15 負けない
それからどんな言葉を交わしてスィーンと別れたのか、ラフニカは記憶にない。
脳内に溢れる「?」と「まさか」の感情に翻弄され、気がつけばフェリスが借りているという部屋の前まで辿り着いていた。
思考はいまだ混乱の真っ只中だ。それでも軽く深呼吸をして、ラフニカは心を決める。
「失礼します、ラフニカです。フェリス様、ご無事ですか?」
努めて平静な口調で声を掛け、ノックを鳴らす。途端、室内から慌てたようにゴトン、と重いものが転がる音と獣の唸り声のような響きが返ってきた。
しばらく待って様子を見る。だが、それ以上の反応はない。……で、あれば次に取るべき行動は。
「すみません、お返事ないので中を確認させてもらいますね」
「来ちゃ、ダメだ……!」
フェリスの掠れた声が聞こえるのと、ラフニカが鍵を開けるのはほぼ同時であった。
ゆっくりとドアが開く。中の様子が徐々にあらわになっていく。
ラフニカの目に真っ先に飛び込んできたのは、その先で苦しそうに床に横たわっている大きな猫。
「っ……!」
猫の存在そのものよりも別のことに心を奪われて、ラフニカは大きく目を見開いた。
だって、その毛皮の柄。その顔立ち。
——忘れるはずもない。目の前に居る、その猫は。
「キティ……?」
ラフニカにとって忘れられない、旧き友の姿だったのだから。
その猫に呼びかける声は、懐かしさに声を震えていた。
唯一無二だった、子供の頃の大事な友達。たとえその身体が自分を優に上回る大きさになっていたとしても、その姿を間違えるわけがなかった。ああ、でも真っ白だったお腹の毛が黒く汚されているのは何故だろう。あれはまるで……。
ラフニカの呼びかけに、緑の瞳がゆっくりと気だるげに開かれた。
野性味に溢れながらも優しい眼差しが、ラフニカに向けられる。それは懐かしいはずなのに、何故か今もよく知るもので。
(まさか……)
驚きに息を呑んだラフニカの目の前で、突然、ぶわりと黒い霧が舞い上がった。
覚えのある不吉な感覚とともに、真っ黒な呪詛が燃え広がるように渦を巻いて大きくなっていく。
(これはリリアの呪い……でもなんでこのタイミングで?)
反射的に身を引いたラフニカの耳元で、憎しみに満ちたリリアの声が反響するように鳴り響く。
「あの女の婚約者がフェリス様ですって!?」「どうしてあんな女が」「私より下のくせに」「調子に乗って許せない」「あんな女、一生不幸で居れば良いのに……!」——あいも変わらず彼女の呪いは身勝手で、傲慢で、そして揺るぎない。
(まさか、私とフェリス様の関係を知って、もう一度呪いを飛ばしたの……!?)
その憎しみと妬みのどす黒い怨念は呪いの炎をいっそう燃え上がらせ、ラフニカの皮膚をちりちりと焼いた。
その勢いはとどまるところを知らない。後はもう、呪いの対象である自分がその炎に呑み込まれるのも時間の問題で——。
思わず目を瞑ったラフニカの耳に、「ギャウン」と獣の悲鳴のような声が聞こえた。
恐る恐る薄目を開ける。——そこで目に入ったラフニカにとって理解できない光景であった。
(え……?)
目の前の光景が理解できず、ラフニカは思わず硬直した。
この呪いは、間違いなくリリアが自分を狙って放たれたものだ。彼女の声が聞こえる以上、そこに一片の疑いの余地もない。それなのに、何故。
この呪詛はキティの身体に纏わりついているのだろう。
何が起きているかわからず立ち尽くすラフニカの前で、ひときわ強く呪詛が燃え上がった。それは戒めのようにキティの身体を締め上げ、呪いの証である黒い紋様を全身に刻みつけていく。
その光景を前に、ラフニカは雷で撃たれたような衝撃が走り抜けていくのを感じた。
——かつて、リリアの呪いに襲われたときの記憶がよみがえる。
あのとき聞こえた獣の悲鳴、何故か軽くて済んだラフニカの呪い、唐突に姿を消したキティ、……そして目の前のキティの正体とお腹に刻まれた黒い穢れ。
バラバラだった事象が、すべて繋がっていく。それらが指し示す真相は——。
「キティ……いえ、フェリス様。貴方だったのですね、私を呪いから守ってくれたのは」
キティ……否、フェリスの緑の瞳が、驚いたように大きく見開かれた。
その隙を狙っていたかのようにフェリスに巻きついていた呪詛が鎌首をもたげ、そして彼の首筋へと喰らいつく。部屋が揺れるほどの悲鳴が鳴り響く。苦しみに悶え、フェリスが床の上でのたうち回る。
(許せない、どうしてこんなひどいことを——)
気がつけば胸元のロケットを引きちぎり、ラフニカはフェリスの元へと走り寄っていた。
頭の中が真っ白になるほどの怒りに目が眩みそうだ。その怒りはリリアに向けたものであり、そして呑気な自分に向けたものでもあった。
一体、どれだけ長い間彼は呪いに苦しめられていたのだろう。その献身は誰にも知られることはないというのに、フェリスはずっとラフニカを守り、苦しみに耐えていた。
ラフニカがただ、リリアに立ち向かう勇気を持たなかった所為で。
「あなたなんかに、これ以上フェリス様は傷つけさせない……!」
迷いなんて、微塵も感じなかった。今まで一度も開けたことのなかったロケットを暴きたてるように乱暴に開く。
「そんな自分勝手な願い、許さない!」
その中に収められた鏡を目にした瞬間、ラフニカは自分が何をすれば良いのか自然に理解した。その鏡を呪詛に向かって突きつけ、叫ぶ。
「消えてしまえ……!」
刹那、目を開いていられないほどの閃光が走った。光に灼かれて反射的に顔を背けるが、ロケットの鏡は逸らさない。
ロケットを握り締めた手がずん、と重くなる。まるで質量のある泥を吸い込んでいるかのように。
耐えきれず、がくりと膝をついた。それでも、鏡は手から離さない——離すものか。
しだいに頭がぼんやりとしてくる。視界がぼやけ、そして奇妙なクスクスという笑い声が頭の中で反響しはじめた。最初は小さかったその声は徐々に大きくなり、そして言葉を繋いでいく。
「どうしてそんなに必死になるの」「誰もアンタを愛さないのに」「生きてる価値なんてないのに」「身の程知らず」「大人しく消えてしまえば」「そのほうが楽になるよ」——こちらの精神力を削るような囁やき声に、思考が黒く塗りつぶされていく。クスクス、クスクス……。
毒に満ちたその言葉は、確かにラフニカの心を抉る的確な内容であった。かつての彼女であればそれを受け入れ、大人しく諦めてしまったことだろう。
でも。
「私は、負けない……! 負けるものですか!!」
折れそうになる心を叱咤し、ラフニカは力を振り絞る。
自身の敗北は、フェリスの苦しみに繋がる。ここで諦めるわけにはいかなかった。
鏡から放たれる光がいっそう強くなる。あまりの眩しさに、五感が真っ白に染まっていく。もう、何もわからない。それでも鏡だけは絶対に取り落とすまいと、ラフニカは手を強く握りしめて——。




