第一章(1)
「なんだと、このアマッ。俺様の誘いを断るって言うのか?」
顔を酒と憤怒に真っ赤にした太った男が、品性の欠片もない大声を上げながら周りの客のことなど露にも気にせず立ち上がった。
ここは天下の往来江戸の片隅にある遊郭。
女たちが男に酒を差すまだ日の高い時間にその男はすでに出来上がっているらしく、どうやら遊女の一人を口説いたところすげなく断られたところのようだ。
廃刀の時勢に帯刀しているところを見ると、そこそこの暴力は持ち合わせているのだろう。
大声を上げる男に、近くにいた遊女の仲間がことを穏便に済まそうと、窘める口調で口を開いた。
「お侍さま。申し訳ありませんが、他のお客様の御迷惑になりますゆえ、なにとぞ、怒りをお納めください」
「ならん、もう許せん。お前らなんぞ、男にすり寄り金を巻き上げる金虫ではないか。それならば、おとなしく儂のモノになればよいのじゃ。どうじゃ、他の者で儂に付くと言う者がおるのなら、こんな薄汚い遊郭なんぞよりもっといい暮らしが出来ることを約束するぞ」
男の言葉に、遊郭たちの顔色が変わる。
しかし、それはもちろん男の誘いが魅力的だからではない。自分たちの大切な居場所が侮辱にされたことに対する嚇怒だ。
しかしながら、男を窘めようとした遊女は、露も変わらぬ口調で続けた。
「ほほほほほ。御冗談が過ぎますよ、お侍さま。このお遊び所《一縁》におる女は確かに褒められたものではありません。中には、豚小屋でブタにまみれて育った者もおります。――ですが」
遊女の艶やかな口端が僅かに釣り上がり、煽情的な目が細められる。続く言葉は、確かな嘲りを含んで男の耳を打った。
「ですが、ここにおる者たちは誰ひとり、豚男と寝たことはありません」
「っな、なな。なんだとぉっ」
その言葉を男が理解した途端、男の太い腕が遊女の紫の生地に淡い八重桜をあしらった着物の襟を引っ掴んだ。
「愚弄するのも大概にしろ。その首、たたっ切るぞ」
男の凶行に、店内にいた客、そして他の遊女たちの眼の色が変わる。
だが、遊女は怯えた表情一つ見せずに、軽く手を上げて彼らを制した。
「んん……。ほう」
唾を撒き散らし罵声を上げる男だったが、間近に迫る遊郭の美顔、そして襟の胸元から僅かに露わになる艶やかな雪のように白い乳房に、なにやら怒りとは別の下衆な笑みを浮かべる。
《一縁》にいた遊女たちは皆、別嬪揃いだったが、男が手を上げる遊女はどこか彼女たちから一線は引いた美しさがあった。遊女でありながら品があり、スッと整った顔つきに麗しい美眉。金縁のかんざしで束ねられた漆黒の髪は麻糸のように柔らかく、染み出す気位は一国の姫を連想させるが、全体的な印象は母親といったモノが強い。袖から覗く手は硝子細工のような美しさがあった。
男は遊郭の頭のてっぺんからつま先までをゆっくりと品定めするように睨みつける。
眉をぴくりとも動かさない遊女。
男は最後に、見る者が不快になる嫌な笑みを浮かべると、再びその口を開いた。
「ふっ、気に入ったぞ。女。どうだ、儂の妾にならんか?」
遊女の顎に手を伸ばし、その答えを迫る男。
だが、その答えは全く別の所から帰ってきた。
「おい、なに俺の女に手を出してんだ」
大して感情を込めたふうには感じられないが、それを度外視しても鮮烈なその声は完全にその場を支配した。
「ああん?」
怪訝な顔をして首を回す男。
その視線の先に捉えたのは、遊郭の隅で酒瓶を横に置き煙管をふかし紫煙を巻き上げる、額に大きな傷を持つ、その容姿からは女とも男とも捉えられる人物だった。
「雨兎さんっ」
遊女の一人がその人物を眼にし、安堵の声を上げる。
雨兎、それが彼の人物の名なのだろう。
その遊女を皮切りに、他の遊女、そして常連客までもがその名を連呼する。
しかし、当の本人はそんな店内の声援に応える訳でもなく、ただ、面倒くさげにその鋭い刃のような切れ目の双眸を細めながら、一歩一歩、まるで散歩するかのように、遊女の襟首を掴む男のすぐ脇にやってきた。
「なんだテメェはっ?」
「……」
吐き叫ぶような男の怒号に、雨兎は応えない。雨兎は男を刺すような目つきで一瞥すると、若干呆れたように顔を崩し、襟首を引っ掴まれた状態でにこやかに手を振る遊女に目を向けた。
口に咥えられたままの煙管が、ユラユラとひどくのんびりとした煙を立ち上らせる。
「もう、うさぎ。遅いわよ。危うく乱暴されるとこだったじゃない。それでもうちの用心棒?」
