第1話 凍りついた帰り道
お待たせいたしました。
第六章「猿寺の凍れる夏」、開幕です。
これまでの十彩獣団は、鬼と戦う十人の物語でした。
けれど今回描くのは、まだ鬼にすらなっていない、一人の少女の物語です。
布目優。
悪いことなど何もしていない、ただの高校一年生。
彼女がどうやって「鬼になる」という選択へたどり着くのか。
その過程を、できる限り丁寧に、そして残酷に描いたつもりです。
金津美里というキャラクターの本当の恐ろしさが、初めて正面から描かれる回でもあります。
彼女は脅しません。命令もしません。
ただ、優しく問いかけるだけです。
読み終えたとき、「なぜ優は頷いてしまったのか」を、皆様自身の中で問い直していただければ幸いです。
それでは、第六章第1話、どうぞ。
七月十五日の夜。
福江駅前には、まだ夏休みの匂いはしていなかった。
正確に言うなら、夏休みはもう目の前まで来ている。なのに空気だけが、それを拒んでいるみたいだった。
湿った夜風が制服のスカートの裾を揺らす。アスファルトからは昼間の熱がまだ上がってきていて、駅前ロータリーの照明が、その熱をぼんやりと白く照らしていた。
会社帰りのサラリーマンが駅の改札へ吸い込まれていく。
部活帰りらしい高校生たちが、大きな声で笑いながらコンビニの袋を提げて歩いていく。
蝉の声が、街灯の下で途切れることなく鳴いている。
布目優は、その流れの中に立っていた。
立っている、というより、流れに逆らって立ち止まっている、という方が正しかった。
駅前を通り過ぎる人間は、みんなどこかへ向かっている。家へ、部活へ、飲み会へ、恋人の待つ場所へ。
優にだけ、向かう場所がなかった。
正確には、向かう場所はある。歩いて十五分の、あの家だ。ただそこへ向かう足が、どうしても動かなかった。
鞄の中には、期末テストの答案と成績表が入っている。
赤点はない。留年するほどでもない。だけど、それを分かっていてなお、鞄の持ち手を握る指先に力がこもった。
これくらいの点数で、こんなに帰りたくないと思っている自分がおかしいのではないか。もっと真面目にやっていれば。もっと勉強していれば。
------そう考えるたびに、優の中で母の声が再生される。まだ実際には言われていない、これから言われるはずの言葉が。
「どうしてもっと頑張らなかったの」
「高校へ何をしに行っているの」
「このままで、将来どうするつもり」
優は無意識に、鞄の持ち手を強く握っていた。
スマートフォンが震えた。
画面に浮かんだ「お母さん」という三文字を、優はしばらく見つめていた。
出ない。
けれど電源も切れない。
切ってしまえば、帰ったときに「どうして電源を切ったの」と、また新しい詰問が増えるだけだ。優はそれをもう何度も経験している。
震動が止まる。
優は詰めていた息を、そっと吐いた。
近くのベンチでは、同じ制服ではない高校生たちが座って、スマートフォンの画面を覗き込みながら盛り上がっていた。
「マジで海行こうよ、夏休み初日」
「花火大会、去年みたいに場所取り誰がやる?」
「うちの部、合宿までまだ時間あるし遊べるっしょ」
優はその声を、まるで違う言語みたいに聞いていた。
同じ高校生。同じ制服の学校を出たばかりの時間。同じ夏休みという名前の期間。
なのに、そこに自分の居場所はない。
優は視線を落とし、駅前のロータリーを見た。何周目かもう分からない。ここへ来てから、優はずっと同じ場所をぐるぐる歩いている。
家へ帰れば、成績表を見せなければならない。
学校へ相談すれば、担任はきっと母へ連絡する。
「お母さんと一度、ちゃんと話してみよう」------そう言われる場面まで、優には手に取るように想像できた。
父・京平のことも、頭をよぎった。
別居している父。優が生まれてから何度も、酔っては声を荒らげていた父。頼れる相手ではないと分かっていながら、優はほんの一瞬だけ、その存在を思い出そうとした。
------でも、無理だ。
すぐにその考えは打ち消される。
帰れない。相談できない。頼れない。
「......どこ行っても」
優は小さく声に出していた。誰かに聞かせるつもりのない、ただ喉から漏れただけの言葉。
「どこへ逃げても......大人が決めたところに、戻される」
その言葉を口にした瞬間、優は自分の言葉に少し驚いた。まるで、ずっと前から知っていたことを、初めて言語化したような感覚だった。
