外伝2話 母の声
こんにちは、孔雀丸です。
今回は外伝第2話「母の声」をお届けします。
前回の外伝第1話「消された後悔」に続き、本編第六章「猿寺の凍れる夏」の裏側で進行していた、凍珠――布目優の物語です。
時系列としては、本編第9話(清王学園高校野球部の準決勝)以降、第10話(三枚の回復札の比較実験)より前の出来事にあたります。慎悟たちが寿満寺で汗を流し、笑い合っていた、ちょうどその裏側で起きていたことだと思って読んでいただければ幸いです。
内容の性質上、家族間の暴力・殺害描写を含みます。苦手な方はご無理なさらないよう、あらかじめお伝えしておきます。
なお本作の執筆にあたり、プロット整理・文章推敲の一部にAIを活用しています。
それでは、外伝最終話「母の声」、どうぞ最後までお付き合いください。
蝉の声が、アスファルトを溶かしそうなほど厚く積もっていた。
福江市内の住宅街を、凍珠は一人で歩いていた。慎悟たちが寿満寺で特別合宿を再開している頃、街はいつもと同じ、なんの変哲もない真夏の午後を続けている。
強い日差しが電柱の影を短く刻み、道路の白線が陽炎に揺れている。犬を連れた老人が、日陰を選んで歩いていく。子どもたちの自転車が、遠くで甲高いベルを鳴らした。
けれど凍珠の周囲だけ、空気の質が違った。
黒と白の装甲鱗が、日差しを反射せずに沈める。頭部の氷冠は、内側にわずかな青白い光を宿したまま、静かに揺れている。一歩進むごとに、足の裏からアスファルトへ薄い霜が広がり、数秒で溶けて消えた。呼吸のたびに、白い息が漏れる。
真夏の住宅街に、そこだけ小さな冬が歩いていた。
目的は、実母・布目陽子の殺害。
金津美里から与えられた、二度目の「過去を断ち切る」ための任務だった。
父・京平を殺した直後には、まだ胸の奥に小さなざわつきがあった。刃を握る手が震えた記憶が、たしかにあった。父の怒鳴り声を思い出すたび、腹の底が冷たく縮んだことも覚えている。
けれど巨徳の除霊を受けて以降、その感覚は薄い霜の下へ沈んでいる。父の顔を思い出しても、怒りは湧かない。母の声を思い出しても、胸は縮まらない。記憶だけが、そこに在る。
まるで、感情を失った写真を見ているようだった。
アルバムをめくるように、優は自分の過去を眺めることができる。痛みも、恐怖も、そこには写っていない。ただ形だけが残っている。
それを、楽になったとは思わなかった。
ただ、どこかが欠けている。その静けさだけが、確かにあった。何かを失ったはずなのに、失ったものの輪郭さえ、うまく思い出せない。
凍珠弩を背負う紐が、皮膚に食い込む。歩くたびに、腰の矢筒が小さく音を立てる。以前の優なら、こんな音一つにも怯えていただろう。今の凍珠は、その音に何も感じない。感じないということが、これほど静かなものだとは、優自身も知らなかった。
◇
住宅街の一角で、凍珠は足を止めた。
布目家。
優が十五年間暮らした家だった。
古びた表札。「布目」の二文字は、雨に打たれて少し滲んでいる。玄関脇の植木鉢には、枯れかけた朝顔が一輪だけ咲いている。郵便受けの傷、雨樋の色褪せ。門柱の高さも、砂利の敷き方も、記憶のままだった。
家出した七月十五日の夜から、何ひとつ変わっていない。
変わったのは、自分だけだった。
そう思っても、痛みはやってこない。ただ事実として、そう認識しただけだった。
門をくぐり、玄関へ向かって歩く。一歩ごとに、記憶が浮かんでは消える。
幼い頃、陽子と並んで朝顔へ水をやった夏の朝。じょうろの持ち方を教えてくれた指の感触。中学の初登校の日、緊張した顔で振り返ると、陽子が黙って頷いてくれたこと。あのときの制服の匂い。
弓道部の練習から帰り、玄関で靴を脱いだ夕方の、涼しい三和土の感触。成績について問い詰められた、いくつもの夜の、テーブルの木目まで。
どれにも、温度がなかった。
思い出はある。けれど、懐かしいとも、悲しいとも感じない。ページをめくるように、記憶が過ぎていくだけだった。
その異常さを、凍珠は疑問にすら思わなかった。感じないことが、いつの間にか当たり前になっていた。
