遊覧船「海の開拓者」
小さなブライトナーの港に、漁船に混ざって一隻の遊覧船が停泊していた。
それほど大きい遊覧船ではないが、漁船に比べると一回りも二回りも大きい船が、周りの船を睥睨するように鎮座していた。船には二本のマストが立っていて、水夫らが忙しそうに出発の準備を整えている最中だ。
「これが家の遊覧船『海の開拓者』だ!」
桟橋に並んだディアナ達に対して、ブルーノが自慢気に両手を広げて船を紹介した。ダウデルト家が保有する中型の遊覧船は、全体が白く塗装されていて、船首には獅子の船首像がとりつけられていた。
「遊覧船なのに開拓者ですの?」
「不思議な名前よね?」
「何で開拓者なの?」
「まるで厨二。ブルーノにぴったり」
船を紹介しただけで、ディアナ達から船名に対して総突っ込みが入る。特にディアナからの「厨二」発言にはショックを受けた様子で、ブルーノは広げていた手を下ろすと、恥ずかしそうに真っ赤になりながら弁明を始める。
「言っておくが、俺が名前をつけたんじゃないからな!」
そう言ってそっぽを向くが、皆残念な者を見る目をブルーノに向けていた。今日は、ブライトナーでの目的のひとつである遊覧船でのクルーズだ。朝から、ディアナ達五名に加え、ブルーノとエルマー、そしてアルフォンスと護衛の二人を入れた十名が桟橋に集合していた。
天気は多少雲が出ているものの、風は穏やかで、絶好とはいかないが遊覧には問題ない天候だった。
船が出港してからしばらくは、全員初めての船旅にはしゃいだ様子で、物珍しそうに船首からの景色を堪能していたが、ブライトナー湾から外海へと出ると、左右の甲板から後方へと流れていく景色を飽きることなく眺めていた。
「うわぁ!」
そんな中、ディアナはメインマストの見張り台に登り、三百六十度の大パノラマに歓声を上げていた。
「ディアナさん、危ないですわよ」
「そうだぞ、降りてこい!」
クラリッサとブルーノが下から叫んでいるが、二人の注意など、この絶景を見れば抗うことは不可能だ。
「もう少し登ればあの先が見えそう」
マストの天辺に立てばあの水平線の向こうが見えそうな気がして、ディアナは見張り台からさらにマストを登っていき、メインマストの頂点に立ちあがった。
「……見えない」
精いっぱい爪先立ちになって遠くに目をやるが、どうしても水平線の先は見えずじまいだった。しかも不安定な場所で爪先立ちをしているため、ふらふらして今にも落下してしまいそうだ。
「ディアナさん、降りなさい!」
「すぐに降りてこい、危ないぞ!」
甲板から皆が口々に叫んでいた。しばらくマストの先端で佇んでいたディアナだったが、案の定、突風に大きくバランスを崩した彼女が先端から落下した。
「わっ!」
「きゃあ!」
「ディアナさん!?」
見上げていたクラリッサらが悲鳴を上げる中、何とか見張り台の手すりをつかんで事なきを得た。
苦笑いを浮かべたディアナが甲板に降りてくると、クラリッサやブルーノから雷を落とされ、シュンと小さくなるのだった。そんな中、外海に出て波が高くなったからだろうか。しばらくするとアルマとマーヤに船酔いの症状が出始めた。
「アルマ、マーヤ、大丈夫?」
心配そうに、ディアナが二人に声をかけていた。二人とも青白い顔を浮かべ、舷側の手すりに寄りかかるようにして座り込んでいる。
「こうやって風に当たっていれば少しはまし。だからあたし達のことは気にしないで楽しんで、……うぷっ」
「そうだよ。せっかく楽しみにしてたんだし、わたし達のことはいいからね。……うぷっ」
二人はまるで撒き餌のように、胃の内容物を海にまき散らしていたが、それがなくなるとぐったりと動かなくなってしまった。
「アルマ嬢、マーヤ嬢?」