そのとき------
背後で、足音がした。
自分の足音ではない。優はゆっくり後ろのビル沿いへ視線を向けた。
◇
街灯の光が届きにくい、路地の入り口。
そこに、誰かが立っていた。
最初、優はそれを人間だと思おうとした。思おうとして、失敗した。
黒と深紅の装甲鱗が、街灯の隙間からの光を鈍く反射している。腰には、優の身長より長いのではないかと思うほどの巨大な刀。
------鬼だ。
福江市に鬼が現れる、というニュースは何度も見ていた。だけど、実際に目の前で見るのは初めてだった。
優の足が硬直する。
逃げなければ、と頭では分かっている。だけど身体が動かない。心臓だけが、耳の奥でうるさいくらいに鳴っていた。
鬼------牙蓮は、動かなかった。
刀の柄に手をかけるでもなく、ただ壁に背中を預けたまま、優をじっと見ている。
「別に」
低いけれど、思っていたより落ち着いた声だった。
「取って食わないよ」
優は答えられなかった。声が出ない。
牙蓮の視線が、優の制服から、鞄から、それから何度も震えているスマートフォンへと移る。
「帰らないの?」
問われて、優の口が勝手に動いた。
「......帰ります」
教師にも、担任にも、これまで何百回と使ってきた模範解答だった。何も考えずに口から出てくる、優にとっての正解。
だけどそれは本心ではなかった。
牙蓮が、小さく笑ったように見えた。
「へえ。帰る人間が、駅の周り何周もするんだ」
優の心臓が跳ねた。
------見られていた。ずっと前から。
優は何も言えなかった。牙蓮はそれ以上追及しなかった。
「家出?」
「親は?」
「学校で何かあった?」
そういう質問を、牙蓮は一つも投げてこなかった。
その代わりに、短く尋ねた。
「帰りたくない?」
優は答えなかった。答えられなかった。
答えの代わりに、俯いた視線が地面に落ちた。
牙蓮は、その沈黙を待たなかった。
「だったら帰らなきゃいいじゃん」
------え。
優は初めて、顔をあげて牙蓮を真正面から見た。
これまで、誰にもそう言われたことがなかった。
教師は「帰りなさい」と言う。
警察は「家庭に連絡します」と言う。
母は「早く帰ってきなさい」と言う。
牙蓮だけが、
「帰らなくてもいい」
と言った。
優の中で、何かがぐらりと揺れた。
「......あなた、鬼ですよね」
やっと出た声は、掠れていた。
「そうだけど」
牙蓮は隠さなかった。
優は一歩、後ずさりかけた。
「私を......どうするんですか」
「何もしない。......嘘」
即座に否定した優に、牙蓮はふっと息を吐くように笑った。
「じゃあ言い方変える」
牙蓮は壁から背中を離し、優の方へ向き直った。刀には触れない。手も伸ばさない。ただ、視線だけを合わせてくる。
「帰る場所がないなら、別の場所へ行けばいい」
その言葉には、演技には見えない何かがあった。優にはうまく説明できない。だけど、教師が生徒に対して使う言葉とは、明らかに温度が違っていた。
牙蓮は手を差し出さなかった。
腕を掴もうともしなかった。
ただ、そのまま踵を返して歩き出す。
「来るなら勝手に来れば」
背中越しの声には、優をどうしても連れて行こうという圧力がなかった。
------それに、優の肩から強張りが少しだけ抜けた。
スマートフォンが、また震えた。
画面には「お母さん」の文字。
優はその文字を見つめた。長い、長い数秒間。
そして------
拒否ボタンを押した。
優は、遠ざかっていく牙蓮の背中を追った。
自分の足で、自分の意思で歩き出したのだと、優はそのとき確かにそう思っていた。
◇
福江駅の明かりが、次第に後ろへ遠ざかっていく。
牙蓮は振り返らない。優は数歩後ろをついていく。
その距離感------無理に手を引かれるでもなく、けれど完全に無視されるわけでもない、絶妙な距離が、優にとって奇妙に心地よかった。
「......どこへ行くんですか」
優が尋ねると、牙蓮は前を向いたまま短く答えた。
「家」
優の足が、一瞬止まりかけた。
牙蓮はそれに気づいたのか、少し振り返って口の端を上げた。
「あんたの家じゃないって。私たちの家」
------私たち。
その言葉が、優の中に妙な形で残った。
家庭では、父の機嫌か母の機嫌、どちらかに合わせて自分の立ち位置を決めてきた。学校では「生徒」という枠の中でしか自分を扱われたことがなかった。
だけど牙蓮は、まだ何者でもない優のことを、当たり前のように「私たち」の中へ入れた。