庭の隅には、優が小学生の頃に使っていた自転車の跡が、今も薄く残っている。とっくに処分されたはずのそれを、地面の凹みだけが覚えていた。凍珠はそこへ一瞬だけ目をやり、すぐに視線を戻した。覚えていることと、感じることは、別のものだった。
◇
玄関の前で、凍珠は右腕を下ろした。
黒白の冷気が集まり、凍珠弩が形をなす。弩身に霊気が流れ、青白い光が一本の氷矢を編み上げる。矢尻が、玄関の扉へ向く。
左手を伸ばし、呼び鈴を押す。
電子音が家の奥へ吸い込まれていく。
静寂。
やがて、家の奥から足音が聞こえた。
その足音を、優は何千回と聞いてきた。廊下を横切り、玄関へ向かう歩き方。急いでいるときの、少し引きずるような癖まで分かる。玄関マットの位置を確かめずに踏む、その一歩さえ。
鍵の開く音がした。
ドアが開く。
「――」
在宅していたためだろう、簡素な普段着姿の陽子が、そこに立っていた。エプロンの紐が、片方だけ緩んでいる。
最初、陽子は目の前の異形を理解できなかった。黒と白の装甲鱗。氷の冠。白く漏れる冷気。そして、自分の胸へまっすぐ向けられた武器。
強盗か、それとも見知らぬ怪物か。頭のどこかで、そんな言葉が浮かんだのかもしれない。玄関の奥からは、テレビの音が漏れていた。昼のニュース番組の、聞き慣れたアナウンサーの声。日常と異形が、一枚のドアを挟んで隣り合っていた。
陽子が一歩、後ろへ退く。
けれどその目が、凍珠の瞳と合った瞬間、足が止まった。
◇
陽子の視線が、凍珠の淡い水色の瞳から、細い立ち姿、姿勢の良さへと辿っていく。何かを探すように、何度も、何度も。
唇が震えた。
「……優、なの?」
その声が、玄関先の熱気の中へ落ちる。
引き金へかけた凍珠の指が、ごくわずかに硬直した。
巨徳の除霊の下から、記憶が一瞬だけ浮かび上がる。
成績表を鞄の底へ押し込んだ夜。テストの結果を訊かれることへの、喉が絞まるような感覚。何度も答案を丸めては伸ばした、あの指の感触。七月十五日、家へ帰れないまま福江駅前を歩き続けた自分。駅のロータリーの灯りが、涙で滲んで見えたこと。まだ美里に出会う前の、布目優。
凍珠は答えなかった。
答えれば、自分が凍珠ではなく、布目優へ戻ってしまう気がした。
殺すことよりも、娘として母と言葉を交わすことのほうが、よほど恐ろしかった。声を出す、そのことだけで、氷の下にあるものが溶け出してしまいそうだった。
陽子は、その沈黙を拒絶ではなく、迷いだと受け取った。
「優……帰ってきたの?」
◇
喉の奥が、小さく鳴った。それでも陽子は、玄関から外へ一歩踏み出した。裸足のまま、コンクリートの熱さも構わずに。
「何があったの? その姿……何なの?」
凍珠は答えない。
陽子は、逃げなかった。行方不明だった娘が目の前にいるという事実のほうが、足を前へ押し出していた。目の前の異形よりも、七月十五日から続いていた、あの底なしの不安のほうが、ずっと重かったのかもしれない。
あの夜以来、陽子は毎晩、優の部屋の電気をつけたままにしていた。警察には何度も足を運んだ。学校にも、友人の家にも、思いつく限りの場所へ連絡を入れた。
誰も、優の行方を知らなかった。それでも陽子は、娘が帰ってくることだけを、疑わずに待ち続けていた。
「話をしましょう」
陽子がゆっくりと右手を伸ばす。
その手を見た瞬間、優の中で、いくつもの記憶が重なった。
成績表を取り上げた手。肩をつかみ、無理やりこちらを向かせた手。勉強机から逃げないよう、背中を押した手。指の関節が白くなるほど、腕を強く握られたこともあった。
同時に。
熱を出した夜、額へそっと触れた手。小学校の入学式で、制服の襟を直してくれた手。
弓道大会へ向かう朝、まだ暗いうちに起きて握ってくれた弁当を、両手で持たせてくれたこと。転んで膝を擦りむいたとき、消毒液を吹きかけながら、痛いの痛いのと繰り返してくれた声。
陽子は、善人でも悪人でもなかった。
同じ手が、優を傷つけ、同じ手が、優を育てた。
優自身が見ないようにしていた記憶までが、堰を切ったように蘇る。凍りついた湖の底で、何かが小さく波打つように。
テーブルに叩きつけられた成績表。「あなたのため」という言葉。何度も繰り返された、答えを間違えることへの重い沈黙。
