外伝1話 消された後悔
第六章「猿寺の凍れる夏」、そして本編の裏側で何が起きていたのか。
その答えが、この外伝1話です。
父を殺した布目優と、教師を殺した浜坂由加里。二人の少女が、殺人という一線を越えた直後、金津邸の中庭で何と向き合っていたのか——それを描きました。
本編では語られなかった「あの夜」の全貌です。
金津美里は「あなたは悪くない」と囁き、鬼僧正・巨徳は死者の未練さえも「不要な鎖」として断ち切ろうとします。
救いのように見えるその力が、実際には二人から何を奪っていくのか。
読み終えたとき、「救済」という言葉の意味が、少し違って見えるかもしれません。
少し重たい内容を含みますが、最後までお付き合いいただけると嬉しいです。
夜の金津邸は、静かすぎるほど静かだった。
布目優――鬼の姿を解いたばかりの少女は、門をくぐる前に一度立ち止まった。すでに凍珠の装甲は消え、制服代わりの黒いワンピースの下に、ただの十五歳の身体が戻っている。汗が首筋を伝い、シャツの背が湿って肌に張りついていた。
だが右手だけが、まだ元に戻っていない。
優は何も握っていない右手を、握って、開いた。もう一度、握って、開いた。指の関節が、ほんのわずかに震えている。凍珠弩の弦を引いた感触が、まだ皮膚の内側に張りついたまま剥がれてくれない。掌の中央には、何も持っていないのに、木製の握りの角ばった感触が残っている気さえした。
耳の奥では、父の身体が壁にぶつかった音が繰り返されている。鈍い音だった。人間の身体が出す音にしては、あまりにあっけない音だった。あんなに大きく見えた父が、簡単に崩れた。
一射目は胸。
二射目は、頭部。
優は歩みを止めた。父が倒れる瞬間の映像が、瞼の裏で止まらない。倒れながら父が何かを言おうとしていた。あの口の動きだけが、音を失ったまま繰り返し再生される。
だが涙は出なかった。悲しいのか、怒っているのか、優自身にも分からない。感情という感情が、ひとつの塊のまま、行き場を失って胸の奥に詰まっている。息を吸うたび、その塊が肋骨の内側を圧迫する。
「今度は、あなたが選ぶの」
美里の声が耳の奥で蘇る。
選んだ。自分で、選んだ。父を殺すことを、選んだ。
そう言い聞かせるたび、身体の芯が冷えていく気がした。言葉は納得しているのに、身体だけが従わない。優は震える右手を、もう一方の手できつく握り込んだ。爪が掌に食い込む感覚だけが、今の自分を現実へ繋ぎ止めている。そうして、中庭へ向かって歩き出した。
◇
中庭には、すでに三人の姿があった。
金津美里。鬼僧正・巨徳。そして、浜坂由加里。
由加里は角羅の姿ではなかった。ただの人間の女の子として、水桶の前にしゃがみ込んでいる。縁側には夕食の膳が置かれたままだった。汁物はとうに冷め、白い脂の膜が表面に張っている。ご飯にも、箸を入れた痕跡がほとんどない。梅干しがひとつ、皿の隅で乾き始めていた。
由加里は両手を水に沈め、こすり続けていた。
指の間。爪の間。掌のしわの一本一本まで。最初はただ赤らんでいただけの指先が、今は爪の際まで白くふやけている。水も氷のように冷たいはずだった。それでも由加里は止めなかった。
「まだ……ついてる」
誰にともなく呟く。声はかすれていた。長い時間、同じ言葉を繰り返してきたことが分かる声だった。
優には何も見えない。血の跡など、どこにもない。由加里の手は、ただ荒れているだけだ。それでも由加里には、消えない臭いがあるらしかった。反転回復札を握っていた、あの手に。教師の胸へ札を押しあてた、その掌の記憶に。
「大丈夫、大丈夫……」
由加里は小さく繰り返した。人間だった頃、辛いことがあるたびに自分へかけていた言葉が、無意識のうちに戻ってきているようだった。声だけが幼く、いつもの角羅らしい軽さが、今夜はどこにもない。
