第4話 七年前の担当官
翌日の午前。
王宮内部監査局の執務室には、一人の男が呼ばれていた。
年齢は四十代半ば。
濃い灰色の髪にはわずかに白いものが混じり、細身の身体を外交局の制服に包んでいる。
名を、アルベルト・フェルナー子爵。
現在は外交局上席書記官を務める男だった。
七年前。
東方公国公女との婚約解消に関する最終報告書を作成した、当時の外交局婚姻担当官である。
「お忙しいところ、お時間をいただきありがとうございます」
レティシアが告げると、アルベルトは固い表情のまま一礼した。
「王命による横断監査と伺っております」
「はい」
「私に確認したいことがある、と」
「七年前の案件についてです」
レティシアは机の上へ一冊の報告書を置いた。
東方公国公女との婚姻協議に関する最終報告。
表紙を見た瞬間。
アルベルトの目が、ほんのわずかに見開かれた。
「……まだ残っていたのですか」
グラハムの眉が僅かに動く。
レティシアは表情を変えなかった。
「保存期間内の外交文書ですので」
「ああ……いえ、その通りです」
アルベルトは自分の失言に気づいたように口を閉ざした。
レティシアは向かいの椅子を示した。
「お掛けください」
「失礼いたします」
アルベルトが腰を下ろす。
レティシアの隣にはグラハム。
机の上には、三種類の資料が並んでいた。
外交局の最終報告書。
歳費局の支出決裁書。
そして、東方公国から届いた正式回答の記録。
「フェルナー上席書記官」
「はい」
「こちらの報告書の原案を作成されたことに間違いありませんか」
レティシアは最終頁を開いた。
作成者欄。
そこには七年前のアルベルトの署名が残っている。
男はしばらく自分の署名を見つめた。
「間違いありません」
「内容について覚えておられますか」
「七年前のことです」
「すべてを正確に思い出していただく必要はありません」
レティシアは淡々と告げた。
「記憶にある範囲で構いません」
「……承知しました」
「まず確認いたします」
レティシアは東方公国から届いた正式回答の日付を指した。
「この最終報告書は、東方公国から婚約解消について正式な回答が届く三日前に作成されています」
アルベルトの喉が動いたのを、レティシアは見逃さなかった。
「はい」
レティシアの指が止まる。
グラハムもアルベルトを見る。
「ご存じだったのですね」
「作成日については」
「では伺います」
レティシアは最終頁を開いた。
――双方の合意により、円満な協議解消とする。
「相手国から正式回答が届いていない段階で、なぜ『双方の合意』と記載されたのでしょうか」
アルベルトは答える代わりに沈黙した。
指先が膝の上でわずかに動く。
「お答えになれませんか」
「……私が決めた文言ではありません」
グラハムの表情が変わった。
「どういう意味だ?」
「言葉の通りです」
アルベルトは一度息を吐いた。
「報告書の原案を作成し、ライゼン室長へ提出したのは確かに私です」
「ですが?」
レティシアが促す。
「私は、あの結論を自分の判断だけで書いたわけではありません」
執務室の空気が少しだけ変わった。
「誰かから指示を受けたということですか」
「はい」
「誰からでしょう」
アルベルトが黙る。
レティシアは急かさなかった。
沈黙も記録の一部だった。
やがてアルベルトが口を開いた。
「当時の直属の上司です」
「氏名を」
「外交局婚姻調整室長、バルド・ライゼン」
グラハムがわずかに目を細めた。
「ライゼンか」
「ご存じですか」
「名前はな」
グラハムは腕を組んだ。
「もう退官しているはずだ」
アルベルトが頷く。
「三年前に退官されました」
レティシアは名前を記録した。
「どのような指示だったのでしょうか」
「王室へ提出する最終報告書を先に整えておけ、と」
「先に?」
「はい」
「東方公国からの正式な回答が届く前にですか」
「その通りです」
レティシアのペン先が羊皮紙を走る。
「その際、あなたは異議を申し立てましたか」
アルベルトは少しだけ顔を伏せた。
「申し上げました」
「内容は?」
「東方公国の回答がまだ届いておりません、と」
「上司は何と?」
男の口元が強張った。
「……結論はすでに決まっている、と」
