第1話 積まれた帳簿と消えた金貨
「……何があった?」
国王アーサー・レオンハルトの低い声が、大広間の高い天井へ重く響いた。
祝宴を彩っていた楽団の演奏はとうに途切れ、百を超える燭台の光だけが、凍りついた貴族たちの顔を白々と照らしている。
「父上! お聞きください!」
沈黙を破ったのは、王太子エドワルドだった。
栗色の髪をした令嬢――男爵家の娘マリアの手を握りしめたまま、一歩前へ出る。
その顔に、過ちを犯した者の怯えはなかった。
むしろ長く自分を縛っていたものから、ようやく解き放たれた者のような晴れやかささえ浮かんでいた。
「私は今、ここで真実の愛を選びました!」
ざわめきが起こる。
「婚姻とは、魂と魂の結びつきであるべきです!」
「国家の利害だけで、生涯を共にする相手を決める時代は終わらせるべきなのです!」
エドワルドは、父である国王を真っ直ぐに見つめた。
「私はアーデルハイト公女との婚約を破棄し、マリアとともに歩みます!」
隣に立つマリアが、感極まったように大きな瞳から涙をこぼす。
愛し合う二人が、古いしきたりへ立ち向かう。
物語ならば、誰かが拍手を送ったのかもしれない。
だが、この場に拍手する者はいなかった。
婚約を破棄された北方侯国公女アーデルハイトは、王太子を静かに見つめている。
怒鳴りもしなければ、泣きもしない。
その表情から感情を読み取ることは難しかった。
だが、その背後に並ぶ北方侯国の使節たちは違った。
険しい。
あまりにも険しい。
外交局長は何度目か分からない汗を額から拭い、宰相は片手で眉間を押さえていた。
そして大広間の壁際では、もう一人だけ別の意味で騒ぎから取り残された者がいた。
王宮内部監査局次席監査官、レティシア・ヴァルハルト。
濃紺の制服に身を包んだ彼女は、小さな手帳へ淡々と文字を書き込んでいた。
王太子による婚約破棄意思の明示。
公式祝宴。
北方侯国使節団立会い。
発言時刻。
対象者。
証人。
感情は記録しない。
推測も記録しない。
起きた事実だけを残す。
それが彼女の仕事だった。
「……エドワルド」
国王の声が落ちた。
先ほどより低かった。
「貴様は、自分が今、何をしたのか分かっているのか?」
「分かっております」
王太子は迷わなかった。
「私は王族の婚姻そのものを否定しているわけではありません」
「ならば何をした」
「人の心を無視した婚姻では、よき国など築けないと申し上げているのです」
その言葉に、アーデルハイトの眉がほんのわずかに動いた。
「愛する者とともに歩み、人の心を理解できる王となる」
エドワルドは胸を張った。
「その方が、国にとってもよい未来になると信じております」
間違っているとは、本人は欠片も思っていない。
それが大広間の誰にも伝わってしまった。
国王はしばらく息子を見つめた後、視線を壁際へ向けた。
「監査局」
「はい」
レティシアは手帳を閉じ、一歩前へ出た。
周囲の貴族たちが道を空ける。
煌びやかなドレスと礼装の間を、装飾をほとんど持たない濃紺の制服が進んでいく。
胸元に留められた銀の徽章だけが、燭台の光を反射した。
「現時点で分かる範囲を報告せよ」
「承知いたしました」
レティシアは再び手帳を開いた。
「ただ今の王太子殿下による婚約破棄宣言について、北方侯国との事前協定に基づく初期損失を算定しております」
「損失?」
エドワルドが眉をひそめる。
「何を言っている、レティシア・ヴァルハルト」
初めて王太子から名を呼ばれ、レティシアは視線だけを向けた。
「私は婚姻について話しているのだ」
「はい」
「愛と人生の選択についてだ」
「承知しております」
「ならば、なぜ金の話になる」
レティシアは一度だけ瞬きをした。
本当に分からないらしい。
「王族の婚姻には、婚姻そのものとは別に複数の国家間協定が付随しております」
「だから何だ」
「婚姻のみを破棄して、付随する契約だけを都合よく存続させることはできません」
「……契約?」
王太子の表情がわずかに曇った。
レティシアは国王へ向き直った。
「北方侯国使節団の招聘および滞在費用、金貨三百枚」
手帳を一枚めくる。
「すでに支出済みの婚姻準備費ならびに儀礼贈答関連費用、金貨八百枚」
さらにページをめくる。
「北方地域における港湾・物流協定の再交渉に伴う違約相当額、金貨千四百枚」
大広間が静かになっていく。
「加えて、防衛協定が一時凍結された場合に必要となる国境警備の臨時増額分、金貨二千枚」