美里は由加里を止めなかった。少し離れた場所に立ち、ただその背中を見つめている。慈しむような眼差しだった。少なくとも、そう見えるように作られた眼差しだった。止めるべきだ、と優は思った。だが、その言葉さえ声にならないほどの間、由加里は手を洗い続けていた。
優が中庭へ足を踏み入れると、砂利を踏む音に気づいた由加里が一瞬だけ顔を上げた。目が合う。何かを言おうとしたのか、口が小さく開きかけた。
しかしすぐに、由加里の視線は自分の両手へ戻っていった。
中庭には、蚊遣りの煙がひと筋、まっすぐに立ち昇っている。誰かが焚いたはずなのに、蚊を追い払う気配すら感じられないほど、その場は静止していた。縁側の膳に群がる羽虫の羽音だけが、やけに大きく響いていた。
蚊遣りは、すでに半分近くまで灰になっていた。
優は、由加里の少し離れた場所に立った。何を声にすればいいのか分からなかった。「大丈夫」と言うのも違う気がした。実際、何ひとつ大丈夫ではない。それでも黙っているしかない自分の無力さが、じわりと足元から這い上がってくる。
由加里の背中は小さく丸まっていた。夜の中庭で、水音だけが規則正しく続いている。ちゃぷ、ちゃぷ、と桶の底を叩く音は、まるで何かを数えているようだった。
その水音は、優が足を止めてからも変わらず続いていた。最初に聞いた時と同じ高さ、同じ間隔で、由加里はいつまでも同じ動きを繰り返している。数えることをやめてから、もうどれくらい経ったのか、優自身にも分からなくなっていた。
「おかえりなさい、優」
美里の声は、普段と変わらなかった。まるで塾から帰ってきた娘を迎える母親のような、穏やかな声。人ひとりを殺してきた少女に向ける声とは思えなかった。
優は美里の前まで歩いた。歩幅がいつもより小さいことに、優自身は気づいていない。
美里は優の顔を覗き込み、声を落として尋ねた。
「京平は?」
優は長く黙った。中庭の風鈴が、遠くで一度だけ鳴った。
「殺した」とも「やった」とも言えなかった。口を開いても、誇らしげな響きは欠片も出てこない。ただ言葉にするたび、あの鈍い音がもう一度耳の奥で鳴る気がした。
「……終わった」
優はそれだけを答えた。喉の奥に、小さな石が引っかかっているような感触があった。
美里は満足そうに微笑み、優の身体を抱き寄せた。細い腕が背中に回る。香水の匂いが、優の鼻先をかすめた。
「よくできたわ。これで、お父さんに怯えなくていい。お父さんの許可も、もういらない。自分の人生を、取り戻したのよ」
優は抱かれていた。だが、腕を美里の背中へ回すことができなかった。両腕は身体の横に垂れたまま、動かない。抱きしめられているのに、どこか遠くから自分の身体を眺めているような感覚があった。
父を殺せば楽になるはずだった。もう家へ帰らなくていいはずだった。それなのに、何も軽くならない。むしろ胸の奥に、新しい重さがひとつ増えただけだった。
その事実の前で、優の呼吸だけがひどく浅くなっていた。喜べない自分は、間違っているのだろうか。そんな問いが浮かんでは、答えの出ないまま沈んでいく。
美里の腕がほどかれたあとも、優の指先は小さく震え続けていた。
その震えに、真っ先に気づいたのは巨徳だった。
巨徳が優の手元へ視線を落とす。ミイラのように乾いた瞼の奥で、光がひとつ揺れずに灯っていた。
「当然でしょう」
声は終始穏やかだった。怒鳴ることも、責めることもない。低く、しかし夜気を伝ってよく通る声だった。
巨徳は言葉を選びながら続けた。強い執着、怨念、後悔を残して死んだ者の思念は、死後も現世に留まることがある。特に家族、教師、長い時間をともに過ごした相手ほど、その傾向は強い。そして、殺めた側にも強い感情が残っている場合、両者の思念は結びつき、より濃く残留するのだという。
