第11話 ベルファストから来た男(前)
ロンドン、ウェストミンスター区、ピカデリー通所在、在英日本国大使館。
1905年に在英日本公使館から昇格したことで生まれた日本国が初めて設置した大使館だ。日本が列強と対等の立場にまで上り詰めたことを示す象徴でもある。
これから半年の間、俺はここの職員になる。『先生』が用意してくれた偽りの身分である。
そして半年分の生活費として80ポンド。こちらは事実上の退職金。これを受け取りたくなくて、随分とここを訪れるのを先延ばしにしていた。
大使館を所管するのは外務省、すなわち日本国最大の諜報機関である。
大使館には、なじみの連絡員もいた。もはや部外者の俺が知ることのできる情報はわずかだが、それでも機関の主力がバイエルンに集結していると分かった。ドイツ帝国崩壊後バイエルンでは首相が暗殺され、随分ときな臭い状況にあるようだ。猶予は1ヶ月といったところか。
俺は食堂から米や味噌など懐かしの食材を拝借すると、そこを後にした。
屋敷に戻ると男が一人俺を待ち構えていた。玄関ホールで独りタバコを燻らせている。
男は安物のラウンジスーツ(ジャケット・パンツ・ベストの三点からなる紳士の普段着)にハンチング帽といった装いで、どこにでもいる労働者の若者に見えた。歳は20代前半といったところか。背は低く俺とそう変わらない。
「よぉ、東洋人。お嬢様にうまく取り入ったようだな」
アイルランド訛り。挑発的だが、しっかりとした教育を受けた人間のようだ。
「私に何か用かな。御用聞き君」
「俺は御用聞きじゃねぇよ、東洋人。俺は正規の魔人狩りだ。それがどういう意味か理解できるか」
初めて出会う魔人狩りだった。気に入られてはいないようだが俺にとってはより精度の高い情報源となる格好のターゲットだ。
軽く挑発して一、二発殴らせる。あとは下手に出ておだててみせる。そんな絵をかいてみた。
「私は客人であると理解していたが、君は主人の顔に泥をつもりかな」
「ふふん。都合の悪いことははぐらかそうって魂胆かい、アンタが知りたいことくらいお見通しだぜ。俺はなぁ、アンタのように一歩引いて、まず他人を値踏みするようなタイプは大っ嫌いなんよ。だから、アンタの安い挑発には乗ってやるよ、なぁにちょっとじゃれ合うだけだ。お嬢様の耳には入らないさ」
それこそ安い挑発だ。
「中庭にちょっとした訓練場があるんだ。そこでやろう」
男の態度に不信さはなかった。むしろマチルダが部外者にあれこれとしゃべりすぎるのだ。部下として釘を刺したくなる気持ちは分かる。ただのケンカに終わらせるつもりはない。手の内を引き出すところまではやらせてもうぜ。
「最初に行っておくが、手加減はいらない。全力でかかってこい。これは剣を抜けって意味だぞ」
廊下を移動しながら男は言う。随分な自信だ。生身の人間相手に武器を抜けだと、さてどうしたものか。
男は続ける。
「魔人には、その強さに応じてランクがある。最低ランクが第1位階。そしてお前が倒したあの魔人だがな、あれで第2位階だ。そして、正規の魔人狩りとなる条件は『第2位階の魔人を単独で殲滅可能であること』、わかるな」
必死に動揺を隠す。こいつは、あのデボラよりも強いというのか。衝撃的な事実を前に思考が錯綜する。
やがて中庭に着く。庭をくるりと一周する回廊に沿って生垣と花壇が置かれている。その内側には芝生が敷かれた広々とした空間に1ダースほどの立木が植えられていて、都会の中心に憩いの場を提供していた。その一角にテニスコートほどの大きさの、土がむき出しになった何もない空間があった。
「今は誰もいないけどな。普段はここも騒がしいんだぜ」
「君のお仲間の、その魔人狩り《デモンスレイヤー》ってのは何人くらいいるんだ?」
「うちに所属するのは、正規の狩人が30人くらいだな。スタッフと見習いを合わせると100人くらいになるか。全員が一堂に会するようなことは滅多にないけどな」
俺は刀袋から紅錆を抜くとゆっくりと男と間合いを取る。男は、落ち着いた様子でただ両腕を上げて胸の前で構える。ボクシングスタイルか。
「俺があんたよりも強いのは、言ったとおりだ。負けても恥じることはない。いつでも好きなタイミングで来なよ」
男は澄んだ青い目で俺を睨みにつける。恐れや恐怖はなく、慢心や怒りのようなものもない。
山登りのさなか面白い虫を見つけた、例えるならそんな風。純粋な好奇心とわずかな加虐。
日本刀など見たこともないのだろう。ましてやサムライなど。この貧相な東洋人がどこまで自分を楽しませてくれるのか、そんな期待。
それはつまり、まるっきり今の俺が抱いている気持ちと同じなのだった。




