↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
王太子の婚約破棄を監査した結果、国家損失三万枚と隣国皇帝の招聘を受けました(連載編)  作者: 和幸雄大


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

1/5

【プロローグ】台帳の裏にある王国

「三十枚、合いません」

早朝の王宮。

まだ朝日も差し込まない王宮内部監査局の執務室で、レティシア・ヴァルハルトは一枚の羊皮紙を持ち上げた。

机の上には、昨夜から積み上げられた決裁書と帳簿が整然と並んでいる。

その端は、まるで定規で測ったかのように正確に揃えられていた。

「何がだ?」 

入口から声が聞こえ、レティシアは顔を上げた。

入室してきたのは、監査局長グラハム・ロウエルだった。

白髪の混じった髪を無造作に撫でつけながら、眠そうな目でレティシアを見ている。

「北方侯国使節団の滞在費です」

レティシアは手元の羊皮紙を机に置いた。

「歳費局の支出記録では金貨四百八十二枚。外交局から提出された報告書では四百五十二枚。差額三十枚です」

「まだ朝日も昇らぬ早朝から見るものか、それは」

「昨日中に一致していれば、私も見る必要はありませんでした」

「なるほど。悪いのは数字か」

「はい」

レティシアは即答した。

グラハムは苦笑する。

レティシア・ヴァルハルト。

王宮内部監査局、次席監査官。

二十代前半という若さでその席に就いた彼女は、淡い金髪と青灰色の瞳を持つ伯爵家の令嬢でもある。

だが、その肩書きを本人が口にすることはほとんどない。

貴族社会において容姿や家柄がどれほど価値を持とうと、帳簿に記された一枚の金貨を増やしも減らしもしないからだ。

「修正は?」

「すでに歳費局へ照会を出しました。昼までに回答がなければ、再照会します」

「相変わらず容赦がないな」

「数字が合わないまま決裁される方が問題です」

グラハムは自分の机へ向かおうとして、ふと足を止めた。

「……今夜の祝宴の資料は見たか?」

椅子に座り直し、作業を再開しようとしていたレティシアのペンが止まる。

「はい」

「何か気になるか?」

「あります」

即答だった。

今度はグラハムが振り返る。

レティシアは机の上から別の書類を取り出した。

「三日前、王太子宮から祝宴会場の席次変更申請が出ています」

「席次?」

「北方侯国公女殿下の席が、王太子殿下の隣席から二席離されています」

「……ほう」

「昨日、王太子宮付き警護官から大広間東側通路の一時閉鎖申請」

さらに一枚。

「同日、王太子殿下の私費から女性用装飾品の購入記録。購入先は王都南区の宝飾店です」

グラハムの顔から眠気が消えた。

「公女への贈り物では?」

「公女殿下がお使いになる装身具の規格とは一致しません」

「調べたのか?」

「外交上の贈答品に該当する可能性がありましたので」

「……そうか」

グラハムは額を押さえた。

今夜行われる祝宴は、単なる貴族たちの宴ではない。

北方侯国との防衛協定。

国境交易における関税優遇。

冬季の食糧輸送。

そのすべてを支える王太子エドワルドと、公女アーデルハイトとの婚約を国内外へ正式に示す場でもあった。

一つの婚姻。

だが、その背後では数万、数十万の民の生活が動いている。

「王太子殿下は?」

「ここ三日、公女殿下との非公式会談を二度キャンセルされています」

「理由は?」

「一度目は執務。二度目は体調不良です」

「昨日、中庭で乗馬をしていたぞ」

「健康で何よりです」

淡々と返され、グラハムが頭を抱えた。

「レティシア」

「はい」

「今夜、お前も祝宴に出ろ」

「監査局員としてですか?」

「他に何がある」

レティシアは胸元の銀の徽章へ視線を落とした。

王宮内部監査局。

王直属の独立監査機関。

彼らには政策を決める権限も、王族の行動を止める権限もない。

できるのは、ただ一つ。

起きたことを記録する。

誰が決裁したのか。

何が失われたのか。

そして、その代償がいくらになるのか。

「もし何も起きなければ?」