「あなた方には、その資格が――いえ、その因縁がある、ということです」
巨徳は優を見た。乾いた首が、ゆっくりと動く。
「あなたには、父君が」
視線が、由加里へ滑るように移る。
「そちらには、あの教師が」
由加里の手が、水の中で止まった。水面に映った自分の顔が、揺れながらまた静止していく。
「先生……いるの?」
声から、角羅の色が抜け落ちていた。ただの浜坂由加里の、幼さを残した声だった。
巨徳は直接答えなかった。ただゆっくりと、中庭の中央へと歩みを進めた。錫杖の先が石畳を打つたび、乾いた音が響いた。
巨徳が冥土錫杖を地面へ突き立てる。
六つの環が鳴った。
一度。
二度。
三度。
澄んだ音の余韻が、夜気の中へ長く尾を引いて消えていく。灯籠の火が、風もないのに大きく揺れた。庭木の葉が震える。優の吐く息が、うっすらと白く色づくほど、空気が急速に冷えていく。水桶の水面にも、細い波紋がひとつ広がった。まるで何かが、水底から浮かび上がろうとしているかのように。
優の背後に、人影が浮かび上がる。
布目京平だった。
胸と頭部に、凍珠弩による傷痕が残っている。だが、それ以上の生々しさはなかった。ただそこに、確かに父の輪郭がある。生前と変わらない、少し猫背気味の立ち姿だった。
同じ瞬間、由加里の背後にも、もうひとつの人影が現れる。
男性教師だった。眼鏡の奥の目が、由加里だけをまっすぐに見つめている。
由加里が振り返り、息を止めた。喉の奥で、小さな声が引っかかった。
優も、ゆっくりと父を見た。逃げなかった。近づきもしなかった。ただ、そこに立って、父を見つめ返した。膝の裏が、わずかに震えている。
「……優」
京平が、娘の名を呼んだ。生前よりも、いくらか掠れた声だった。
優の肩が、小さく動いた。それだけだった。答える言葉が、どこにも見つからなかった。
長い沈黙のあと、京平が口を開いた。
「すまなかった」
優は、その言葉の意味をすぐには理解できなかった。父の口から、そんな言葉を聞いたことは一度もなかった。十五年近い記憶の中に、その二文字は存在していなかった。
京平は、言葉を継いだ。
酒に溺れていたこと。
機嫌が悪ければ、食器や家具に当たり散らしたこと。母を突き飛ばしたこと。優を長時間怒鳴りつけたこと。
それを「しつけ」だと、「家族のためだ」と言い換えて、自分の行いから目を逸らし続けてきたこと。
別居したあとも、父親として優を守ろうとしなかったこと。会社では人格者として振る舞いながら、家庭でだけ牙を剥いていたこと。
「俺は、父親として失格だった。お前にしたことは、どこまでいっても間違ってた。胸を張って父親だったなんて、言える人間じゃない」
優の身体が震えた。何にそう震えているのか、自分でも分からなかった。喉の奥で何かがせり上がってきて、それを飲み込むことしかできなかった。
「何で」
優は、ようやく一言だけ絞り出した。
「何で……今なの」
生きているうちに、聞きたかった。殺す前に、一度でいいから聞きたかった。それ以上の言葉は続かなかった。ただ喉の奥で、何かが引っかかったまま止まっている。目の奥が熱くなるのに、涙は出てこなかった。
京平も、今さら謝ったところで遅いことは分かっているようだった。乾いた笑いのようなものが、口元にわずかに浮かんで、すぐに消えた。
「許さなくていい」
静かに、そう告げた。
だが、京平の言葉はそこで終わらなかった。
「でもな、優」
声の色が、少しだけ変わった。
「俺が悪かったからって……お前が俺を殺していいことにはならない」
優の顔から、血の気が引いた。
せっかく聞けた謝罪の直後に、また責められたように感じた。美里から教えられた「あなたは悪くない」という言葉と、真正面からぶつかり合う。頭の中で二つの声が、互いを打ち消し合うように鳴り続けている。