それだけのことなのに、優の胸の奥が、じわりと温かくなる。
同時に、どこかで小さな警報が鳴っている気もした。だけど優は、その警報を聞かなかったことにした。
住宅街を抜け、街灯もまばらな坂道を上っていく。蝉の声が遠くなり、代わりに虫の音が近くなる。
やがて、大きな屋敷が見えてきた。
金津邸。
◇
屋敷の中は、静かだった。
優の家とは違う。怒鳴り声もない。テレビの音もない。何もかもが静まりかえっている。
その静けさに、優は思わず息を殺した。
牙蓮に案内されるまま、和室へ通される。
畳の匂い。障子越しの淡い光。
そこに、正座した少女が座っていた。
金津美里。
年齢は分からない。優より少し年上に見えるが、教師のような威圧感はない。むしろ、優が今まで会ったどんな少女よりも、静かで、柔らかい雰囲気を纏っていた。
部屋の隅には、もう一人。
水筒を持った少年が、壁に寄りかかるようにして座っている。優のことを一瞥しただけで、それ以上は何も言わない。滄爪------河間純二郎。
「座って」
美里の声は、優しかった。命令ではなく、提案のような響き。
優は正座した。背筋を伸ばし、膝の上に両手を置く。
------これは、教師や母の前で取る姿勢だ。優は無意識に、そうしていた。
美里は、優をしばらく見つめてから、静かに口を開いた。
「布目優さんね」
名前を呼ばれただけで、優の肩が強張った。
美里は、その反応に気づいたはずだった。だけど、それを咎めるようなことは言わなかった。
「今日は......家へ帰れないの?」
優は視線を落とした。
「帰れないんじゃなくて......、帰りたくない?」
優は答えられなかった。
美里はそれ以上、急かさなかった。
沈黙が続く。優にとって、答えるまで待ってくれる大人というのは、ほとんど記憶にないことだった。
やがて優は、小さく頷いた。
「お母さんが怖い? ......怒られるから。成績?」
優は、顎をわずかに引いた。
「もっと頑張ればよかったんです。私が悪いんです。お母さんは、私の将来を心配して------」
言い訳するように、優は言葉を続けようとした。母を庇うことに、慣れきっていた。
だが、その途中で美里が言った。
「あなたは悪くないわ」
------優の思考が、そこで止まった。
たった一言。それだけの言葉が、優の胸の奥にあった何かを崩していく。
これまで誰も、優にそう言ってはくれなかった。
優の目に、涙が浮かびかけた。だけど、瞬きを一つしただけで、それは落ちなかった。優の表情から、静かに色が消えていく。
美里は、優の点数を聞かなかった。
勉強したのかとも、努力が足りなかったのではないかとも、聞かなかった。
「家へ帰るのが怖いほど追い詰められている子に」
美里は静かに続けた。
「成績の話をしても、意味がないでしょう?」
牙蓮は柱に寄りかかったまま、口を挟まない。滄爪も水筒を傾けるだけで、こちらを見ようとしない。
美里だけが、優をまっすぐに見ていた。
◇
「これから、どうしたい?」
美里が尋ねた。
優は答えられなかった。どうしたいかなんて、考えたことがなかった。いつも、どうすれば怒られないかしか考えてこなかったから。
「いくつか、考えてみましょうか」
美里は、静かに三つの道を並べていく。
「今から帰ることもできる」
一見、優に自由を差し出しているように聞こえた。
「帰ったら、お母さんは今日どこへ行っていたか聞くでしょうね。成績表も見せなきゃいけない。電話に出なかった理由も」
優の呼吸が、少しずつ浅くなっていく。
「それでも、帰る?」
優は首を横に振った。
美里は「帰るな」とは言わなかった。優自身が、否定した。
「先生へ相談する方法もあるわ」
一瞬、優の胸のあたりが、ふっと軽くなった。
だが美里はすぐに続けた。
「先生は保護者へ連絡するでしょうね。未成年の生徒が、家へ帰りたくないと言っているんだもの。お母さんと先生と、三人で話すことになるかもしれない」
優は目を閉じた。母と教師、二人の大人に囲まれて、自分の気持ちを説明させられる光景が浮かぶ。それだけで、身体の力が抜けそうになる。
優は、その道も拒んだ。
「遠くへ逃げることもできる」
優が、わずかに反応した。
「でも------お金は?」
優には答えがなかった。
「十五歳が、泊まる場所はどこにあるの。ホテル? 見つかれば警察に補導される。保護されても、結局家庭へ戻される。またここへ、同じことの繰り返し」
