第7話 殺された父親
第7話「殺された父親」をお届けします。
同じ夜、寿満寺では十彩獣団が静かに霊気感知の訓練を重ねていました。
そのすぐ隣町では、まったく違う「気配の確かめ合い」が起きています。
布目優が、自分の父親と対峙する夜です。
今回、慎悟たちの出番はありません。
視点はほぼ優と京平の二人だけに絞っています。
短いですが、この章の温度を決める話になるはずです。
どうぞ最後まで読んでいただけると嬉しいです。
同じ夜、福江市のどこかで、冷たい足音が誰かを訪ねようとしていた。
七月二十四日、夜。
寿満寺の本堂には、線香の匂いがまだ薄く残っている。
夕食を終えた慎悟たちは、板張りの広間へ車座に座り、霊気感知の訓練を続けていた。
「目を閉じて」
翼の声が静かに響く。
「誰かを探そうとしないで。ただ、そこにいる気配を感じて」
全員が目を閉じる。
慎悟は脇腹の傷のせいで本格的な訓練には加われず、少し離れた柱の陰から全体を眺めていた。
蓮の気配は、深く沈んだ水のように動かない。
翼は輪郭のはっきりした光。
綾実はゆらゆらと揺れる霧。
友紀は熱を持った火の粒。
南海はやわらかく広がる温度。
歩美は小刻みに脈打つ光。
伊織は静止した点。
翔一は落ち着きなく動く風。
健太は地に根を張るような重さ。
美奈子は、それら全部をそっと縫い合わせるような、透明な糸。
そして莉奈の気配が、その隙間を埋めるように優しく満ちている。
十一人分の気配が、暗い本堂の中で確かに存在していた。
誰も声を発していない。
誰も動いていない。
それでも、そこに誰がいるか分かる。
――自分が見ていなくても、仲間はそこにいる。
当たり前のことのはずなのに、今の慎悟にはひどく大切な事実に思えた。
慎悟は、静かに息を吐いた。
◇
福江市中心部、福江駅前。
夜になっても人通りは絶えない。
居酒屋から千鳥足で出てくる会社員。
タクシーの列。
信号待ちの車のライト。
駅を発車する電車の音が、遠くまで響いていた。
だが、その賑わいは、駅前の高層マンションへ近づくにつれ、少しずつ遠のいていく。
エレベーターが上層階で止まる。
扉が開く。
中から、布目京平が出てきた。
四十九歳。
十楽不動産、人事課長。
紺色のスーツの上着を片手に持ち、ネクタイを緩めている。
顔は赤い。
福江駅前の居酒屋で、部下と少し飲んできた帰りだった。
スマートフォンを片手に確認しながら、自室のあるフロアを歩く。
廊下には誰もいない。
冷房の効いた廊下のはずなのに、何かがおかしい。
――寒い。
京平はそれを酒のせいだと思う。
自室のドアへ近づき、そこで足を止めた。
玄関前に、誰かが立っている。
京平は会社では、人格者として知られていた。
若手社員が失敗した時、頭ごなしに怒鳴ったことはない。
「誰にでも間違いはある。次に活かせばいい」
面接に来た緊張気味の学生にも、柔らかく声をかけられる。
部下の相談にも、最後まで耳を傾ける。
社内で京平を悪く言う人間は、ほとんどいなかった。
だが家庭では違った。
酒を飲むと、妻や娘へ怒鳴った。
物へ当たった。
腕をつかんだ。
そのたびに自分へ言い聞かせていた。
――家族のためだ。
――しつけだ。
――お前たちが俺を怒らせたんだ。
家族のために働いているのに、誰も分かってくれない。京平は、いつもそう考えていた。
玄関前に立つ影は、細く、静止していた。
黒と白の装甲鱗。
頭部には、氷でできた王冠のような半透明の突起。
淡い水色の瞳が、暗い廊下の中でわずかに光っている。
足元から白い霜が、じわりと廊下の床へ広がっていく。
窓ガラスにも、うっすらと結露が浮かんでいた。
真夏の夜だというのに。
京平の足が、玄関の手前で止まった。
しかし酒のせいで、思考が鈍っていた。
――仮装か。
――強盗か。
「……なんだ、お前」
返事はない。
「ここは住民以外、勝手に入っていい場所じゃないぞ」
返事はない。
「聞いてるのか!」
その声が、狭い廊下に反響した。
凍珠の指先が、ごくわずかに震える。
