弐拾壱話 元小普請(ニート)の困惑と幕閣の困惑
翌日、俺は大岡忠右衛門殿の家に行っていた。忠右衛門殿は結構ミーハー(死語)なところがあり武鑑という大名の名簿と呼ばれているのを持っているのを見せてもらったことがあるのだ。最もその時は底辺旗本が大領を持っているかもしれないが見ることもない田舎大名に興味がなかったので流していたのであった。
「今日は非番で丁度良かった。釣りにでも誘おうとか思っていたんですが、武鑑なんかいきなり見てどうしたんです?」
忠右衛門殿はそう言っているが、こちらは頁をめくるのが忙しい。
「毛利家…あった。ん?ンンン?なにこれ?」
俺の見た毛利家は{安芸半国の大名、居城吉田郡山城}となってるんだが?
「確か、安芸と備後の弐か国の大名だったはず?なんで?」
「ああ、これですか、確か大猷院 (たいゆういん・徳川家光)様の御代にお家騒動があって減封と国替えがあったんですわ」
忠右衛門殿の話では元々嫡流の輝元の子が支藩となっていたが現当主の秀元に対し正嫡故の独立を図ろうとして当主家と揉めてその咎で備後と安芸半国を収公されて支藩は独立は出来た物の奥州に国替えされたのだそうだ、結構有名な話で話題に飢えてた幕臣たちは噂してたらしい。
何と言うか初代が狙った通りになってしまってた。しかも安芸半国も郡山城のある山側ばかりで広島側は浅野が紀州から備後一国と一緒にして貰っている。空いた紀州には駿河から南龍公(徳川頼宜)が入ってた。この体たらくでは維新は無理だなあ。
長宗我部は大隅で頑張ってた。兄殺しで心証最悪だったので必死だったんだろうな。大阪の陣も徳川方で頑張ってたらしい。そして島津はその大阪の陣で大活躍して何故か信州小諸に加増を受けて支藩を置いている。小諸に元々いた仙石は上田に移り、上田の真田は松代に移った。所々は前世の通りだけど少し違うのは先代のせいだよなあ。そういや坂本龍馬とかの先祖は長宗我部について大隅に行ったのだろうか?それとも島津に仕えて「チェストでごわす」とか言うのかなあ。土佐貰うはずだった山内は当初は伊予に封ぜられたが会津の蒲生家が減転封されて伊予に来たため入れ替わりになったが会津を中心とした部分は天領となり保科正之に引き継がれた。
黒田が面白かったのは長政が関ケ原の功で筑前国に加増転封されたのに対し島津攻めで功があった官兵衛(如水)に別に加増があり日向の佐土原で10万石貰って居たのだが官兵衛には長政しか実子が残っていなかったので養子に継がせていた、その後黒田騒動というお家騒動があり長政の福岡藩はあわや取り潰しとなりかけたが藩主を佐土原と交代させて存続してた。加藤清正は島津攻めで功があった為肥後一国に島原を加増されたがその子の代に島原でキリシタン弾圧で一揆を起こされ結局それの不始末で懲罰転封となり没落してた。
「しかし、武鑑って詳しく解説があるんですね」
「まあ、これを持って江戸城の桜田門辺りにたむろして大名の行列を見て楽しむ趣味人が居るそうなんで、本来は商家が商談の為の資料だったんですがねえ」
桜田門外で出待ちねえ、世が世ならカメラを持って撮り鉄見たいな事してたんだな。迷惑な奴も出たに違いない。切り捨て御免されてたりして、どこの生麦だよ。
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江戸城 中奥
柳沢保明は将軍綱吉の元に伺候していた。昨日荻生惣右衛門から伝えられた話をするためである。
「なんと、その話は真か?」
「は、惣右衛門の調べたところ裏を取ることができました。間違いない所かと」
「そうか、知られざる功臣というものが実際に居たということは驚きではある。だがそれを知れば榊原家初代の振る舞いも納得できることよ」
「御意、{飛鳥尽きて良弓蔵る }とも言いますが自らの出処進退をここまでやりきるとは」
「正に本多上野(本多正純)とは対照的よ、本多佐渡(本多正信)も恐れさせるその智謀、神君様が生涯御手許に置いたのは正にそこよな、徳川家は今こそ最大に報わねば神君様もお嘆きになろう」
「まさしく、そして上様に置かれましても源三は手放せぬものですな」
「そうよの、我が治世においても源三の知見は大きく役立とう。引き立てねばならんな」
こうして自らのやらかしとは言え彼が出世していくのは確実となった。
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江戸城本丸御殿 御用部屋 老中首座 大久保忠朝
「榊原旗本家、嚢中の錐とはかの者の事だったか」
御庭番頭として勤め始めたと思えば荻野式受胎術と箆似士倫、何と言うものを見つけたのだ。受胎術は世継ぎに悩む大名や旗本たちが飛びつき小石川の医学所にはそれを学ぼうと医者たちが殺到しているとか、更に白粉の禁止令と鉛白を使わない安全な白粉の製法の公開、これは柳沢の献策による物となっているがかの者が関わっているのは間違いなかろう。
その源がかの榊原家初代にあるとすればやはりかの者は隠れた傑物であったのだろうな。本多上野が排斥を企んだのはその才を恐れた故か。
「そのような者を小普請に置いておくなど{野に遺賢無し}とは程遠いではないか!、上様の御嘆きと御怒りの程が察せられるわ」
「真に、これでは我ら老中の面目も御座いませぬな」
戸田越前殿もこの状態がいかに深刻な事か判っているようじゃ。
「ですが、如何すれば良いものか、唐国のように科挙を行えば良いのでしょうか?」
阿部豊後殿が何気なく発した言葉に閃いた。
「それじゃ!それこそが求められたものじゃ!」
「は?え、何か某言いましたかな?」
阿部殿の事だ、多分何も考えずに口走ったのであろうがそれが最適な答えを産むとは。阿部殿も老中にふさわしき人物であると言う事か。
後は我らで細部を詰めて上様に披露する事としよう。
大久保ら幕閣の建言により、湯島聖堂が立てられそこに学問所が置かれることとなった。地名を取り昌平坂学問所と呼ばれる事となり、そこで学問吟味という試験が行われることとなった。




