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王太子の婚約破棄を監査した結果、国家損失三万枚と隣国皇帝の招聘を受けました(連載編)  作者: 和幸雄大


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第2話 朝一番の御前会議

翌朝。

王城中央棟の上層に設けられた御前会議の間には、夜明けと同時に主要省庁の長官たちが集められていた。

窓の外では、ようやく王都の屋根を朝日が照らし始めている。

だが、長い楕円形の会議卓を囲む者たちの顔に、朝の清々しさなど欠片もなかった。

外交局長。

歳費局長。

軍務省長官。

農政局長。

法務省長官。

そして、王国政務を統括する宰相。

その誰もが、会議卓に置かれた分厚い書類の束を見つめながら口を閉ざしていた。

会議卓の末席に近い位置には、濃紺の制服を着たレティシア・ヴァルハルトが座っている。

その隣には、監査局長グラハム・ロウエル。

レティシアの前だけ、他の出席者より明らかに多くの帳簿と決裁書が積まれていた。

一冊。

二冊。

三冊。

高さまで綺麗に揃えられた帳簿の山を見て、グラハムが小さくため息を吐いた。

「朝から景気の悪い眺めだな」

「帳簿は昨日と同じです」

「そういう意味ではない」

「では、どのような意味でしょうか」

「……もういい」

グラハムは諦めたように椅子へ深く腰掛けた。

やがて、会議室奥の扉が開いた。

「国王陛下、ご入室」

全員が立ち上がる。

国王アーサー・レオンハルトが入室し、その後ろから王太子エドワルドが続いた。

昨夜の晴れやかな表情は、すでに消えている。

だが、憔悴しているというよりは、納得できないまま無理やりこの場へ連れてこられた者の顔だった。

国王が上座へ着く。

「座れ」

国王の一声で、全員が一斉に腰を下ろした。

エドワルドは国王の右隣に用意された席へ座ると、すぐにレティシアを見た。

その視線は明らかに険しい。

レティシアは気にする様子もなく、手元の書類の日付を確認していた。

「始める」

国王の一言で、御前会議が始まった。

「昨夜、王太子エドワルドは北方侯国公女アーデルハイトとの婚約破棄を公の場で宣言した」

誰も口を挟まない。

「その結果、監査局から現時点で金貨四千五百枚の暫定損失が発生する可能性が報告された」

国王の視線がエドワルドへ向く。

「ここまでは相違ないな」

エドワルドはわずかに口元を歪めた。

「婚約を破棄したことは認めます」

「損失について聞いている」

「その金額については、私は認めておりません」

数人の長官が顔を上げた。

国王の眉がわずかに動く。

「理由を申せ」

「昨夜も申し上げましたが、監査局は婚約解消によって起こり得るあらゆる事態を、すべて私の責任として金額へ置き換えております」

エドワルドは椅子から身を乗り出した。

「北方侯国が本当に防衛協定を凍結するかは、まだ決まっていないはずです」

国王は一度だけレティシアへ視線を向けた。

「ヴァルハルト監査官」

「はい」

「事実か」

レティシアは立ち上がることなく、手元の書類を確認した。

「防衛協定そのものの正式な破棄は、現時点では確認されておりません」

エドワルドが身を乗り出す。

「ほら見ろ」

だが、レティシアは続けた。

「ただし、北方侯国との協定第十八条には、婚姻契約が一方の意思によって破棄された場合、正式な再協議が完了するまで共同防衛費の負担割合を停止できると明記されております」