ブルーノが声をかけるが、起き上がるのも億劫そうに顔だけを彼に向けた。
アルマがかつて熱を上げていたブルーノだったが、彼女はもう取り繕う気力すらなさそうで、げっそりとした青白い顔でブルーノをぼんやりと見つめていた。
ブルーノは、そんな彼女らに気後れしたように話しかける。
「し、食事は摂れそうか?」
「……見れば分かるでしょ。……今は無理」
「わたしも……、食事は遠慮しておきます……」
「わかった。だが、飲み物だけでも摂った方がいい。今すぐでなくてもいいから飲んでおけ」
ブルーノは二人の傍に飲み物の入ったボトルを置くと、心配そうに視線をちらちらと送りながら戻って行った。
「あら? 水かと思ったらスープだわ。ほら、アルマも口にしておきなよ。優しい味がして美味しいよ」
口にしたマーヤが感嘆の声を上げた。口にしたのはただの水ではなく、ひび割れた大地に優しく染み渡るような、ホッとする味のスープだった。
「本当だ。凄い、これなら口にできそう」
半信半疑の様子で口にしたアルマだったが、一口飲むと大きく目を見開き、コクコクと喉を鳴らして流し込んだ。
「ふう……」
顔を上げると人心地ついたように、大きく息を吐いた。
トロリとしてるが味はあっさりとして、空っぽの胃に優しく染み込んでいく。スープのお陰で船酔いも楽になったような気もする。
この分だともう少しジッとしていれば、多少動くことができるようになるかもしれない。マーヤと青白い顔で見つめ合いながら、アルマは笑顔を浮かべた。
「あれっ? 何だか急に風が冷たくなったような気がする」
「そう? わたしは分からないけど」
一瞬だったが、アルマの頬を撫でる風が冷たくなった気がした。マーヤには分からなかったようで、首をかしげている。気のせいかとも考えたが、背筋がゾクリとするような嫌な風だった。
アルマは上空を見上げた。
空は出発時と変わらず、曇りがちな空が広がっているだけだった。
「ほう、船の上でここまでの食事が摂れるとは思わなかったよ」
昼時となり甲板にテーブルが並べられていた。
さすがに満足な調理施設のないこの船では、豪華なコース料理など臨むべくもないが、ブライトナーから積み込んでいた料理が提供され、これにはアルフォンスも驚いた様子で、機嫌良く料理に舌鼓を打っていた。
昼食も終わり、予定されていた遊覧のコースも折り返しを迎えていた。
船酔いに苦しむ二人は、まだまだ辛そうにしていたものの、スープのお陰かそれ以上の体調の悪化は免れていた。
「ブルーノ坊ちゃん」
この船を任されている船長が、談笑していたブルーノに近づき、静かに声をかけてきた。
「坊ちゃん!?」
思わぬ「坊ちゃん」呼びに、目を白黒させたディアナ達が、思わずブルーノを凝視した。さすがのクラリッサでさえも、「くくくっ」と笑いを必死に噛み殺している。顔を真っ赤に染めたブルーノは、誤魔化すように「何だ?」と乱暴に船長に向き直った。
船長は長年船乗りとして経験を積んでいるかのように、潮焼けした赤い肌で、頭や髭に白いものが混ざった壮年の男だった。彼は睨み付けるブルーノにも悪びれた顔をせず、しきりに空の様子を気にしていた。
「少し風がおかしいんです。この分だと荒れるかも知れませんぜ」
船長のその言葉に従い上空を見上げるが、雲は多いものの黒雲などは見当たらず、ブルーノには午前中との違いがまったく分からなかった。
「朝と同じ空にしか見えんが?」
「ほんの少しですが空気が騒いでるんでさ。こういう時は確実に天候が崩れますぜ!」
空気が騒ぐという感覚がブルーノには分からなかったが、長年海に出ている船長が言うのだ。自分達が判断するより、よほど信用できるだろう。彼は船長の言葉を信じることにした。
「わかった。すぐに戻ろう」