怒鳴り声。
酒に酔った男性の、大きな声。
優が誰よりも苦手だったもの。
昔なら、優は反射的に視線を落とした。
謝った。
何について謝っているのか、自分でも分からないまま。
「ごめんなさい」と言えば、怒鳴り声が少しだけ早く終わることを知っていたから。
だが今は、逃げない。
凍珠は視線を落とさない。
顔を上げたまま、京平をまっすぐに見ていた。
感情の見えない、凍った水面のような目で。
京平がゆっくりと後ずさる。
「……なんなんだ、本当に」
凍珠の右腕が、静かに持ち上がる。
冷気が渦を巻き、黒と白の大型ボウガン――凍珠弩が形を成す。
中央の青白い結晶へ、空気中の水分が吸い寄せられ、凝縮していく。
透明な、氷の矢。
京平の口が、半端に開いたまま止まった。
「……おい」
凍珠は答えない。
代わりに、静かに足元を定める。
肩幅に開いた足。
まっすぐに伸びた背筋。
深く、短い呼吸。
かつて弓道場で、何百回、何千回と繰り返した姿勢だった。
狙って、無理に当てるのではない。
正しく構えれば、その結果として、矢は的へ向かう。
弓道の先生に、何度も言われた言葉。
違うのは――
今、視線の先にあるのが、白い的紙ではないということだけ。
「待て。何なんだ、お前は」
京平が一歩、後ろへ下がる。
発射。
乾いた、短い音。
氷の矢が、一直線に廊下を走る。
京平の胸へ、命中した。
背中から壁へ叩きつけられる。
上着が、はらりと床へ落ちる。
胸に突き刺さった氷の矢。
そこから血が流れ始めるが、矢の周辺から、その血さえ白く凍っていく。
京平は呼吸ができなくなり、壁を伝って、ずるずると崩れ落ちた。
凍珠は追撃しない。
倒れた京平を、ただ見下ろしている。
やがて、周囲の冷気が弱まる。
黒と白の装甲鱗が、霧のように薄れる。
頭部の氷冠が消える。
凍珠弩が、白い蒸気となって空へ溶けた。
そこに立っていたのは、十五歳の少女だった。
黒髪のショートボブ。
細い身体。
布目優。
京平の目が、大きく見開かれる。
「……優?」
優は、答えなかった。
自分は父親を撃った。
普通なら、絶対に許されないことをした。
それでも――。
父親なら。
娘が突然、こんな姿になって目の前に現れたなら。
「どうした」
「何があった」
「誰にこんなことをされた」
そう聞いてくれるかもしれない。
幼い頃の記憶が、断片的に脳裏をよぎる。
遊園地。
手をつないで歩いた記憶。
買ってもらった綿菓子。
機嫌のいい日に、大きな声で笑っていた父親。
昔からずっと、恐ろしいだけの男だったわけではなかった。
「お前……何をしてるんだ……!」
優の目が、ほんのわずかに揺れる。
「こんな夜中に……そんな格好で……何のつもりだ」
なぜ鬼になったのか、京平は聞かなかった。
何があったのか、聞かなかった。
怖かったのか、とも聞かなかった。
自分が悪かったのか、とも言わなかった。
「母さんには言ったのか」
優は黙っている。
「勝手なことをするな」
血を流し、壁にもたれたまま、京平の声は、少しずつ、いつもの調子へ戻っていく。
「お前が問題を起こしたら、母さんにも迷惑がかかるだろうが」
その言葉が、優の喉の奥に、小さく引っかかった。
期末テストの夜。
成績が悪くて、家に帰れなかった夜。
学校へ相談できなかったこと。
母親が怖くて、誰にも言えなかったこと。
父親へも、電話一本かけられなかったこと。
それでも、心のどこかで思っていた。
――本当に困った時なら、父親くらいは、味方になってくれるかもしれない。
京平は続ける。
「母親に迷惑をかけるな」
優の唇が、わずかに動いた。
「……そう」
「何だ?」
優が、静かに言う。
「最後まで、私が悪いんだね」
叫びはしなかった。
大げさな声でもなかった。
ただ、理解してしまった人間の声だった。
京平には、その言葉の意味が分からない。
優の脳裏に、美里の声が蘇る。
――今度は、あなたが選ぶの。
これまで優は、ずっと評価される側だった。
