第3話 二つの記録
「まず、一件目です」
レティシアは六冊の報告書のうち、一番左に置かれた一冊を手元へ引き寄せた。
先ほど確認した六件すべてに、同じ一文が記されていた。
――双方の合意により、円満な協議解消とする。
過去の通常案件まで調べた結果、それが王国で共通して使われる定型文ではないことも確認できている。
ならば次に調べるべきは、その言葉が最初に使われた案件だった。
「東方公国か」
向かい側の椅子へ腰を下ろしながら、グラハムが表紙を見る。
そこには七年前の日付とともに、案件名が記されていた。
――東方公国公女との婚姻協議に関する最終報告。
王太子エドワルドが最初に婚約を解消した案件である。
「確か、殿下がまだ今ほど婚姻問題を起こしていなかった頃だな」
「当時十八歳です」
「理由は?」
レティシアは報告書を開いた。
婚約成立までの経緯。
両国間で交わされた条件。
使節団の往来。
東方公国公女の王都滞在予定。
予定されていた儀礼。
必要経費。
書類上では、婚姻準備は問題なく進んでいた。
ところが、婚約解消について記された部分だけは妙に短い。
レティシアがその一文を読み上げる。
「王太子殿下と東方公国公女との間に、婚姻生活を継続するに足る相互理解を形成できず、双方協議の結果、婚約を解消するに至った」
グラハムが腕を組んだ。
「ずいぶん柔らかい書き方だな」
「外交文書ですから、表現を穏当なものにすること自体は珍しくありません」
「なら、これだけでは問題とは言えないか」
「はい」
レティシアは即答した。
「問題かどうかは、他の記録と照合してから判断します」
次の頁。
そして最終頁。
そこには、すでに見慣れつつある文言が記されている。
――双方の合意により、円満な協議解消とする。
「王室へ提出された最終報告では、外交上の影響も軽微とされています」
「軽微、か」
「はい」
「だが、この一件で金貨二千枚が動いている」
「そこを確認します」
レティシアは机の横へ積まれた資料箱へ手を伸ばした。
札には、歳費局と記されている。
蓋を開き、綴じられた決裁書を一冊ずつ確認していく。
一冊目。
違う。
二冊目。
これも違う。
三冊目。
レティシアの指が止まった。
「ありました」
グラハムが身を乗り出す。
「同じ案件か?」
「案件番号が一致しています」
外交局の最終報告書。
歳費局の支出決裁書。
二冊を並べる。
歳費局側には、東方公国との交易条件変更に伴う歳入減少への補填が記録されていた。
金貨二千枚。
「これが三万枚に含まれている最初の損失か」
「はい」
「外交局では影響軽微」
グラハムが歳費局の書類へ視線を落とす。
「こちらでは金貨二千枚を補填している」
「記録上は、そのようになっています」
「軽微という言葉は大変便利だな」
「金額を『軽微』と評価する記載には、作成者の判断が含まれます」
「お前ならどう書く?」
「金貨二千枚です」
グラハムが小さく息を吐いた。
「聞いた私が悪かった」
レティシアは歳費局の決裁書を読み進める。
支出理由。
承認経路。
予算流用元。
添付資料。
一枚ずつ目を通していた指が、不意に止まった。
「……局長」
「今度は何だ」
「こちらを」
レティシアは添付書類をグラハムの方へ向け、差し出した。
グラハムが文面を追う。
やがて、その表情からわずかな軽さが消えた。
「王太子殿下より、婚姻継続の意思なしとの通告を受け……」
途中まで読み上げたところで、声が止まる。
レティシアは外交局側の最終報告書を開いた。
――双方協議の結果、婚約を解消した。
次に、歳費局側。
――王太子殿下より婚姻継続の意思なしとの通告を受け、東方公国側より交易条件の再検討を求められた。
同じ案件番号。
同じ婚約。
同じ解消日。
それにもかかわらず、婚約が終わった経緯が違う。
「……同じ出来事だよな?」
「案件番号、対象者、日付、すべて一致しています」
「なら、どちらかが間違っている」
「その可能性はあります」
「随分慎重だな」
「現時点では、どちらが事実と異なるのか確認できていません」
グラハムが歳費局側の記録を指で叩く。
「こちらの方が具体的に見えるが」
「具体的であることと、正しいことは別です」
レティシアは二つの記録を机の上へ並べた。
一方には、「双方の合意」。
もう一方には、「王太子からの婚姻拒否」。
グラハムが二つを見比べ、腕を組む。
「東方公国側の記録を確認するしかないか」