京平は、自分を許せとは言わなかった。憎んでもいい。墓参りなど、しなくてもいい。父親だったと思い出さなくてもいい。
それでも――。
「俺を殺したことまで、正しかったと思うな。お前まで、俺みたいな人間になるな」
その言葉は、優を追い詰めるためのものではなかった。むしろ、これ以上先へ――優が殺人という行為の先へ、際限なく進んでいくのを止めようとする、最後の忠告のように響いた。父の輪郭が、初めてわずかに揺らいで見えた。
優は、拳を握ろうとして、うまく握れなかった。爪の先が掌をかすめるだけで、指が言うことを聞かない。父への憎しみも、初めて聞いた謝罪も、自分が父を殺したという事実も、美里への依存も、輪郭を持たないまま体温だけを上げていく。息を吸っても、吸った気がしなかった。
優は、無意識のうちに、父へ向けて一歩だけ足を踏み出しかけていた。
同じ頃、教師の霊は由加里へ向き直っていた。
由加里は後ずさろうとしたが、足がもつれ、その場へ座り込んでしまった。石畳の冷たさが、スカートの裾を通して伝わってくる。
教師は、責め立てなかった。生前と同じ、ごく普通の口調で呼びかけた。
「そこの君」
その呼び方を聞いた瞬間、由加里の目から涙があふれた。堰を切ったように、頬を伝って落ちていく。
教師は「忘れろ」とも「許す」とも言わなかった。表情はほとんど動かなかった。
「誰かに言われたから、で終わらせるな。これから何をするかは、自分で考えろ」
由加里には、その言葉の意味を完全に整理することはできなかった。理解よりも先に、涙が止まらなかった。ただ、自分へ怒鳴らずに話しかけてくれる大人の声を、久しぶりに――いや、あの日以来初めて聞いた気がした。
由加里は教師へ手を伸ばした。指先が、届かない距離のまま宙をかいた。
「先生……。ごめ――」
最後まで言葉になる前に、声が止まった。喉の奥で、言葉が凍りついたようだった。
その瞬間、巨徳が錫杖を鳴らした。
「耳を貸してはなりません」
由加里が、はっと振り返る。優も、巨徳を見た。
巨徳は、死者を敵視して怒鳴るような真似はしなかった。むしろ慈悲深い僧侶のような、抑えた声で語り続けた。錫杖を軽く地面に打ちつけながら、ゆっくりと二人の間を歩く。
死者は、生者を過去へ縛りつける。後悔。罪悪感。謝罪。贖罪。巨徳は一語ずつ、間を置いて言葉を紡いだ。
「それらは……人間社会が、個体を従わせるために作った鎖にすぎません。力を持つ者が、力を使ったことを悔やむ必要などない」
獣は、獲物を殺したあとに墓前で頭を下げるだろうか。恐竜は、同族を屠ったあとに罪を償うだろうか。自然の中にあるのは、生きる者と、死ぬ者。ただそれだけだと、巨徳は説いた。声には熱がなく、それだけに一層、説得力があるように聞こえた。
その論理は、一見すると筋が通っているように聞こえた。だからこそ、優の背筋を冷たいものが伝った。反論のしようがないほど滑らかに、罪という言葉そのものを消し去ろうとしていた。
京平が、初めて巨徳へ声を荒げた。
「違う! 優から、考えることまで奪うな!」
教師もまた、由加里へ向けて何かを叫ぼうとした。口が大きく開かれる。だが、その言葉が形になる前に、巨徳の視線が二人の霊へ向けられた。
巨徳は続けた。人間だけが、殺めた記憶をいつまでも抱え込む。人間だけが、夜ごと同じ夢を見て、同じ音を聞き、同じ顔を思い出しては眠れずにいる。それは進化の到達点などではなく、ただの欠陥だと巨徳は言った。
「あなた方は、その欠陥から解き放たれてよいのです」
優は、その言葉のどこに反論すればいいのか分からなかった。実際、楽になりたいと思っている自分がいる。父の声を、二度と思い出したくないと願っている自分がいる。その願いを、巨徳はただ肯定してくれているだけのようにも聞こえた。