成績を評価され、学校を選ばれ、進路を決められ、正しい娘であることを求められてきた。
今度は、自分が選ぶ。
「今度は、私が決める」
優の周囲の温度が、急激に下がる。
床に落ちた血が、パキ、と音を立てて凍る。
窓ガラスへ、白い霜が線を描くように走った。
腕。
肩。
胸。
脚。
黒と白の装甲鱗が、優の身体を覆う。
頭部に、氷冠。
優は再び、凍珠へ戻る。
凍珠弩が、冷気の中から形を成していく。
京平から、先ほどまでの父親としての威圧感が、跡形もなく消えていた。
「優……?」
凍珠が、照準を合わせる。
「待て……」
一瞬だけ、凍珠の動きが止まった。
謝るかもしれない。
最後に、自分を心配してくれるかもしれない。
優の中に、まだそれを期待する部分が残っていた。
だが京平が言ったのは、違う言葉だった。
「救急車を呼べ」
自分の胸を、両手で押さえながら。
「俺を助けろ」
優ではなく。
自分を。
最後まで、自分のことだけを。
凍珠が、再び照準を戻す。
「優! 父親だぞ!」
返事はない。
「やめろ!」
二本目の氷矢が、結晶の中から生成されていく。
京平が、壁を支えにして逃げようとする。
「誰か――!」
発射。
長い描写はいらなかった。
一直線に、迷いのない射線。
矢は、京平の頭部へ命中する。
身体から、力が抜ける。
そのまま、床へ崩れ落ちる。
動かない。
布目京平、死亡。
静寂が、廊下を満たす。
遠くで、電車が発車する音がした。
駅前では、誰かが笑っているかもしれない。
タクシーが走り、信号が変わり、街は何も知らないまま動いている。
その一方で、マンションの廊下には、一人の死体だけが残っていた。
凍珠は、京平を見下ろす。
喜びはなかった。
涙も、出なかった。
指先に残るはずの、矢を放った感触さえ、もう遠い。
十五年間、自分を苦しめ続けた男を殺した。
それなのに、何一つ軽くならない。
――自分で決めた。
――自分で撃った。
――これで終わったはずなのに。
なのに、何も終わっていない。
凍珠が、廊下の窓へ視線を向ける。
ガラスに、黒と白の鬼が映っている。
装甲鱗が、静かに消えていく。
優へ戻る。
ガラスに映っていたのは、十五歳の少女だった。
無表情。
涙はない。
しかし。
映った顔が、ごくわずかに、震えていた。
本人ですら気づかないほど、小さな震え。
優はその顔を見ないよう、視線を外す。
廊下を歩き出す。
背後に残るのは、父親の遺体と、白い霜と、床に落ちた紺色のスーツだけだった。
◇
寿満寺の本堂では、まだ霊気感知の訓練が続いていた。
慎悟は目を閉じたまま、一人ひとりの気配を確かめている。
蓮。
翼。
綾実。
友紀。
南海。
歩美。
伊織。
翔一。
健太。
美奈子。
莉奈。
見えなくても、そこにいる。
誰か一人がすべてを背負う必要はない。
互いの存在を、確かめ合うことができる。
慎悟は、もう一度、静かに息を吐いた。
◇
同じ夜。
福江駅前のマンションでは。
布目優が、自分を守ってくれるかもしれないと最後まで期待していた家族を、自分自身の手で、消していた。
廊下には、白い霜だけが、いつまでも残っていた。
遠くで、同じ夜の電車の音が響いていた。
第7話まで読んでくださり、ありがとうございました。
優が最後に発した「今度は、私が決める」という言葉、あれは本当に彼女自身の意思だったのか。
読んでくださった方それぞれの感じ方があると思います。
京平が最後まで変わらなかったこと、優の顔にほんの一瞬だけ浮かんだ震え。
このあたりは、まだ伏線として残しておきます。
一方で寿満寺では、慎悟たちが何も知らないまま、静かな夜を過ごしています。
その落差を、次話以降でも大事に描いていくつもりです。
次回、第8話「戦車の朝」では舞台が一変します。
綾実が引くタロットカードと、翌日に控えた高校野球の準決勝。
穏やかな朝から始まりますが、この章の核心に近づく重要な回になります。
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