69. 幕間、あるいは終幕へ向けての助走
雨は、夜半から強風にあおられ始めた。隙間風はどうやらありあわせの道具で押さえるのは不可能のようで、男はガタガタ鳴る板戸の修理を早々に諦めた。
音の発生源から出来る限り離れ、薄い掛け布に包まる。薄暗い屋根裏の奥まった場所に引きこもれば、今度は所在なく佇んでいた子供に話しかけられた。
男は眉尻を下げながら、子供の訴えを静かに聞いていた。
「ごめんな、もう返してやれないんだ」
その代わり、お前の行きたいところには必ず連れて行ってやるから。
男の言葉に子供はしばし沈黙した。が、子供の意見を変えるには及ばず、再び同じペースの訴えに戻っていく。
その内容が、昨日から堂々巡りを繰り返していることには気づいていたが、もはや男にできることは何もなかった。ただ、手が空くたびにこの少年のもとに戻り、その訴えに耳を傾けることが、せめてもの慰めになるよう祈るだけだ。
少年の薄暗い声はべたつく感情が希薄で、この年頃の子供にしては落ち着きすぎているように思う。泥のようにしんとして、ずっと聞いていると霧深い沼の底に横たわっているような、ひんやりとした心地になる。
男は掛け布を引きずって子供の横に座り込み、白い頬に手を伸ばした。子供はまた口を閉ざし、男の指先を視線だけで追う。
金の髪を掠めるか掠めないかのところで、さらりと手を引っ込める。少年の、珍しい紫色の瞳がきろりと指先を追い、また男の顔へと戻った。
少年が同じ訴えを再開したのを聞きながら、男は出窓の縁に上体を寄せ、ほとんど尽きかけた燭台の炎をふっと吹き消した。
埃で汚れた小さな窓の向こう、夜に包まれた石の街をぼんやりと眺める。灯りが消え、反射する光を無くしたガラス窓には何も写らず、向こう側の暗闇をさらけ出すばかりだ。近年の技術の発展はすさまじいもので、こんな風雨の中にあっても、ぽつりぽつりと街明かりが浮かび上がって見える。まるで、人の手で地上に消えない星空を作ろうとしているかのようだ。
幼い頃、同じ感想を零したら、隣にいた師はいたく感心したようで、頭を撫でて褒めてくれた。
疲れているな、と思った。
身体が休息を求めていることは間違いないのに、こうして埒もなく感傷に浸ってしまうのは、心が疲れている証拠だろう。
男は、とにかく眠ろうと掛け布を被り直した。体の怠さに反して、脳みそはひたすら活発に回り続けている。経験上、こういう時は無理にでも眠らないと日中に支障が出る。枕代わりの丸めたローブに頭を沈め、目元に掛け布の端を置いて光を遮り、冴える目を瞑って床に転がった。
金髪の少年は、もう男が反応を返さないのは分かっているだろうに、変わらず訴えを続けている。品の良い綺麗な発音の、冷たい泥のような声を子守唄に、男は暗闇に意識を揺蕩わせていった。
過去の自分が、懐かしい影を追いかけて、嬉しげにその名を呼んでいる。
——先生。ユーリス先生。
大地に星があるのなら、あの人を置いて他にない。人が地上にいくつ星を作ろうとも、あれほど美しく輝くものには決してなりはしないだろう。
いつか本で読んだ、船乗りにでもなった気分だ。嵐の中で星を見失い、先行きも分からなくなって、身体も限界を迎えている。本当は全て放り出してしまいたいのに、嵐の向こう、深い雲の先にきっとあの星があると考えると、何故だか漕ぐ手を止められない。破れた皮膚から滲んだ血を吸って、薄汚れた櫂にみっともなくしがみ付いてしまう。
満身創痍の身体を引きずり、汚い床に転がる今の自分のように。
暗闇に沈む石の街。この街のどこかで、いまだ星は輝いている。
久方ぶりにその存在の近くに居られることに、男の唇は無意識に微笑みを浮かべていた。
風雨が古い屋根を叩き、緩んだ板戸がガタガタ鳴る。金の髪に、紫の瞳をした少年は、蒼白な顔で訴え続けている。