「祝宴の料理でも食べて帰れ」

「勤務中の扱いにしてくれますか?」

「冗談だ」

 ◇

その夜。

王城大広間には、百を超える燭台が灯されていた。

磨き上げられた床。

王国屈指の楽団が奏でる弦楽器。

色鮮やかなドレスを纏った令嬢たちと、礼装に身を包んだ貴族たち。

その中央に、王太子エドワルド・レオンハルトが立っていた。

向かいにいるのは、北方侯国公女アーデルハイト。

そして少し離れた場所には、栗色の髪をした一人の令嬢が、緊張した面持ちで王太子を見つめている。

大広間の壁際。

濃紺の制服姿のレティシアは、小さな手帳を開いた。

嫌な予感というものを、彼女はあまり信用しない。

数字にできないからだ。

だが。

王太子が、公女ではなく栗色の髪の令嬢へ視線を向ける時間が、先ほどから明らかに長くなっている。

公女の父である侯爵は口元を硬くしている。

王国の外交局長は、先ほどから三度も額の汗を拭っていた。

それらは十分、記録に値する兆候だった。

そして。

「皆に聞いてもらいたい!」

楽団の音が止まった。

祝宴のざわめきが消え、大広間を静寂が包む。

そこに集まる百を超える視線が、一斉に王太子へ向けられた。

レティシアはペン先を羊皮紙へ近づける。

王太子エドワルドは、一歩前へ出た。

「私は今日、ここで決断する!」

公女アーデルハイトの表情が強張る。

「人は生まれや身分によって、愛する者まで決められるべきではない!」

祝いの空気に満ちていた大広間が凍りついた。

誰かが息を呑む。

宰相が立ち上がった。

「殿下、お待ちください」

だが、一歩遅かった。

エドワルドは栗色の髪の令嬢へ歩み寄り、その手を取った。

そして高らかに告げる。

「アーデルハイト・フォン・ノルデンベルク! 私は君との婚約を破棄する!」

沈黙。

公女は何も言わなかった。

侯爵も。

宰相も。

外交局長も。

誰一人として、すぐには声を出せなかった。

ただ一人。

レティシアだけが動いた。

――カリッ。

手帳へ文字を書き込む。

婚姻協定。

破棄意思表明。

王太子本人。

公式祝宴。

北方侯国使節団立会い。

そして。

レティシアは、隣に立つグラハムへ小声で尋ねた。

「局長」

「……なんだ」

「北方侯国との交易税優遇が失効した場合、年間減収見込みはいくらでしたか?」

グラハムがゆっくりと顔を向ける。

「今、それを聞くのか?」

「今だからです」

レティシアは王太子を見た。

その顔は自信に満ちていた。

いや。

愛を勝ち取った青年そのものの、晴れ晴れとした表情だった。

だが、その背後では外交官たちが青ざめ、宰相が額に手を当て、北方侯国の使節たちが無言で視線を交わしている。

レティシアは再びペンを走らせた。

「防衛協定失効時の追加軍事費」

 ――カリッ。

「交易優遇措置消滅による歳入減」

――カリッ。

「使節団招聘費用」

 ――カリッ。

「婚姻準備に伴う既支出分」

数字が増えていく。

一枚。

十枚。

百枚。

千枚。

王太子が愛を語っている間にも。

王国が負うことになる損失は、静かに積み上がっていった。

レティシアは計算途中の数字を見つめる。

そして初めて、ほんのわずかに眉を寄せた。

「……局長」

「今度はなんだ」

「これ」

ペン先が止まった。

「王国金貨三万枚では済まないかもしれません」

その瞬間。

大広間に、高らかなファンファーレが響き渡った。

「国王陛下、ご入場――!」

大扉が開く。

現れた国王は、祝宴に相応しい穏やかな表情で一歩を踏み出し――そして止まった。

息子は、婚約者ではない令嬢の手を握っている。

公女アーデルハイトは無言。

北方侯国の使節団は険しい顔をしている。

宰相は額を押さえていた。

外交局長に至っては、今にも倒れそうな顔をしている。

そして壁際では。

王宮内部監査局の次席監査官が、猛烈な勢いで何かを計算していた。

国王はしばし、その異様な光景を見渡した。

やがて。

「……何があった?」

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。