レティシアは一枚の書類を会議卓の中央へ差し出した。

「昨夜の宣言を受け、北方侯国使節団からは、すでに同条項を適用する旨の通知が外交局へ提出されております」

外交局長が露骨に顔をしかめた。

エドワルドの勢いが止まる。

「……いつだ」

「昨夜、祝宴終了から一刻以内です」

「そんなに早く……」

「先方にとっては、あらかじめ想定しておくべき事態だったのでしょう」

会議室の空気がわずかに変わった。

エドワルドがレティシアを睨む。

「嫌味か」

「事実です」

「ヴァルハルト監査官」

国王が低い声で制した。

「はい、陛下」

「昨夜の四千五百枚については、正式な監査報告が出るまで暫定値として扱う」

「承知いたしました」

国王はそこで一度言葉を切った。

「問題は、その次だ」

視線が会議室を巡る。

「監査局は、過去六件における婚約解消によって発生した確定損失が、金貨三万枚に達すると報告した」

沈黙が会議室を包み込んだ。

昨夜その数字を聞いていなかった者もいるらしく、軍務省長官が眉を寄せ、農政局長が隣の歳費局長へ視線を送った。

国王は続ける。

「余は、過去の婚約解消について報告を受けている」

エドワルドがすぐに頷いた。

「そうです、父上」

「毎回、先方とは協議を行い、国家への影響は限定的であると説明されてきた」

「その通りです」

「ならば、三万枚とは何だ」

今度は誰も答えなかった。

国王の視線が、一人ずつ各省庁の長官をなぞっていく。

最後に外交局長で止まった。

「申してみよ」

外交局長はゆっくりと立ち上がった。

「恐れながら陛下」

「申せ」

「王太子殿下の過去の婚約解消につきましては、確かにそれぞれ外交上、あるいは財政上の調整が発生いたしました」

「調整」

「はい」

外交局長は一度、レティシアを見た。

「しかし、それらはすでに各担当部署において処理されております」

「処理されている」

「左様でございます」

少しずつ声に自信が戻っていく。

「外交上の問題は外交局が、予算上の不足については歳費局が、国境警備に関する変更は軍務省が、それぞれ適切に対処してまいりました」

「つまり?」

「昨夜、監査官殿が申し上げた金貨三万枚という数字は、すでに解決済みの過去の支出を、改めて一つに集計したに過ぎないものと考えます」

エドワルドが大きく頷いた。

「ほら見ろ」

王太子はレティシアへ顔を向けた。

「やはり終わった話ではないか」

レティシアは何も答えなかった。

「国は金を使うものだ」

エドワルドは続けた。

「外交にも、軍にも、道路にも金は必要になる」

「はい」

「ならば、過去に使った金をすべて私の婚約解消のせいだと並べるのは、不公平ではないか」

「おっしゃる通りです」

エドワルドが目を瞬いた。

外交局長も意外そうにレティシアを見る。

「そのため監査局では、通常の国家支出を損失額へ含めておりません」

レティシアは目の前の帳簿を一冊開いた。

「金貨三万枚に算入しているのは、婚約解消がなければ発生しなかったことを証憑によって確認できる追加支出、ならびに確定した歳入減少のみです」

「……何?」

「例えば、通常の国境警備費は算入いたしません」

レティシアはページをめくった。

「婚約解消による防衛協定の変更によって追加された傭兵雇用費のみを算入しております」

さらに一枚。

「通常の道路維持費も算入しておりません」

もう一枚。

「婚約解消によって共同出資が撤回された結果、王国側が追加で負担した金額のみです」

エドワルドの口が閉じる。

レティシアは外交局長を見る。

「外交局長がおっしゃる通り、それぞれの支出は処理されております」

「ならば――」

「しかし、処理と解決は同じ意味ではございません」

外交局長の顔が強張った。

レティシアは淡々と続ける。

「金庫から支払えば、帳簿上の未払いは消えます」

誰も動かない。

「ですが、支払った金貨まで戻るわけではありません」

国王がゆっくりと腕を組んだ。

「監査局長」

「は」

グラハムが答える。

「三万枚の根拠となる資料は揃っているのか」

「現時点で監査局が保有する写しだけでも、大部分は確認できます」

「大部分?」

「正式な原本を各部署が保有しておりますので」

グラハムの言葉に、会議室の空気が変わった。

国王はすぐに意味を理解した。

「なるほど」

そして各省庁の長官を見渡す。

「では、確認すればよい」

外交局長の眉が動く。

「陛下?」

「本日をもって、過去六件の婚約解消に関係するすべての資料を監査対象に指定する」