美里の言葉には、嘘がなかった。反論の言葉を探して、優は見つけられなかった。
一つ一つが、優の中に重みとなって積み重なっていく。息が、少しずつ浅くなる。
児童相談所という言葉も、公的な保護という言葉も、美里の口からは一度も出なかった。優自身も、それに気づく余裕はなかった。
三つの道が、すべて塞がれていく。
「変でしょう?」
美里がふと、優に問いかけるように言った。
「あなたは、ただ苦しいから逃げたいだけなのに。人間の世界には、あなた自身が選べる道が、ほとんどない。進学。就職。家族。学校。法律」
美里は、一つずつ静かに並べていく。
「どれも、最初から誰かが作った道でしょう?」
優は、その言葉に反論できなかった。
「あなた、自分で何かを決めたことはある?」
優は答えられなかった。
高校も、母の意向だった。
勉強も、母の期待だった。
父と母、どちらに従うかさえ、その日の機嫌次第だった。
「なら」
美里の声が、優の耳の奥へ静かに沈んでいく。
「今度は、あなたが選べばいい」
美里は続けた。
「人間として帰る場所がないなら、人間でいる必要も、ないでしょう?」
優。
「鬼になったら......」
言葉が、途切れる。
「......家に、帰らなくていいんですか」
「ええ」
美里は、そう答えた。
優の膝の上で、指先が止まった。
美里は答えを急かさなかった。ただ、最後にもう一度だけ尋ねた。
「どうしたい?」
「帰りたい?」------母の顔が浮かぶ。
「学校へ戻りたい?」------教師の顔が浮かぶ。
「お父さんを頼る?」------酔った父の顔が浮かぶ。
三つの記憶が、一斉に優の中へ蘇る。視界の端が、すっと狭くなる。
長い、長い沈黙。
優の指先が、膝の上で固く握られていく。
「......もう」
声が震えた。
「もう、家へ帰りたくない」
美里が、微笑んだ。
その瞬間、優は生まれて初めて、自分の意思で人生を決めたのだと思った。
◇
美里が、ゆっくりと立ち上がった。
そのまま、傍らに置かれていた脇差へ手を伸ばす。
------国影。
その名を優は知らない。ただ、鞘の意匠が異様に古く、まるでこの部屋だけ時間の流れが違うように見えた。
優が、わずかに後ずさった。
牙蓮の表情から、笑みが消える。
滄爪も、水筒から口を離した。
美里が、脇差を鞘から抜いた。
刃が、和室の淡い灯りを反射する。優の呼吸が浅くなる。
「......痛いですか」
優は、掠れた声で尋ねた。
美里は少し考えるように間を置いてから、答えた。
「ええ」
嘘はつかなかった。
「でも」
美里は続ける。
「今までより、長くは続かないわ」
優は、逃げなかった。逃げる力が、もう残っていなかった。
「怖い?」
優は頷いた。
「それでも?」
長い沈黙。
蝉の声はもう聞こえない。時計の音さえ聞こえない気がした。
優は、ゆっくりと口を開いた。
「......帰りたくない」
美里が、静かに頷いた。
「分かったわ」
そして、囁くように言った。
「なら------帰らなくていい身体にしてあげる」
脇差の切っ先が、優の胸元へそっと触れた。
冷たい。
------その一言では足りないほどの冷たさだった。
優の身体が、大きく震えた。
第六章第1話、お読みいただきありがとうございました。
今回、意識したのは「脅迫では堕ちない」ということでした。
美里は優を脅していません。刃も、声も荒げていません。
彼女がやったのは、ただ優の前にある道を一つずつ静かに塞いでいっただけです。
帰る道。相談する道。逃げる道。
すべてが「そちらへ進めば、また同じ苦しみに戻される」という現実的な説明によって、優自身の手で否定されていきます。
だからこそ優は、最後に自分の意思で「もう、家へ帰りたくない」と口にしてしまう。
これは支配ではなく、選ばせるふりをした誘導です。
そして、この構造こそが「第三の進路」という思想の本質でもあります。
優は決して弱い子ではありません。
ただ、彼女の周りには、彼女の話を最後まで聞いてくれる大人が、一人もいなかっただけです。
牙蓮の「帰らなくてもいい」という言葉に、優が救われたように感じてしまったのも、当然のことだったと思います。
次話「凍珠」では、優が実際に鬼へと変貌するその瞬間を描きます。
和室に広がる霜、そして目覚めた新たな鬼の姿を、ぜひ見届けてください。
それでは、また次話で。