「へい。野郎ども聞いたな? 嵐が来るまでにブライトナーへ戻るぞ!」
船長がまるで海賊のような口調で、水夫に指示を出したときだ。
ディアナの頬に雨粒が当たった。
――ゴオッッッッッ……
「きゃぁぁぁ!」
それが合図だったかのようにいきなり突風が吹き抜け、クラリッサらの悲鳴が響き渡った。
マストが揺れ、船体がギシギシと嫌な音を立てる。
いきなりバケツをひっくり返したような土砂降りの雨が降り出し、甲板を激しく叩いた。
見上げれば真っ黒い雲が、空一面を覆い尽くす勢いで急速に広がり、辺りは急激に暗くなってきていた。
「ちっ、こりゃいかん!」
長年海に出ている船長でも、ほとんど経験したことのない急激な天候悪化に、焦った様子を浮かべていた。
「アルフィーやクラリッサ様は船室へ!」
激しい雨が打ち付ける中、ブルーノがアルフォンスやクラリッサに船室に退避するように言う。
その言葉にまずアルフォンスが、護衛の二人に支えられるようにしながら船室へと降りていく。
「ディアナさん、わたくし達も降りますわよ!」
クラリッサがディアナの裾を引いて促すが、彼女は雨風に翻弄されながらもキョロキョロと何か探している様子で動こうとしなかった。
「ディアナさん!?」
左舷側に立ったまま動かないディアナを、不審に思ったクラリッサがもう一度声をかける。そのディアナは、左前方を指差した。
「あそこに島がある」
薄闇の中、ディアナが指差す方向に目をこらすが、すでに波が高くなっていてよく分からない。
「どこだ!?」
「この先真っ直ぐ!」
そうして再び目をこらしたときだ。ディアナの指差す方向で稲光が起き、一瞬だったが島影が浮き上がった。
「船長!」
ブルーノが叫ぶと同時に、船長の指示が飛んでいた。
「取舵だ。あの島影に退避する!」
「とぉぉりかぁじ!」
すぐに操舵手が復唱し舵を左へと切ると不気味な軋み音をたてながら、船はディアナの指差す方向へと進んでいく。
――バキッ!
フォアマストから嫌な音が響いた。
「船長! このままじゃマストが保ちませんぜ!」
水夫の一人が血相を変えて報告するが、船長は一蹴するように怒鳴り返した。
帆を畳めばマストは無事かも知れないが、周りに遮るもののない海原で木の葉のように翻弄されるだけだ。ただの遊覧船に、この嵐を乗り切る力はない。推進力を失えばあっという間に転覆してしまうだろう。
「こんなところで帆を畳めるか。あの島まで保てばいい!」
船長はそう言って正面を見据え、怯える水夫を叱咤し続けるのだった。
やがて島影が視認できるようになると、一転して船長が舌打ちを鳴らす。岩礁に囲まれたような島に、船を乗り付けられるような場所が見当たらなかったからだ。
「船長! どうしますか!?」
そうしている間にもみるみる島が近づいてくる。
今やフォアマストは完全に折れ曲がっており、メインマストも先ほどから嫌な音が響いている。もはや一刻の猶予もなかった。
「このまま乗り付ける」
「正気ですか!?」
「これ以上は船が保たねぇ! 総員衝撃に備えろっ!」
「衝撃に備えろぉ!!」
水夫が復唱し、ディアナはクラリッサと抱き合うようにしながら、船室への入口を掴みながら身を固くする。
――ガッ、ガゴゴゴゴゴゴガガガガッ……
その直後、船底から突き上げるような衝撃が起こり、船体が軽く浮き上がった。悲鳴が響く中、船体の破片を撒き散らしながら岩礁に乗り上げた。その後、右舷を岸壁に打ち付けるようにして、ようやく船は止まったのだった。
嵐はその日の夜半過ぎまで吹き荒れた。
座礁して動くことができない海の開拓者は、暴風雨に半日以上晒され続け、乗員や乗客も沈没や浸水の恐怖に怯えながら、嵐が収まるのを待ち続けるしかなかった。
そして、永遠に感じた長い夜が明けた。