何人かが息を呑んだ。

「陛下、お待ちください」

歳費局長が初めて声を上げた。

「過年度の決裁書までとなりますと、通常業務への影響が――」

「通常業務に影響が出ぬよう提出せよ」

「しかし」

「昨夜、余は一枚残らずと命じたはずだ」

歳費局長が黙った。

国王はグラハムを見る。

「監査局が必要と判断した資料について、廃棄、移動、修正を禁ずる」

「承知いたしました」

「複写も含め、すべて保存させよ」

「は」

国王は法務省長官へ視線を向けた。

「違反した者は?」

法務省長官が背筋を伸ばす。

「王命による監査妨害として、処分対象となります」

「よし」

エドワルドが席を立ちかけた。

「父上!」

「何だ」

「そこまでする必要がありますか!」

国王は息子を見た。

「三万枚だぞ」

「ですが、それは過去の――」

「だから確認する」

短い言葉だった。

「本当に終わった問題ならば、それを証明すればよい」

エドワルドは反論できず、椅子へ戻った。

国王は今度こそレティシアへ視線を向ける。

「レティシア・ヴァルハルト」

「はい」

「監査を開始せよ」

レティシアは立ち上がった。

「承知いたしました」

その日の午前。

王宮内部監査局には、各省庁から次々と箱が運び込まれ始めた。

外交記録。

決裁書。

予算書。

補正予算申請。

交易協定。

軍務報告。

六度の婚約解消に関係する書類だけで、小さな執務机が一つ完全に埋まった。

さらに追加の箱が運び込まれ、壁際にも書類の山ができていく。

グラハムは、その光景を見ながら眉間を押さえた。

「これを全部読むのか」

「必要なものだけです」

「必要なものを見つけるためには?」

「全部確認します」

「そうだと思ったよ」

レティシアは返事をせず、最初の箱の蓋を開けた。

むやみに数字から追うつもりはなかった。

支出には必ず理由がある。

決裁には必ず経路がある。

そして、王室へ報告された結果には、それを作成した誰かの意図が残る。

レティシアはまず、王室へ提出された六冊の婚約解消最終報告書だけを抜き出した。

一件目。

二件目。

三件目。

四件目。

五件目。

六件目。

それぞれを横一列に並べる。

グラハムが背後から覗き込んだ。

「三万枚を調べるのに、最初に見るのは六冊だけか」

「はい」

「理由は?」

「三万枚が発生したことよりも、なぜ六件すべてが王室へ『問題なし』として報告されたのかを先に確認します」

「なるほど」

レティシアは一冊目を開いた。

東方公国との婚約解消。

報告書を順番に読み進めていく。

次に二冊目。

東部商会連合。

三冊目。

南部大農園領。

四冊目。

西方騎士団。

五冊目。

海洋国家。

六冊目。

大聖堂。

それぞれ相手も違う。

担当した部署も違う。

作成された年度も違う。

婚約を解消した事情も違う。

レティシアの指が止まった。

「局長」

「うん?」

「少し気になります」

「数字か」

「いいえ」

グラハムが眉を上げた。

レティシアは一冊目の報告書、その最終頁を指した。

――双方の合意により、円満な協議解消とする。

次に二冊目。

――双方の合意により、円満な協議解消とする。

三冊目。

四冊目。

五冊目。

そして六冊目。

すべて同じだった。

句読点の位置まで。

グラハムの目が細くなる。

「……六件全部か」

「はい」

「定型文じゃないのか?」

「その可能性はあります」

レティシアは即答した。

「確認します」

別の書庫から、過去に王族や高位貴族の婚約が解消された際の報告書を数冊取り寄せる。

一冊目を開く。

――両家協議の結果、婚姻計画を終了する。

別の一冊。

――外交条件の変更に伴い、婚姻契約を解除する。

さらに別の一冊。

――双方の事情を考慮し、婚約を白紙とする。

レティシアは無言で六冊の報告書へ視線を戻した。

グラハムも同じものを見ている。

「……定型文ではないな」

「はい」

六件。

相手も違う。

担当官も違う。

年度も違う。

それなのに、王太子エドワルドの婚約解消に関する報告書だけが、まるで同じ手で作られたかのように同じ結論を記している。

レティシアは一冊目の表紙へ指先を置いた。

「ずいぶんと」

グラハムが顔を上げる。

レティシアは六冊を見渡した。

「円満だったようですね」

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