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猿寺の凍れる夏  作者: 孔雀丸


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2/18

第2話 凍珠

第1話で示された「選ばれた道」――その代償が、今回はっきりと形になります。


美里の言葉は、命令ではありません。


「戻りたいと思えば、戻れる」


「会いたいなら、会いに行けばいい」


「あなたが決めていいの」


すべてが、優自身に選ばせる言葉です。


けれど、その選択肢は本当に自由だったのでしょうか。


冷気に包まれる和室、軋む骨、白く染まる息。


クリオロフォサウルスの鬼・凍珠の誕生と、優が最初に握らされた「選ぶ側」という感覚を、どうぞ最後までお読みください。

 冷たい、と優(ゆう)は思った。

 美里(みり)の脇差の切っ先が、確かに胸元へ触れている。刺された。反射的にそう思い、両手が喉のあたりへ跳ねる。

 けれど血は出ない。

 痛みも、刺し傷らしい鋭さはなかった。ただ、切っ先の触れた一点から、何か黒く紫がかったものが、細い糸のように体の中へ入り込んでくる。

 それは血管をたどっているようだった。

 冷たさが、心臓へ届く。

 どくん。

 心臓が一度だけ、これまで感じたことのない強さで脈を打った。優の視界が、その一拍だけ白くなる。

「……なに、これ……」

 声が掠れた。畳へ膝がつく。美里は脇差を離さない。切っ先は優の胸元に触れたまま、静かに角度を変えている。

「怖がらなくていいの」

 美里の声は、変わらず穏やかだった。

「これは、優ちゃんを縛っていたものから、自由になるための時間だから」

 牙蓮(がれん)の表情から、笑みが消えていた。

 滄爪(そうそう)も、水筒から口を離したまま、動かない。

 ◇

 そこから、体が体でなくなっていく感覚が始まった。

 血が、氷水に変わったように冷える。それなのに骨の奥だけが、焼けた鉄線を押し込まれたように熱い。

 冷たさと熱さが同時に来る。優の思考が、その矛盾に追いつかない。

 背骨が、一節ずつ軋んだ。

 ぎし、と鳴る音を、優は自分の体の内側で聞いた。

 肩甲骨の位置が変わる。皮膚の下で、何かが少しずつずれていく。

 指の骨が鳴る。爪の先端が黒く色を変え、硬くなっていくのが分かる。

「や……やめて……」

 声にならない声で言う。

 脚の骨格まで組み替えられていくのを感じたとき、優はついに畳へ両手をついた。爪が畳表を裂く。

「痛い……!」

 美里はそれでも、声を荒げなかった。膝をつく優のそばへしゃがみ、優しく髪を撫でる。

「大丈夫よ、優ちゃん」

 囁くように。

「これは、あなたが今まで受けてきた痛みとは違う。誰かに与えられた痛みじゃなくて、あなた自身が選んだ痛みだから」

 優は答えられない。

 答えられないほどの痛みの中で、それでも美里の言葉だけは、耳の奥へすんなりと入ってくる。

 息が、喉の途中で止まった。

 そう思うより先に、美里の声が「これは自由になる痛みだ」と教えてくる。優には、自分の痛みが何なのか、判断する余地さえ残されていなかった。

 ◇

 悲鳴が上がったとき、優の口元から白い息が漏れた。

 七月だった。夏休みを目前にした、蒸し暑い夜のはずだった。

 それなのに、和室の空気が急激に落ちていく。

 畳の縁に、白い霜が生まれる。細い筋になって畳を這い、柱を這い上がる。

 障子の桟に、氷の結晶が広がっていく。障子紙の上に、木の枝のような白い模様が浮かぶ。

 真夏の座敷が、少しずつ冬へ侵食されていく。

 その中心で、優の体にも変化が起きていた。

 首筋から、黒い鱗が数枚、浮かび上がる。

 数枚が、十数枚になる。

 次の瞬間には、鎖骨、胸、腹、背中へ広がっている。皮膚の上に鎧を着せられるのではない。皮膚そのものが、鱗へ変わっていく。