レティシアはそこで顔を上げた。
「現時点で算定可能な暫定損失は、金貨四千五百枚にございます」
ざわめきが広がった。
「四千五百……」
誰かが呟いた。
エドワルドの顔から、先ほどまでの晴れやかさが少しだけ消えた。
「待て」
「はい」
「それは本当に必要な金なのか?」
王太子はレティシアを睨むのではなく、理解できないものを見るように見つめた。
「婚約を一つ解消しただけだ」
「正式な外交契約を伴う婚約です」
「だとしても四千五百枚とは異常だ」
「私が決めた金額ではございません」
レティシアは手帳から視線を外さなかった。
「双方の署名によって成立している契約条項を、現時点の条件に当てはめただけでございます」
「しかし」
エドワルドは言葉を探した。
「四千五百枚を支払えば済むのだろう?」
その場の何人かが息を呑んだ。
国王の顔が強張る。
レティシアだけは表情を変えなかった。
「現時点で数字として算定できる範囲については、です」
「ならば問題ないではないか」
「殿下」
宰相が思わず声を上げた。
しかしエドワルドは続ける。
「私は将来、この国の王となる」
自分自身へ言い聞かせるようでもあった。
「金貨四千五百枚で、王妃となる者を自ら選ぶ自由が得られるというなら、決して取り返せない金額ではない」
レティシアのペンが止まった。
ほんの一瞬だけだった。
「取り返す、とは」
「私の治世で国を豊かにする」
エドワルドは答えた。
「それだけのことだ」
「なるほど」
レティシアは再びペンを動かした。
「何を書いている」
「王太子殿下による損失補填意思について記録しております」
「なっ……」
「将来の治世において、金貨四千五百枚相当を回収する意思あり、と」
「そういう意味ではない!」
「では訂正いたします」
あまりに淡々と返され、エドワルドが言葉を失った。
グラハムが壁際で小さく咳払いをした。
笑いを堪えたのかどうかは、レティシアには分からなかった。
「ヴァルハルト監査官」
国王が呼ぶ。
「はい」
「四千五百枚で、すべてか」
その問いに、レティシアはすぐには答えなかった。
手帳の後ろへ指をかける。
そこには今夜の祝宴とは無関係な、いくつもの番号が記されていた。
一。
二。
三。
四。
五。
六。
そして今夜、七つ目が加わった。
「いいえ、陛下」
「何?」
「先ほど申し上げた金貨四千五百枚は、今回発生した七件目のみの暫定値です」
国王の顔から表情が消えた。
「七件目?」
大広間がざわついた。
エドワルドも目を見開く。
「何を言っている」
「殿下の婚約解消に伴い、国家支出または歳入減少が発生した記録を過去へ遡って確認いたしました」
「過去の婚約まで持ち出すつもりか」
「持ち出したわけではございません」
レティシアは答えた。
「帳簿に残っておりましたので」
その言葉に、何人かの大臣が明らかに反応した。
国王はそれを見逃さなかった。
「続けよ」
「はい」
レティシアは手帳の頁をめくった。
「過去六件について、外交局、歳費局、軍務省、農政局その他関係部署の記録を照合したところ、複数の不自然な支出ならびに歳入減少を確認しております」
外交局長の顔色が変わった。
「待て!」
声を上げたのは、その外交局長だった。
「監査官、今この場で不確定な数字を公表するつもりか!」
「いいえ」
レティシアは即答した。
「不確定な数字は申し上げません」
「ならば――」
「確定済みのものだけを申し上げます」
外交局長が黙った。
レティシアは彼を見つめる。
「外交局が『外交環境変化に伴う調整』として処理した支出」
次に別の方向へ視線を向ける。
「歳費局が『臨時予備費』として計上した補填」
さらに別の大臣へ。
「軍務省による『国境警備体制変更費』」
顔を伏せる者が出始めた。
「それぞれの報告書だけを読めば、すべて別々の案件に見えます」
「……何が言いたい」
国王が尋ねた。
「原因を確認すると、同じ場所へ戻ります」
レティシアは答えた。
「王太子殿下による婚約解消です」
沈黙が落ちた。
「馬鹿な」
エドワルドが呟いた。
「過去の件は、すべて解決したと聞いている」
「はい」
レティシアは頷いた。
「王室へ提出された報告書上では、そのように記載されております」
「ならば終わった問題だろう」
「帳簿上では終わっておりません」
その一言が、大広間へ冷たく落ちた。
国王がゆっくりと大臣たちを見回す。
「余は、婚約が解消されたこと自体は知っている」