「その前に、王国内の記録をもう少し確認します」
「まだ何かあるのか?」
「文書は、内容だけを見るものではありません」
レティシアは外交局の最終報告書を持ち上げた。
右上に記された作成日。
次に、東方公国との往復書簡をまとめた外交記録を開く。
一通。
二通。
三通。
東方公国側から婚約解消について正式回答が届いた日を探す。
見つけた。
レティシアの指が、その日付の上で止まった。
一度、外交局の報告書へ戻る。
もう一度、往復書簡を見る。
見間違いではない。
「局長」
「どうした?」
「この最終報告書が作成されたのは、東方公国から正式回答が届く三日前です」
グラハムの眉が上がった。
「……三日前?」
「はい」
「待て」
グラハムは外交局の報告書を手に取った。
「これは最終報告書なんだろう?」
「表題上は」
「だが、この時点では相手の回答が届いていない」
「その通りです」
「なら、どうやって『双方合意』と書いた?」
レティシアは答えなかった。
推測ならいくつもできる。
だが、監査報告へ記載できる事実は一つしかない。
相手国の回答より先に、双方合意という結論が作られていた。
レティシアは報告書の最後の一文を指先でなぞった。
――双方の合意により、円満な協議解消とする。
正式な回答が届く三日前。
東方公国側が婚約解消を受け入れるかどうかも確定していない。
どのような条件を要求するのかも決まっていない。
それにもかかわらず、王室へ提出する最終報告書だけは完成していた。
グラハムが低く呟く。
「結果を予想して書いたのか?」
「それなら、最終報告書ではなく事前報告書とするべきです」
「では……」
レティシアは机の上に三つの記録を並べた。
外交局の最終報告。
歳費局の支出決裁。
東方公国からの正式回答の日付。
「記録が二つ食い違っているだけではありません」
グラハムがレティシアを見る。
レティシアは一つ目を指す。
「外交局では、双方の合意」
二つ目。
「歳費局では、王太子殿下からの婚姻拒否」
三つ目。
「そして、双方合意とする最終報告書は、相手国の正式回答より三日前に作成されています」
グラハムの表情が険しくなる。
「理由が違う」
「はい」
「結果も違う」
「はい」
「そして結論だけが先にあった」
「そのように見えます」
しばらく、誰も言葉を発しなかった。
周囲では、他の監査官たちが紙をめくる音だけが続いている。
レティシアは改めて最終報告書の末尾へ視線を落とした。
作成者。
確認者。
決裁者。
三つの署名欄。
「誰が書いた?」
グラハムが尋ねる。
「作成者は、当時の外交局婚姻担当官です」
「まだ王宮にいるか?」
「確認します」
レティシアは職員名簿を取り寄せた。
七年前の職員名簿と現在の職員名簿。
姓名を照合する。
一人目。
違う。
次。
見つけた。
レティシアの指が止まった。
「いました」
「まだ外交局か?」
「はい」
「役職は?」
レティシアは名簿から顔を上げる。
「現在も外交局勤務です」
グラハムが目を細めた。
「呼ぶか」
「その前に確認しておきたいことがあります」
「何だ?」
レティシアは資料箱へ視線を向けた。
東方公国側の往復書簡。
歳費局の決裁。
王室提出用の最終報告。
同じ案件について残された記録は、まだこれだけではない。
「本人へ尋ねるのであれば、こちらが何を確認できていて、何を確認できていないのかを明確にしてからです」
「逃げられるとは思わないが」
「逃げるかどうかも、まだ分かりません」
グラハムが苦笑した。
「相変わらずだな」
レティシアは答えず、東方公国との往復書簡の束を手に取った。
その中に、公女本人から送られた短い書簡が一通だけ残されていた。
婚約が破棄されるより前の日付。
華美な文章ではない。
両国の友好に触れ、互いを知る時間を大切にしたいと記されているだけだった。
レティシアはそれを数秒見つめ、元の位置へ戻した。
感情は監査対象ではない。
だが。
少なくとも、書類の上では。
最初から双方が婚約解消を望んでいたようには見えなかった。
レティシアは一冊目の最終報告書だけを手元へ残し、残る五冊を閉じた。
「局長」
「なんだ」
「一件目から確認します」
「何を?」
レティシアの青灰色の瞳が、最終頁に記された一文を捉える。
――双方の合意により、円満な協議解消とする。
「この『円満』が」
レティシアは静かに告げた。
「誰によって、何のために作られた言葉なのかを」