だからこそ、京平の「違う」という一言だけが、やけに大きく耳へ残った。
巨徳の表情は、微塵も変わらなかった。
巨徳が錫杖を強く地面へ打ちつけた。
低い読経が始まる。京平と教師の身体に、白い亀裂のような法力が走った。輪郭が、少しずつ崩れていく。ガラスに罅が入るような、乾いた音が重なった。
由加里が、教師へ向かって手を伸ばした。
「待って……!」
指先が霊の輪郭をかすめる。だが、触れることはできなかった。
優も、無意識のうちに京平へ一歩踏み出していた。踏み出してから、優自身が驚いた。自分は、この父を殺したはずだった。それなのに今、消えていくのを止めようとしている。手がひとりでに、宙へ伸びていた。
京平は、崩れかけながらも優を見つめていた。最後に、口元がわずかに動いた。
声はほとんど届かなかった。夜風にかき消されるような、微かな響きだけが残った。
優には、
「生きろ」
と言ったように見えた。だが、確信はなかった。もう一度聞き直したくても、その機会は残されていなかった。
次の瞬間、京平の姿は白い光となって砕け、夜の中へ散っていった。灯籠の炎が、一度大きく揺れて静まった。
教師の姿も、同じように薄れていく。由加里は最後まで、その口元を見つめていた。何かを言っている。しかし、音になる前に、教師の姿は完全に消えてしまった。
中庭に、静けさだけが戻ってきた。水桶の水面も、いつのまにか凪いでいる。
優は、自分の胸へそっと手を当てた。
さっきまで、心臓の裏側に何か鋭いものが突き刺さっているような痛みがあった。それが、今はない。呼吸をしても、肋骨の内側が締めつけられる感覚がない。
父の遺体を思い出しても、吐き気がしなかった。父の顔を思い出そうとした。輪郭の一部が、妙にぼやけている。眉の形も、口の動きも、さっきまで確かに見ていたはずなのに、輪郭だけが薄い霧の向こうへ遠のいていく。
「……何、これ」
巨徳が、抑揚のない声で答えた。
「苦しみを、取り除いただけです」
優の手の震えが、止まっていた。長く続いていた震えが、まるで最初から無かったかのように、跡形もなく消えている。
由加里も、いつのまにか涙が止まっている。自分の両手を見下ろした。もう、血の臭いがしない。荒れた皮膚だけが、事実として残っている。だが同時に、なぜあれほど必死に手を洗い続けていたのか、その理由さえ、遠くぼやけて感じられた。
楽になった。
確かに、楽になっていた。呼吸が軽い。頭の中の霧が晴れていくようだった。だからこそ、それはひどく不気味なことだった。あれほど確かにあった痛みが、こんなにも簡単に消えていいはずがない。そんな感覚だけが、言葉にならないまま、二人の内側に薄く残っていた。
優は、もう一度父の顔を思い出そうとした。何度も、何度も。だが記憶の中の父は、輪郭の内側が薄い紙のように空洞になっていて、いくら目を凝らしても表情が結ばれない。声もそうだった。怒鳴っていたはずの声の高さも、低さも、どこにも見つからない。
残っているのは、ただ「殺した」という一枚の事実だけだった。それを取り囲んでいたはずの痛みや、迷いや、後悔の輪郭が、根こそぎ抜き取られている。
由加里も同じだった。教師の授業中の声も、廊下ですれ違ったときの表情も、思い出そうとするたびに、記憶の縁がぼやけて崩れていく。あるのは、自分が誰かを殺したという、乾いた一行の事実だけだった。
それは救いのようでいて、まるで自分の一部分を、誰かにそっくり切り取られたような感覚でもあった。
巨徳は、二人へ向けて低く語りかけた。
「贖罪とは、弱い者が強い者を縛るために作った言葉です。力を使った者が、悔やむ必要はありません」
