【プロローグ】台帳の裏にある王国
「三十枚、合いません」
早朝の王宮。
まだ朝日も差し込まない王宮内部監査局の執務室で、レティシア・ヴァルハルトは一枚の羊皮紙を持ち上げた。
机の上には、昨夜から積み上げられた決裁書と帳簿が整然と並んでいる。
その端は、まるで定規で測ったかのように正確に揃えられていた。
「何がだ?」
入口から声が聞こえ、レティシアは顔を上げた。
入室してきたのは、監査局長グラハム・ロウエルだった。
白髪の混じった髪を無造作に撫でつけながら、眠そうな目でレティシアを見ている。
「北方侯国使節団の滞在費です」
レティシアは手元の羊皮紙を机に置いた。
「歳費局の支出記録では金貨四百八十二枚。外交局から提出された報告書では四百五十二枚。差額三十枚です」
「まだ朝日も昇らぬ早朝から見るものか、それは」
「昨日中に一致していれば、私も見る必要はありませんでした」
「なるほど。悪いのは数字か」
「はい」
レティシアは即答した。
グラハムは苦笑する。
レティシア・ヴァルハルト。
王宮内部監査局、次席監査官。
二十代前半という若さでその席に就いた彼女は、淡い金髪と青灰色の瞳を持つ伯爵家の令嬢でもある。
だが、その肩書きを本人が口にすることはほとんどない。
貴族社会において容姿や家柄がどれほど価値を持とうと、帳簿に記された一枚の金貨を増やしも減らしもしないからだ。
「修正は?」
「すでに歳費局へ照会を出しました。昼までに回答がなければ、再照会します」
「相変わらず容赦がないな」
「数字が合わないまま決裁される方が問題です」
グラハムは自分の机へ向かおうとして、ふと足を止めた。
「……今夜の祝宴の資料は見たか?」
椅子に座り直し、作業を再開しようとしていたレティシアのペンが止まる。
「はい」
「何か気になるか?」
「あります」
即答だった。
今度はグラハムが振り返る。
レティシアは机の上から別の書類を取り出した。
「三日前、王太子宮から祝宴会場の席次変更申請が出ています」
「席次?」
「北方侯国公女殿下の席が、王太子殿下の隣席から二席離されています」
「……ほう」
「昨日、王太子宮付き警護官から大広間東側通路の一時閉鎖申請」
さらに一枚。
「同日、王太子殿下の私費から女性用装飾品の購入記録。購入先は王都南区の宝飾店です」
グラハムの顔から眠気が消えた。
「公女への贈り物では?」
「公女殿下がお使いになる装身具の規格とは一致しません」
「調べたのか?」
「外交上の贈答品に該当する可能性がありましたので」
「……そうか」
グラハムは額を押さえた。
今夜行われる祝宴は、単なる貴族たちの宴ではない。
北方侯国との防衛協定。
国境交易における関税優遇。
冬季の食糧輸送。
そのすべてを支える王太子エドワルドと、公女アーデルハイトとの婚約を国内外へ正式に示す場でもあった。
一つの婚姻。
だが、その背後では数万、数十万の民の生活が動いている。
「王太子殿下は?」
「ここ三日、公女殿下との非公式会談を二度キャンセルされています」
「理由は?」
「一度目は執務。二度目は体調不良です」
「昨日、中庭で乗馬をしていたぞ」
「健康で何よりです」
淡々と返され、グラハムが頭を抱えた。
「レティシア」
「はい」
「今夜、お前も祝宴に出ろ」
「監査局員としてですか?」
「他に何がある」
レティシアは胸元の銀の徽章へ視線を落とした。
王宮内部監査局。
王直属の独立監査機関。
彼らには政策を決める権限も、王族の行動を止める権限もない。
できるのは、ただ一つ。
起きたことを記録する。
誰が決裁したのか。
何が失われたのか。
そして、その代償がいくらになるのか。
「もし何も起きなければ?」
「祝宴の料理でも食べて帰れ」
「勤務中の扱いにしてくれますか?」
「冗談だ」
◇
その夜。