「……その呼び名は止めろ。それと、神流。店の太夫が軽々しく騒ぎに口を突っ込むな」
先ほどの男に対する口調より、かなり砕けた口調で話す神流、と呼ばれた遊女は、雨兎の言葉に「さぁ、どうしましょ」といった具合に肩を竦める。太夫と呼ばれると言うことは、実質この遊女がこの店の主人なのだろう。それならば、先ほどの遊女たちの反応にも納得がいく。
短い会話を終えた雨兎は、再び視線を男に戻す。そして、男が何か口を開こうとした瞬間に、すでに雨兎は行動に移っていた。
それまでは自然体のままに下ろしていた雨兎の腕が跳ね上がり、一瞬にして神流の襟元を掴んでいた男の手首を捕縛する。男の口が驚愕を発する前に、雨兎はその手首を小さな手からは考えられないほどの膂力で絞り上げた。
「ぎゃっ」
情けない悲鳴を漏らし、男が神流の襟元から咄嗟に手を放し飛び退く。
今しがた激痛が襲った手首を逆の手で擦りながら、男は驚きと憎悪が半々に織り交ぜられた視線で雨兎を睨みつけた。
「くっ、このっ!」
「ん? なんだ?」
改めて見ると、雨兎はますます両性的な人物だった。肩ほどで乱雑に切られた黒髪に、スッと伸びた鼻の美しい顔付き。鋭い目じりは男性的だが、小さく艶やかな唇は女性のもの。身体は全体的に線が細く、その腰付きは柔らかい。が、その佇まいは、歴戦の猛者であることを素人目にも確信させるほど威圧感に満ちていた。
男の表情が怒りに震える。自らを馬鹿にされたこと、そして実力にそぐわない気位が、彼の腰にある鞘から、斬ることに心血を捧げられ、より斬りやすいように美しいそりを持たせた白刃を抜き放った。
店の中に小さな悲鳴がいくつも木霊する。
その悲鳴が心地よいのだろうか。
焦った表情だった男に、小さな余裕が浮かんだ。
「……はぁ」
だが、白刃を突きつけられた雨兎は、まるで木刀を見るかのような眼でその日本刀を見つめていた。
その美しき漆黒の二つの珠がゆっくりと上昇し、その双眸に薄汚い男の姿を映し出す。
雨兎の表情は変わらない。ただ無関心、無表情に、身構えることなく悠然と刀を握る男に対峙する。
男は、自分に対するその姿を嘲りと受け取った。
「うぉぉおおぉぉぉっ」
気合を吐き出し、一足に間合いを詰める男。
だが、少し気がかりだ。
こんな真昼間、しかも廃刀令が出され、反明治政府を取り締まる警官が闊歩するこの往来での抜刀など、とても正気の沙汰とは思えない。
しかし、その刀を受ける雨兎にとって、そんなことどうでもよかった。
銀色の軌跡を宙に描き振り下ろされる刃。雨兎は気だるげに口元の煙管を右手で抜き取ると、煙管の口に付ける方の先を持ち、逆側の硬い部分を絶妙の入り身と打ちこみで男の手首に叩きつける。それだけで男が振るった刀の軌道は逸れ、地面へと突き刺さった。
眼を丸くする男。男の眼には雨兎の動きが見えなかった。腕の痛みが、脳に向けて跳ね上がる。
だが、その痛みを凌駕する衝撃が男の腹部に叩きつけられた。
着物の裾から露わになる、細く艶美な曲線を描く足に、周りの客だけでなく、遊女たちが感嘆の吐息を漏らす。しかし、その美しさとは裏腹に、破壊的な威力をその蹴りは孕んでいた。
腹部に容赦ない蹴りをねじ込まれた男は、そのまま真横に吹き飛び、計ったように神流が開いた店の玄関の戸から店の外へと飛び出した。
店の中が歓声に包まれる。
その歓声に、やはり面倒臭げに応じる雨兎は、ふと辺りに目を配らせた。
太夫、神流の姿が見当たらない。
まさかと思い、店の玄関に目を向けると、そこにはやはり泡を吹いて倒れる男の脇に紫の着物が見て取れた。
「どんだけ、お人好しなんだよ」
もはや呆れを通り越して、感心するように呟く雨兎。
とそこへ、何やら銭袋を手の上でポンポンと投げる神流が意気揚々とした表情で戻ってきた。
微妙な表情を見せる雨兎。
それに気付いた神流は、その銭袋を掲げ見せ、まるで悪戯が成功した童のように無邪気に笑ってみせた。
「まいどありぃってね」
「歳考えろよ」
辛辣な言葉を返す雨兎に、こめかみを引きつかせた神流が客から見えないように雨兎のお尻を思いっ切り抓った。
「イィ――ッ!」
突然の雨兎らしからぬ悲鳴に、まわりのお客と遊女たちが「またやってるよ」と温かい視線を雨兎と神流に贈る。その視線が居心地悪いのだろう。雨兎はふてくされたように乱暴に煙管を咥え、初めに居た店の端に荒々しく腰を下ろして足を組んだ。その組んだ足の隙間から、瑞々しい太股が覗くが、本人はそんなものどこ吹く風だ。