グラハムが椅子へ深く背を預ける。
「結論は決まっている」
「はい」
レティシアはその言葉をそのまま記録した。
「何をもって決まっていたのでしょう」
「そこまでは聞かされていません」
「推測でも構いません、と申し上げたいところですが」
レティシアはペンを止めた。
「監査記録に推測は不要ですね」
アルベルトが僅かに苦笑した。
「あなたらしい」
「以前にお会いしたことが?」
「ありません」
アルベルトは首を横に振った。
「ただ、監査局のヴァルハルト次席監査官がどういう人物かは、王宮勤めなら多少は耳に入ります」
グラハムが横目でレティシアを見る。
「有名人だな」
「そういうのは、今必要ありません」
「そういうところだ」
レティシアは会話を戻した。
「では次に、婚約解消の理由について確認します」
アルベルトの表情から、先ほどの軽さが消えた。
「最終報告書では、『婚姻に必要な相互理解を形成できず』とあります」
「はい」
「実際に、王太子殿下からそのような説明があったのでしょうか」
長い沈黙が流れた。
「フェルナー上席書記官」
「……いいえ」
レティシアの視線が止まる。
「では、殿下はどのような理由を?」
アルベルトは答えづらそうに一度視線を逸らした。
「当時の記録に残すべきではない、と判断された言葉です」
「誰が判断を?」
「室長です」
「元の発言をお願いします」
アルベルトは目を閉じた。
七年前の記憶を掘り起こすように。
そして。
「……運命を感じなかった、と」
グラハムが眉を寄せる。
「何に?」
「公女殿下に、です」
数秒。
グラハムは何も言わなかった。
レティシアもすぐにはペンを動かさない。
聞き間違いではないかと確認するように、アルベルトを見る。
「もう一度、お願いします」
「王太子殿下は」
アルベルトは静かに繰り返した。
「東方公国公女とお会いになった後、『彼女には運命を感じなかった。この婚姻を続けても意味はない』とおっしゃいました」
――カリッ。
ようやくレティシアのペンが動いた。
「それが婚約継続を拒否された理由ですか」
「少なくとも、私が聞いた範囲では」
「政治的な条件に不満があったわけではない」
「ありません」
「公女側に重大な問題が判明したわけでもない」
「ありません」
「両国間の外交条件が破綻したわけでもない」
「婚約解消が告げられる以前には、ありませんでした」
レティシアは一度ペンを置いた。
「なぜ、そのまま記録しなかったのでしょう」
「できると思われますか」
今度はアルベルトが問い返す。
グラハムがアルベルトを見る。
「説明してくれ」
「当時、殿下は十八歳でした」
アルベルトはゆっくりと言葉を選んだ。
「最初の正式な国外婚姻です」
「だから?」
「王太子殿下にとって、婚姻は政治の一部でもあります」
アルベルトは一度言葉を切った。
「それを『運命を感じなかった』という理由だけで拒んだと知られれば、殿下の王位継承者としての資質そのものを疑われかねません」
「東方公国だけではないな」
グラハムが言った。
「国内貴族にも知られる」
「はい」
アルベルトは頷く。
「だから言い換えた」
「私は、そう説明されました」
「誰に?」
「ライゼン室長です」
レティシアが尋ねる。
「あなた自身も、その判断に賛成だったのでしょうか」
アルベルトはしばらく答えなかった。
「当時は」
やがて口を開く。
「必要な処置だと思っていました」
「理由を」
「東方公国との関係をこれ以上悪化させず、国内にも王太子殿下の失態を広げない」
男は机の上の報告書を見る。
「一件の婚約解消を静かに処理することが、王国にとって最も損害の少ない方法だと考えました」
「一件」
レティシアが小さく繰り返す。
アルベルトの表情が固くなる。
当時は一件だった。
その後、同じことが六件繰り返されるなど、誰も想像していなかったのだろう。
「あなたが報告書の表現を穏当なものへ変更したこと自体を、現時点で問題だと断定するつもりはありません」
アルベルトが顔を上げた。
「……そうなのですか」
「外交上、相手国への配慮から表現を調整することはあります」
「はい」
「問題は別です」