王城大広間には、百を超える燭台が灯されていた。
磨き上げられた床。
王国屈指の楽団が奏でる弦楽器。
色鮮やかなドレスを纏った令嬢たちと、礼装に身を包んだ貴族たち。
その中央に、王太子エドワルド・レオンハルトが立っていた。
向かいにいるのは、北方侯国公女アーデルハイト。
そして少し離れた場所には、栗色の髪をした一人の令嬢が、緊張した面持ちで王太子を見つめている。
大広間の壁際。
濃紺の制服姿のレティシアは、小さな手帳を開いた。
嫌な予感というものを、彼女はあまり信用しない。
数字にできないからだ。
だが。
王太子が、公女ではなく栗色の髪の令嬢へ視線を向ける時間が、先ほどから明らかに長くなっている。
公女の父である侯爵は口元を硬くしている。
王国の外交局長は、先ほどから三度も額の汗を拭っていた。
それらは十分、記録に値する兆候だった。
そして。
「皆に聞いてもらいたい!」
楽団の音が止まった。
祝宴のざわめきが消え、大広間を静寂が包む。
そこに集まる百を超える視線が、一斉に王太子へ向けられた。
レティシアはペン先を羊皮紙へ近づける。
王太子エドワルドは、一歩前へ出た。
「私は今日、ここで決断する!」
公女アーデルハイトの表情が強張る。
「人は生まれや身分によって、愛する者まで決められるべきではない!」
祝いの空気に満ちていた大広間が凍りついた。
誰かが息を呑む。
宰相が立ち上がった。
「殿下、お待ちください」
だが、一歩遅かった。
エドワルドは栗色の髪の令嬢へ歩み寄り、その手を取った。
そして高らかに告げる。
「アーデルハイト・フォン・ノルデンベルク! 私は君との婚約を破棄する!」
沈黙。
公女は何も言わなかった。
侯爵も。
宰相も。
外交局長も。
誰一人として、すぐには声を出せなかった。
ただ一人。
レティシアだけが動いた。
――カリッ。
手帳へ文字を書き込む。
婚姻協定。
破棄意思表明。
王太子本人。
公式祝宴。
北方侯国使節団立会い。
そして。
レティシアは、隣に立つグラハムへ小声で尋ねた。
「局長」
「……なんだ」
「北方侯国との交易税優遇が失効した場合、年間減収見込みはいくらでしたか?」
グラハムがゆっくりと顔を向ける。
「今、それを聞くのか?」
「今だからです」
レティシアは王太子を見た。
その顔は自信に満ちていた。
いや。
愛を勝ち取った青年そのものの、晴れ晴れとした表情だった。
だが、その背後では外交官たちが青ざめ、宰相が額に手を当て、北方侯国の使節たちが無言で視線を交わしている。
レティシアは再びペンを走らせた。
「防衛協定失効時の追加軍事費」
――カリッ。
「交易優遇措置消滅による歳入減」
――カリッ。
「使節団招聘費用」
――カリッ。
「婚姻準備に伴う既支出分」
数字が増えていく。
一枚。
十枚。
百枚。
千枚。
王太子が愛を語っている間にも。
王国が負うことになる損失は、静かに積み上がっていった。
レティシアは計算途中の数字を見つめる。
そして初めて、ほんのわずかに眉を寄せた。
「……局長」
「今度はなんだ」
「これ」
ペン先が止まった。
「王国金貨三万枚では済まないかもしれません」
その瞬間。
大広間に、高らかなファンファーレが響き渡った。
「国王陛下、ご入場――!」
大扉が開く。
現れた国王は、祝宴に相応しい穏やかな表情で一歩を踏み出し――そして止まった。
息子は、婚約者ではない令嬢の手を握っている。
公女アーデルハイトは無言。
北方侯国の使節団は険しい顔をしている。
宰相は額を押さえていた。
外交局長に至っては、今にも倒れそうな顔をしている。
そして壁際では。
王宮内部監査局の次席監査官が、猛烈な勢いで何かを計算していた。
国王はしばし、その異様な光景を見渡した。
やがて。
「……何があった?」