だが同時に、その言葉の裏側に、陽子自身の怯えがあったことにも、優はうっすらと気づいていた。母もまた、何かに追い立てられていた。京平から逃げた後も、その恐れから一度も自由になれなかった。
二つの記憶は、どちらも本物だった。どちらか一方だけを選ぶことは、優にはできなかった。
凍珠の指が、震えた。
陽子の手が、あと数十センチのところまで迫る。
そして、もう一度。
「優」
◇
名前を聞いた瞬間、凍珠は引き金を引いた。
叫びも、長い台詞もなかった。ただ静かに、放った。
凍珠弩の弦が、短く鳴る。氷矢が至近距離から陽子の胸へ突き刺さる。
陽子の身体が後方へ押され、玄関の框に背中をぶつけて、そのまま崩れ落ちた。
伸ばしていた右手が、力なく落ちる。
流れた血の周囲だけが、白く凍りついていく。真夏の玄関先に、霜が広がった。三和土の冷たさと、真夏の熱気が、境目もなく混じり合っていた。
凍珠は、動かなかった。
それは、任務を遂行するための一射だった。ただそれだけの意味しか、持たせてはいけなかった。
◇
倒れた陽子が、息を吸おうとした。
声にならない。
けれど、唇だけが動いた。
「……ゆう……」
娘の名前。
凍珠の目が、揺れた。
父・京平は、最後まで優を責めた。自分の非を一度も認めなかった。息が止まる直前まで、お前のせいだ、という言葉を吐いていた。
けれど陽子は、胸を射抜かれてなお、優の名を呼んだ。
それが何を意味するのか、凍珠には分からなかった。
謝罪なのか。助けを求めているのか。帰ってきてほしかったのか。それとも、ただ、娘の名を呼んだだけなのか。
答えは、どこにもなかった。
意味の分からなさだけが、凍珠の指先を凍りつかせていた。
声を聞き続ければ、自分は間違っていたのではないかと思ってしまうかもしれない。
美里から与えられた「あなたは自分の人生を取り戻した」という言葉が、崩れてしまうかもしれない。
巨徳が削り取ったはずの痛みが、戻ってきてしまうかもしれない。
陽子の唇が、もう一度動いた。
「優……」
◇
凍珠は、二本目の氷矢を編み上げた。
一本目は、陽子を殺すための矢だった。
二本目は、母の声を止めるための矢だった。
これ以上、「優」と呼ばれることに、耐えられなかった。名を呼ばれ続ければ、氷の下にある何かが、際限なく溶け続けてしまう。それだけは、避けなければならなかった。
引き金を引く。
短い発射音。
二本目が命中し、陽子の身体から力が抜けた。呼吸も、声も、止まった。
玄関に、静寂が戻る。
聞こえるのは、古い冷蔵庫のモーター音。遠くの蝉。夏の、変わらない日常音だけだった。時計の秒針が、廊下の奥で規則正しく動いている。
◇
凍珠は、陽子の遺体を見下ろした。
達成感はなかった。喜びもなかった。ただ、目の前に横たわる母の姿が、少しずつ体温を失っていくのを、凍珠は見つめていた。
――終わった。
任務完了の認識だけが、そこにあった。
そのとき、玄関の隅に目が止まった。
中学生時代に履いていた運動靴だった。サイズが合わなくなり、とうに処分されていても不思議ではないのに、そこにあった。靴底はすり減り、少し汚れ、片方の靴紐がほどけかけている。下駄箱でついた黒い擦れ跡にも、覚えがあった。爪先の部分に、油性ペンで書いた小さな名前の名残さえ残っていた。
陽子は、捨てていなかった。あれほど部屋の乱れを許さなかった母が、履かなくなった子どもの靴だけを、玄関に置いたままにしていた。
なぜ残していたのか。
答えは、出なかった。
愛情の証明だとは、断定しない。単に捨て忘れていただけかもしれない。いつか帰ってくると思っていたのかもしれない。ただの思い出だったのかもしれない。玄関の隅に置きっぱなしにしていただけの、意味のないものかもしれない。
もう、本人に訊くことはできない。
その答えを、永遠に失ったことだけが、確かだった。
凍珠は靴を見つめたまま、視線を外した。遺体へは近づかない。手にも触れない。靴も、拾わなかった。家の中へも、入らなかった。
廊下の奥には、まだ見えていない部屋がいくつもあった。優の部屋も、そのままの姿で残っているはずだった。机の上の参考書も、壁に貼った予定表も、閉め切ったカーテンの向こうで、あの夜のまま止まっているのだろう。凍珠は、そこへは進まなかった。進む理由も、進まない理由も、自分の中には見つからなかった。ただ、足が動かなかった。