近くにあった酒瓶に手を伸ばし、雨兎は一気に中身を喉の奥に流し込む。
だが、その中身もすぐに空になり、雨兎の表情がますます険しくなった。
そんな彼に、微笑みを浮かべながら一人の遊女が近づいてくる。
神流だ。
「お勤め、御苦労さま」
「……」
「もう、そんなに怒らないでよ。子供なんだから」
「俺は、もう十八だ」
「じゃあ、大人なんだからもう一つ頼まれてくれる?」
神流の申し出に、雨兎は睨むように眉を寄せる。
しかし、神流は親しげな頬笑みで受け流すと、頼みごとを口にした。
「良い野菜が手に入ったのよ。せっかくだから、一二三さんにもお裾分けしようと思って。楓に頼んでもう店の裏に準備してあるから、頼んだわよ」
「……あいつんとこかよ」
一方的に快諾させらせる雨兎の表情が、より一層ふくれっ面になる。そんな、雨兎の反応も見越してたのだろうか。神流は先ほど奪った銭袋から、数枚の銀銭を取り出した。
「お駄賃よ。それだけあれば、足りるでしょ」
神流が雨兎の横に転がるから瓶に目を向ける。
雨兎も、酒の誘惑には勝てないのか、若干の不満も残しながらもその申し入れを受けた。
立ち上がり、壁に掛けてあった濃紺色の胴着と袴を手に取る雨兎。
そこで、「あら?」っと神流が小首を傾げた。
「着替えるの? その格好でもいいのに」
「こんな動きにくい格好で行けるか」
吐き捨てるように言う雨兎。雨兎が着ているのは、他の遊女たちと作りは同じだが、血のように真っ赤な傘をあしらわれた着物だった。基本的に用心棒として《一縁》に住み込んでいる雨兎だが、店にいる間はこの着物を着ることが条件となっているのだ。
人目を気にせず、荒々しくその着物を脱ぎ棄てる雨兎。衣に覆われていた彼女の身体が店の中の酒気と熱気に晒される。その肢体は、先ほどの男と対峙した動きとは想像できぬほど繊細で、けして筋肉質の様には見えない。しっかりと引き締められた腹部は絶妙なくびれを描き、ふんどしとさらしだけとなった雨兎の姿は、一種の猟奇的な美しさを放っていた。
その美しさの中に異彩を放つものが雨兎の身体の至る所に見受けられる。
それは、一生消えないであろう数々の刃傷と打傷。
しかし、それらの美しさと過酷さは、すぐに衣に覆われた。袴姿となった雨兎は、自らの銭入れに受け取った銀銭を入れると、再び煙管を咥え、そして傍に立てかけてあった傘を腰に差し、草履を履いた。
「もう。うさぎも女の子なんだから、こんなところで肌を見せちゃだめよ」
「うるせぇ。何処で着替えようが、俺の勝手だろ。それと、いい加減その名はやめろ」
後ろで雨兎の脱ぎ捨てた着物を丁寧に畳む神流に言い残し、神流は一人店から出た。
店の暖簾を潜り、脇にある細道から裏に出ると、そこには確かに水を張った桶に入れられた瑞々しい野菜と、それらを運ぶ小さな影に出会う。
「あっ、うさ……、じゃなかった。雨兎」
「いま、うさぎって言おうとしたな。そうだろう」
あまり気に行っていない字に、雨兎が威圧感のある視線を送る。
しかし、その視線を受け止めた影、歳十ぐらいの少女は、雨兎の威圧的な視線など露にも怯えず「えへへへへ」と笑ってその場を誤魔化した。
髪は伸ばしているがとても小柄で、その顔にはまだあどけなさが残る。
彼女が先ほど神流が言っていた楓だ。
ふくれっ面を浮かべる雨兎とは対照的に、楓は「ごめんね」と可愛らしく小さな舌をだすと、テキパキと近くにあった籠に野菜を詰め始める。そして、青々しい野菜でいっぱいになったところで、その籠を持ち上げようとしたのだが、
「ん、ん、ん~~」
どうにも野菜を詰め過ぎたらしく、取っ手に手を掛けた状態で四苦八苦し始めた。苦悶を漏らすその表情もまた年相応に可愛らしいものがある。が、そんな楓に付き合うつもりは、酒が切れた雨兎には欠片もなかった。
ずかずかと早足で籠に近寄った雨兎は、存外に楓を下がらせると、野菜が一杯に詰まったその籠を片手で易々と持ち上げ肩に背負う。
その様を見て、籠に四苦八苦していた楓は羨望の眼差しを雨兎に向けた。
「さすが、雨兎。力持ち」
「ありがとよ」
素っ気ない返事を返すものの、雨兎はクシャッと楓の頭を撫ぜてやる。
雨兎は楓の顔が綻ぶのを確認すると、その場から踵を返し通りへと向かった。
「雨兎ぉ――。お土産、よろしくね――っ!」
「酒でよければな」
子供相手に無理なことを言いながら、雨兎は大通りの雑踏に身を流した。