レティシアは歳費局の決裁書へ手を置いた。
「婚約解消後に金貨二千枚の補填が発生しているにもかかわらず、王室提出用報告書では『外交上の影響は軽微』とされたことです」
「それは……」
「婚約解消の理由を穏当な言葉へ置き換えることと、実際に発生した損失まで小さく報告することは同じでしょうか」
アルベルトは答えない。
レティシアは続けた。
「王家の威信を守るため、王太子殿下の言葉を修正した」
一枚目。
「外交関係を維持するため、『相互理解を形成できず』とした」
二枚目。
「そこまでは理由を理解できます」
そして、金貨二千枚の記録。
「では、これはなぜ王室へ正確に報告されなかったのでしょう」
アルベルトの顔に苦いものが浮かんだ。
「……私には分かりかねます」
「本当に?」
「少なくとも、私が原案を作成した段階では」
その言葉に、レティシアのペンが止まった。
「作成した段階では?」
アルベルトが、しまったという表情を浮かべる。
グラハムも身体を起こした。
「どういう意味だ」
「……」
「フェルナー上席書記官」
レティシアの声は変わらない。
「あなたが最初に作成した報告書と、現在ここに保存されている最終報告書は、同じ内容ではないということですか」
アルベルトの指が膝の上で強く組まれた。
「質問を変えます」
レティシアは机上の最終報告書を示した。
「この文書は、あなたが作成した原案そのものですか」
長い沈黙。
やがて。
「……いいえ」
グラハムの目が鋭くなった。
「何が違う?」
アルベルトは最終頁を指さした。
そこには、六件すべてに繰り返される言葉。
――双方の合意により、円満な協議解消とする。
「私が最初に書いた報告書には」
アルベルトの声が一段低くなる。
「その一文はありませんでした」
それを聞き、レティシアは目を細めた。
「では、いつ加えられたのですか」
「正確には分かりません」
「報告書を提出した後?」
「はい」
「提出先は?」
アルベルトが答える。
「ライゼン室長へ提出しました」
「その後の経路は」
「通常であれば、外交局長決裁を経て王室担当官へ提出されます」
「通常であれば?」
グラハムが聞き返す。
アルベルトは一度、息を整えた。
「この案件だけは、処理の仕方が違いました」
レティシアのペン先が紙の上で止まる。
「どこを経由したのでしょう」
「王太子宮です」
静寂。
レティシアはその言葉を記録した。
外交局。
王太子宮。
そして再び外交局。
七年前の一件目。
初めて「円満」という言葉が現れた報告書。
その書類は、王室へ提出される前に一度だけ、本来必要のない場所を通っていた。
グラハムが低く呟いた。
「回覧記録は残っているか」
「当時のものなら、おそらく」
レティシアは立ち上がった。
「確認しましょう」
「今からか?」
「はい」
「昼食は?」
レティシアは壁の時計を見る。
「まだ時間があります」
「そうか」
グラハムは諦めたように溜息を吐いた。
アルベルトが椅子から立ち上がろうとする。
「私はこれでよろしいでしょうか」
「もう一つだけ」
レティシアが呼び止めた。
「はい」
「七年前、あなたはこの処理が最善だったと思っていたとおっしゃいました」
「……はい」
「今も、そう思われますか」
アルベルトはすぐには答えなかった。
机の上に並べられた六冊の報告書を見る。
一冊目。
二冊目。
三冊目。
同じ結論が六回。
「一度で終わっていれば」
男は静かに言った。
「今でも、そう答えたかもしれません」
レティシアは何も言わない。
アルベルトは六冊から視線を外した。
「ですが、我々は最初の一件を隠したことで」
その声がわずかに掠れる。
「二度目も、同じように処理できる前例を作ってしまったのかもしれません」
レティシアのペンが再び動いた。
それはまだ証拠ではない。
一人の外交官による、七年後の所感に過ぎない。
だが。
過去六件すべてに残された同じ言葉。
その始まりがどこにあったのか。
少なくとも、次に確認すべき場所は見えた。
王太子宮。
レティシアは最初の報告書を閉じる。
金貨二千枚が消えた場所を探していたはずだった。
だが、その前に。
事実そのものが、どこかで形を変えられていた。