誰も答えない。
「だが毎回、先方とは協議済みであり、国家への影響は限定的だと報告を受けていた」
さらに沈黙が重くなる。
「それが違うというのか、監査官」
レティシアは少しだけ考えてから答えた。
「少なくとも、報告された内容と帳簿に残された結果は一致しておりません」
「隠蔽だと言いたいのか!」
外交局長が再び声を荒らげる。
「言葉を慎め!」
「では、別の表現を用います」
レティシアは彼を正面から見た。
「問題にならなかったのではありません」
外交局長の喉が動く。
「問題として、まとめて報告されなかっただけです」
誰も言葉を返さなかった。
レティシアは手帳を閉じる。
「過去六件は、それぞれ別の部署、別の名目、別の年度処理として分散しております」
「だから今まで誰も気づかなかったと?」
国王が尋ねる。
「各部署が自らの担当範囲だけを見ている限りは」
「監査局は違うのか」
「違いを探すのが仕事でございます」
グラハムが小さく目を細めた。
国王はしばらく黙っていた。
やがて、低い声で尋ねる。
「……いくらだ」
レティシアは答えなかった。
「過去六件で、いくら失った」
今度は大広間の誰も動かなかった。
レティシアは胸元から一枚の折り畳まれた羊皮紙を取り出した。
今朝から何度も照合した数字だった。
それでも、正式な監査報告を終えるまでは最終決算とは呼べない。
「現段階で証憑を確認できている確定分のみで」
レティシアが告げる。
「金貨三万枚です」
国王の目が見開かれた。
「……三万」
「はい」
エドワルドも息を呑んだ。
「待て」
先ほどまでとは明らかに声が違っていた。
「今夜の四千五百枚を含めて、だろう」
「いいえ」
レティシアは首を横に振った。
「金貨三万枚は、過去六件のみの確定累積損失でございます」
「な……」
「今夜発生した七件目の暫定損失、金貨四千五百枚は一枚も含まれておりません」
今度こそ、大広間から音が消えた。
レティシアは淡々と続けた。
「したがって、現時点で確認可能な累積損失は金貨三万四千五百枚」
そこで言葉を切る。
「ただし」
国王が顔を上げる。
「まだ増える可能性があります」
「なぜだ」
「今回の北方侯国との婚約破棄に伴う長期的な交易・防衛への影響が、現時点では算定できないためです」
国王は目を閉じた。
エドワルドは、初めて自分が握っていたマリアの手へ視線を落とした。
その手を離しはしなかった。
だが、先ほどまでの確信に満ちた顔からは、明らかに色が失われている。
「……監査局長」
「は」
グラハム・ロウエルが壁際から歩み出た。
「今夜の発言、契約書、支出記録、すべてを保存せよ」
「承知いたしました」
「明日朝一番に御前会議を開く」
国王は大広間に並ぶ大臣たちを睥睨した。
「外交局、歳費局、軍務省、農政局をはじめ、関係するすべての部署へ命じる」
誰一人、国王と目を合わせようとしなかった。
「過去六件について、監査局の要求する帳簿、決裁書、補正予算書、報告書を一枚残らず提出せよ」
「陛下、それは――」
外交局長が口を開きかける。
「一枚残らずだ」
国王の声に、反論は許されなかった。
「余も確認する」
外交局長が俯いた。
国王は次にエドワルドを見る。
「お前も出席せよ」
「父上……」
「自らの選択だと言ったな」
エドワルドは答えられなかった。
「ならば、自らの選択が何を残したのか、その目で見届けよ」
国王は踵を返した。
「祝宴は中止する」
近衛兵がその後へ続く。
「父上!」
エドワルドの声にも、国王は振り返らなかった。
大扉が閉じる。
残されたのは、華やかな飾りだけが虚しく輝く大広間。
青ざめた大臣たち。
言葉を失った王太子。
その隣で震えるマリア。
そして、静かに手帳を閉じる一人の監査官だった。
グラハムが隣へ立つ。
「大仕事になったな」
「はい」
「三万枚か」
「現時点では」
グラハムが嫌そうな顔をした。
「その言い方はやめろ」
レティシアは彼を見る。
「なぜです?」
「増える時のお前の言い方だからだ」
レティシアは答えず、大広間の向こうに並ぶ大臣たちへ視線を向けた。
帳簿は残っている。
決裁書も残っている。
数字は、自分から嘘をつかない。
嘘をつくのは、いつもそれを書いた人間だった。
明日の朝。
王宮内部監査局による、全省庁横断監査が始まる。
そしてこの時、誰もまだ知らなかった。
金貨三万枚という数字が、この王国に積み上がった問題の、ほんの入口に過ぎないことを。