そこへ、美里が歩み寄ってきた。優の頬にそっと触れ、由加里の頭を優しく撫でる。指先は冷たく、それでいて優しかった。
「もう、苦しまなくていいの。あなたたちは、間違っていない。間違っていたのは、あなたたちを苦しめた社会のほうよ」
美里は、殺人の責任を問わなかった。むしろ、それを「自分の人生を選んだ結果」として、指先ひとつで塗り替えていく。ひとつひとつの言葉が、優の記憶の輪郭を、少しずつ書き換えていくようだった。
優の目から、迷いの色が少しずつ薄れていった。だが、その表情は決して晴れやかではなかった。感情の一部分だけが、そっくり抜け落ちてしまったような、乾いた無表情だった。
「これからは、凍珠として生きればいい」
美里は優へそう告げ、由加里にも微笑みかけた。
「戻ってきて。みんなが、待っているわ」
その声には、拒む余地を与えない優しさがあった。
由加里が、小さく頷いた。
優も、無言のまま従った。
二人の身体が、再び鬼の姿へと変わっていく。黒と白の装甲を纏う凍珠。黒とピンクの装いを纏う角羅。ついさっきまで涙を流していた少女たちが、鬼軍団の幹部として、静かに立ち上がる。
巨徳は、その後ろ姿をただ見送った。錫杖をもう一度、低く鳴らす。中庭の隅に残っていた、淡い霊気の名残までもが、その音とともに消えていった。
だが――完全には、消えていなかった。
◇
廊下を歩いていた角羅が、不意に足を止めた。
胸を押さえる。理由は分からない。ただ、教師が消える直前の顔だけが、脳裏にちらついていた。目。動いていた口。しかし、声だけがどうしても思い出せない。何度も記憶の底をさらってみても、そこにあるはずの音だけが、すり抜けていく。
「先生……最後、何て言ったんだろ」
凍珠が、隣で振り返った。灯りの落ちた廊下に、二人分の影が長く伸びている。
角羅は、すぐに自分でその言葉を打ち消した。
「……なんでもない」
二人は、暗い廊下の奥へと消えていった。
優もまた、一瞬だけ足を止めた。父の口元が動いていた記憶。あれは本当に「生きろ」だったのか。今となっては、それさえ確信が持てなくなっていた。ただ、何か大切なものを聞き逃したという感覚だけが、輪郭のないまま胸の底に沈んでいた。
◇
中庭には、巨徳と美里だけが残された。
巨徳は何も言わなかった。長い付き合いの中で、その沈黙が何を意味するのか、美里はよく知っていた。
美里だけが、満ち足りたように口元を緩めている。夜風が、彼女の髪をひと筋揺らした。
この夜、優と由加里から消されたのは、幽霊だけではなかった。
自分の罪と向き合うために必要だった、痛みの一部分までもが、一緒に削り取られていた。それは涙でも、絶望でもなく、もっと乾いていて、もっと取り返しのつかない喪失だった。
以後、優は父親のことを思い出しても、ほとんど動揺しなくなる。由加里もまた、あの夜の教師の言葉を、断片的にしか思い出せなくなっていく。
それを「傷が癒えた」と呼ぶことはできない。
優は、もう一度だけ、自分の右手を見た。
震えは止まっている。それが、何かを失った証なのか、確かめる術は、もう残されていない。
最後までお読みいただき、ありがとうございました。
優と由加里は、父と教師の霊と対峙し、初めて謝罪や忠告の言葉を受け取りました。
けれど巨徳の除霊によって、その痛みごと、大切な記憶までも消し去られてしまいます。
「楽になった」ことが、必ずしも「救われた」ことにはならない——この外伝で描きたかったのは、まさにその一点でした。
美里の言う「第三の進路」が本当に奪っているのは、罪悪感だけではありません。
人が人であるための、痛みそのものなのだと思います。
さて、次回は外伝2「母の声」です。
引き続き、十彩獣団をよろしくお願いいたします。




