しみです。大飢饉時代の悲しみに匹敵する悲しみが、よくよく探せば自分の心の中にもあるはずだと、我々現代人は、信じるべきなのではありませんか」
「この人をつまみ出して」床は冷たい声で言い放った。スタッフが束になって駆け寄ってきたその時、突然床の手元の本が爆発した。
いや、正確には爆発ではなかったー
それは本が本来の姿、つまり子狸に戻ったと言うだけのことであった。子狸はタヌキチの合図で、尻尾をバネにビヨーンと飛び上がると、ぽかんとしている床の口に、肉の塊を突っ込んだ!
その場は騒然とした。床は身悶えながらひっくり返った。
ぐえっ、ぐえっ、と蛙のつぶれたような音が本屋を満たした。
骨皮は呆然と床を見つめた。床の中の宮千代が、体を震わせながら、泣き始めた。か細い声で、「これは犬肉なのか」と尋ねた。
すかさず、タヌキチが、「そうだ」と答えた。「間違いなく、わしの寺の境内で死んでいた、野良犬の肉だ!」
すると床の中の宮千代は何を思ったか、がぶりと自分の腕に食らいついた。その場にいた人々は、あまりのことに悲鳴も出せずに、ただハッと息を飲んだ。
「今ようわかった。ようわかったわい…」肉を吐き出しながら宮千代はか細い声で泣いた。「わしは、あの日、犬の肉を食べたんじゃのうて…人の肉を食べたんじゃわい。犬だと思うてわしが食うたのは、どこぞの仏様だったんじゃあ。わしは…わしは、悲しい。わしは、最後まで、人の肉を食わずに死ねたと思うとったのに…」
次の瞬間、床の体から、雲のような魂が抜けて行くのが見えた。
宮千代は犬肉を食べたかったのではなかった。ただ、確かめたかったのだ。自分が人を食べたのか、そうでないかを。
骨皮は最後まで、なんと声をかけてよいやら分からなかった。どんな言葉を重ねても結局、彼の悲しみには、到底追いつかないのだと、そう思った。