◇
凍珠は玄関へ背を向け、歩き出した。
扉は、開いたままだった。家の冷房から漏れる冷気と、凍珠自身の冷気が混ざり合い、玄関先へ薄い霜を残していく。それは、やがて夏の熱の中へ溶けて消えていくだろう。
来たときと同じ速度で歩く。走らない。振り返らない。
近所からテレビの音が漏れてくる。自転車に乗った小学生が横を通り過ぎる。買い物袋を提げた主婦が、日傘を差して歩いていく。
どこにでもある、夏の住宅街だった。
その日常の中を、母親を殺したばかりの十五歳の少女だけが、静かに離れていく。
優は、美里から教えられていた。
「家族を断ち切れば、自分の人生を取り戻せる」と。
けれど現実は、逆だった。父と母を失ったことで、優は人間社会へ戻る場所を、さらに一つ失っただけだった。帰る家も、叱ってくれる声も、待っていてくれる誰かも、この世界にはもう存在しない。
両親の殺害は、優を解放するためのものではなかった。美里以外に帰る場所を消し去り、「第三の進路」から逃げられなくするための行為でもあった。
「あなたは悪くないわ」という美里の言葉を、優は今でも信じようとしている。あの言葉だけが、長い間求め続けていた肯定だったからだ。だがその肯定は、優の周りにあった他のすべての道を、静かに塗りつぶしていくためのものでもあった。優にはまだ、それが見えていない。
そのことに、凍珠はまだ、気づいていない。
◇
住宅街を抜け、人通りの少ない道へ出たところで、凍珠は凍珠弩を消した。
武器を握っていた右腕が、身体の横へ下がる。
そのとき。
右手の人差し指だけが、ごくわずかに震えた。
凍珠本人にも、意識できないほどの震えだった。
巨徳の除霊によって、罪悪感は削られたはずだった。美里によって、「自分で選んだ」のだと、思い込まされてもいた。
それでも、布目優は、完全には消えていなかった。
母が最後に呼んだ、「優」という声。
捨てられずに残っていた、中学生時代の靴。
そのふたつが、凍珠の内側へ、小さな亀裂を残していた。
凍珠自身は、その震えに気づかない。
いつか、この震えに誰かが気づく日が来るのかもしれない。名前を呼び、瞳の奥にまだ残っている何かを、見つけてくれる誰かが。だが今の凍珠には、それを想像する術さえなかった。ただ足だけが、決められた方向へ動いていく。
何事もなかったかのように、金津邸への道を歩いていく。
夏の日差しは、道路を白く焼いていた。
それなのに、凍珠の足元へ落ちる影だけが、ひどく冷たく見えた。
外伝第2話「母の声」、お読みいただきありがとうございました。
そしてこれをもちまして、本編や外伝シリーズは今回で完結となります。
父・京平を手にかけた第7話、そして母・陽子を手にかけた今回の外伝。優が「凍珠」という鬼へと作り替えられていく過程を、本編とは違う角度から――本編では描ききれなかった、優自身の内側の温度から書きたいと思い、この二篇を書きました。
陽子は、善人でも悪人でもありませんでした。優を傷つけた手と、優を育てた手は、同じ一つの手でした。その両方を、優は最後まで手放すことができませんでした。だからこそ、母の最後の一言「優」を止めるために、凍珠は二本目の矢を放たなければならなかったのだと思います。
捨てられずに残っていた運動靴。震えた人差し指。それらは、巨徳の除霊をもってしても消しきれなかった、布目優という少女の輪郭です。この小さな亀裂が、第七章以降、どんな形で表に出てくるのか――伊織や綾実が、優をどう「取り戻す」のか、本編の中でゆっくり描いていくつもりです。
外伝という形で、本編の主役ではない一人の少女の内側に、じっくりと寄り添う時間を持てたことを、作者としても嬉しく思っています。
ここから先は、本編第七章へと物語は戻ります。凍珠を含めた覇竜十傑、そして新たに登場する鬼達――複数の勢力が交錯していく展開になりますので、引き続きお付き合いいただけますと幸いです。
最後まで読んでくださり、本当にありがとうございました。感想・ブックマーク、励みになります。