 続いて、白い鱗が生まれた。

 肩。腕。脇腹。脚。

 黒い体の上を、不規則な白い線が走っていく。

 優は、自分の腕を見てしまった。

「私の……体……」

 震える指先の奥に、震え以外の何かが混じっている。

 自分ではない何かになっていく。

 声にも、獣じみた低い響きが混ざり始める。

 体は大きくならなかった。むしろ細く、鋭くなっていく。力で押し潰す怪物ではなく、静かな処刑人のような輪郭へ。

 和室の隅で、滄爪はまだ水筒の水を飲んでいた。

 蓋を開け、口をつけ、傾ける。それだけの仕草を、優の変貌の間じゅう繰り返している。

 ◇

 最後に、頭部へ激痛が走った。

 優は両手で頭を押さえる。髪の間から、硬い突起が生まれていた。少しずつ伸びていく。頭頂部から後頭部へ連なる、半透明の白い突起。

 内側には、青白い光が流れている。

 クリオロフォサウルスの鶏冠を思わせながら、それは氷で作られた王冠のようにも見えた。

 優の悲鳴が、突然止まった。

 音が消える。

 軋んでいた畳も、柱も、何も鳴らなくなる。

 そこにはもう、制服姿の布目優はいなかった。

 黒と白の装甲鱗。淡い水色の瞳。氷の冠。呼吸のたびに漏れる、白い息。

 クリオロフォサウルスの力を宿した鬼が、和室の中央に立っている。

「凍珠(とうじゅ)」

 美里が、静かにその名を口にした。

「それが、今のあなたの名前」

 凍珠は、自分の両手を見た。指が、動かなかった。

 美里だけが、その姿を見つめて言う。

「きれいね」

 そして、続けた。

「それが、あなたが選んだ姿よ」

 意識のどこか遠いところで、凍珠は思っていた。

 ------これは、私が選んだこと。

 ◇

 凍珠が、初めて息を吐いた。

 白い息は、普通の呼気ではなかった。吐き出された瞬間、空気中の水分が一斉に結晶へ変わる。細かな氷の粒が、部屋の中へ舞う。

 障子が、真っ白になった。

 床の間の花瓶に、薄氷が張る。柱には、さらに厚い霜が。

 そのとき、小さな音がした。

 滄爪が、水筒を傾けている。

 出ない。

 もう一度、傾ける。

 出ない。

 滄爪が水筒を軽く振ると、内部から硬いものがぶつかる音がした。

 からん、と。

 蓋を開ける。中は、氷だった。

 滄爪が壁から背中を離した。

「……美里様」

 彼の声から、いつもの余裕がわずかに抜けている。

「こいつ――いや、彼女は、普通の新兵じゃありません」

 滄爪は、凍珠から漏れる鬼気を観察した。数メートル離れた密閉容器の内部にまで作用している。

「まだ変わったばかりなのに、もう部屋全体に広がっている。制御できるようになったら――覇竜十傑(はりゅうじゅっけつ)と同等か、それ以上になるかもしれません」

 美里は驚かなかった。

「でしょうね」

 ただ、そう微笑んだだけだった。

 ◇

 美里は、部屋の奥へ視線を向けた。

 そこには、あらかじめ用意されていたように、黒と白の大型ボウガンが置かれている。

 彼女がそれを持ち上げ、凍珠へ差し出す。

「これは、あなたのもの」

 凍珠が受け取ると、握った瞬間に鬼気が共鳴した。武器の表面へ霜が走り、部品がわずかに動いて、凍珠の腕へ馴染んでいく。

「凍珠弩(とうじゅど)」

 美里が言う。

「あなたの鬼気を、矢へ変える武器よ」

 矢筒も、弦もない。

 けれど、凍珠は自然に息を整えていた。青白い鬼気が中央へ集まり、透明に近い氷の矢が形になる。

 誰にも教えられていないのに、体が構えを取る。

 左足。肩。背筋。呼吸。視線。

 中学時代から続けてきた弓道の記憶が、体の奥から呼び覚まされたようだった。弓とは違う武器のはずなのに、「射る」という行為だけは、体がすでに知っていた。

 凍珠は、柱の一点へ狙いを定めた。

 矢が放たれる。

 柱の一点だけが凍結し、深く穿たれた。

 滄爪は、その一射を見て、わずかに目を細めた。この少女は鬼気だけでなく、射手としての資質まで備えている。

 ◇

 美里が、凍珠の隣へ立った。

 そして、優がこれまで何度も浴びせられてきた言葉を、静かに並べていく。

「どうして勉強しなかったの? どうして言うことを聞けないの? どうして普通にできないの?」

 その言葉を聞くたびに、凍珠弩を握る手へ、無意識に力がこもった。

 美里は、優しく続けた。

「もう、そんな質問に答えなくていい」

 一拍の間。

「今度は、あなたが選ぶ側になるの」

 その言葉は、凍珠の中の何かへ、静かに沈んでいった。

 これまでの優は、採点される側だった。叱られる側。進路を決められる側。評価される側。

 美里は、それが変わったのだと言う。

 誰を許すのか。誰を拒むのか。誰を生かすのか。

 それを選ぶ側へ、優は移ったのだと。

 美里は長く語らなかった。短い言葉と、沈黙。凍珠の握る武器へ広がる霜。凍珠の水色の瞳。それだけで、十分だった。

 ◇

 美里が、再び国影(くにかげ)の脇差を凍珠へ触れさせた。

「戻りたいと思えば、人間の姿にも戻れるわ」

 戻してあげる、ではなかった。

 戻りたいなら――その言葉の形が、また優自身に選ばせているように作られている。

 黒と白の装甲鱗が、霜のようにほどけていく。氷の冠が縮む。骨格が、もう一度軋んだ。

 数秒後。

 畳の上には、制服姿の布目優が座っていた。

 手。爪。肌。髪。すべて元に戻っている。

 優は、自分の手を見た。

 体だけなら、何も変わっていないように見えた。

 けれど目が、違っていた。

 これまでの優にあった、叱られるかもしれない、間違えたかもしれないという、絶えず揺れる翳りが薄い。

 代わりに、静かで冷たい何かが、その奥に沈んでいた。

 ◇

 美里が、机の上へ一枚の紙を置いた。

 優が視線を落とす。

 福江駅(ふくええき)前のマンション。部屋番号。そして名前。

 布目京平(ぬのめきょうへい)。

 別居中の父親だった。

 一瞬、幼い記憶が優の脳裏をかすめる。

 酒の匂い。大きな声。腕をつかまれた感触。母との口論。閉まる扉の音。

 それ以上、思い出は続かなかった。

 美里は命令しなかった。

「殺しなさい」とは言わない。「復讐しなさい」とも言わない。

 ただ、静かに尋ねる。

「お父さんでしょう?」

 優は答えない。

「会いたい?」

 答えない。

 美里は微笑んだ。

「会いたいなら、会いに行けばいい」

 少しの間。

「もう誰にも、許可をもらわなくていいのよ」

 机の上には、父の住所と、凍珠弩が並んでいた。

 すべてを用意したのは、美里だった。だが最後の一歩だけは、優自身に踏ませようとしている。

「あなたが決めていいの」

 優は、紙を取らなかった。

 拒否もしなかった。

 ただ、住所を見つめている。

 美里も、それ以上は何も言わなかった。

 和室の霜が、少しずつ溶け始めている。柱から水滴が落ち、障子の白が薄れていく。畳の上に、一滴。

 けれど、優の瞳だけは、冷たいままだった。

ここまでお読みいただき、ありがとうございます。


美里は一度も「殺せ」とは言いませんでした。


それでも、優の前には机の上の住所と凍珠弩だけが残されています。


自由に見える選択の裏に、逃げ場のない構造がある。


このシリーズを貫く「第三の進路」の恐ろしさが、優という一人の少女を通して姿を現し始めました。


次話「猿寺の合宿」では、舞台は一転し、十彩獣団の面々が寿満寺での特別合宿に向かいます。


慎悟の抱える傷、寺に眠る不穏な気配、そして山中を彷徨う斬牙――静かな山寺に、新たな緊張が忍び寄ります。


引き続き、お付き合いいただければ幸いです。

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