66. 5日目④ 褒められすぎも困ります
——すごい、すごい、すごい、すごい、すごい、すごい、すごい!
誰かに熱烈に褒められている。声はどんどん近づき、高揚し、大きくなっていく。
褒めてくれてありがとう。もうちょっとだけボリュームを落としてもらってもいいかな?
——すごい、すごい、すごい
声の主には、私の心の声が聞こえないらしい。音量はそのまま、ハイテンションでぴょんぴょんと私の周りを跳ね回る。
うるさい。
距離は限界まで近づき、もはや耳元で大声を上げられているような状態だ。
このままでは頭が割れてしまう。うるさい。うるさい。静かにしてよ。
——すごい、すごい、すごいよ、アヤネ!
『うるさいってば!』
叫びと共に目を覚ますと、こちらに伸びた白手袋が私に触れる寸前でビクリと止まるのが目に入った。その向こう側に、アシュクロフト氏の驚いた顔が覗く。
「……アシュクロフトさん?(......Mr. Ashcroft?)」
「お目覚めかな、お嬢さん? うなされているようだったから、起こそうとしたんだが」
目を瞬かせると、寝る前と同じ瀟洒なつくりのサンルームにいることが分かった。勉強方針が見直された結果、いつもより大幅に延長したシュワード氏のレッスンの後、気分転換に屋敷内を散策して見つけた場所だ。
今、部屋には私とアシュクロフト氏以外、誰もいないらしい。
「ヘレナは……?(Where's Helena......?)」
一緒にいたヘレナが別のメイドに呼ばれたので、私はここで座って待っていたのだ。朝から急ピッチで勉強をしまくったせいで脳みそが疲れていたらしく、気が付いたら寝落ちしてしまっていた。
ざあざあと雨の音がする。昼過ぎから降り出した雨が、サンルームの大きな窓を柔らかく洗っている。
「彼女には用を申し付けてしまってね。私も丁度時間があるので、どうだろう、彼女が戻るまでの間、話し相手になってくれないか」
衣食住全てを世話してもらっている屋敷の主人にそう言われて、断る選択肢はない。私は頷き、居住まいを正した。つやつやのビロードのクッションの敷かれた安楽椅子は、ヴィクトルの大きな体で重心を移動しても、ぎしりとも言わない。
「英語の授業の調子はどうだね? 苦労しているようだとは聞いているが」
アシュクロフト氏は斜め前の椅子に腰かけ、脚を組んでゆったりとくつろぐ体勢になった。
「ベストは尽くしてます(I'm doing my best.)」
証拠に、と目の前のテーブルに広げた大量のメモ書きを示す。方針を変更した結果、私の中でシュワード氏との授業は成果の発表会に位置付けられた。習ったことを次の授業までに身に馴染ませるのは私の仕事だ。
「シュワード氏と君は馬が合わないようだとも聞いているよ。その割に、今日は本来の予定時間を過ぎるほど熱の入った授業をしていたそうじゃないか。彼とは和解出来たのかい?」
「まあ、なんとか……? 教え方を変えてくださいって、しつこく言って、頼み続けたら分かってくれました(Well, maybe......? I told him again and again......I kept asking him to change the way he teaches, and he finally understood me.)」
「あのシュワードが? 通りで、今日報告に来た時は面白い顔をしていたはずだ」
アシュクロフト氏は含み笑いをし、テーブルに乗っているメモ書きのうちの一枚を手に取って眺めはじめた。話を聞いて興味が湧いたらしい。
「変わったメモ書きだね。こちらの手書きの図はどういう意味なんだい?」
「そこは舌を置く場所です。この音、発音する時の(It's a place to put my tongue. When I pronounce this phoneme.)」
アシュクロフト氏は問うようにこちらを見た。
「えっと……私の居た大学の中、英語の発音を学ぶときにそういうやり方をしていたから(I mean......I learned it this way when I studied English pronunciation in my university.)」
半分くらいは中学か高校、あるいはテレビで見た話も混じっているかもしれない。大学の言語学の講義は本当にちょっと齧っただけで、申し訳程度にある英語の授業は発音にフォーカスしていなかった。
ただ、「大学」という言葉の権威を借りた方がシュワード氏を説得しやすそうだったので、「大学で習った」ということにしている。
「大学に通っていたのか。素晴らしい。君は才女なのだね」
アシュクロフト氏が感心したように言う。私を見る目が大きく変わったのを感じて、ちょっと困ってしまった。おそらくは時代的なギャップがあっての高評価だと気が付いたからだ。
私が前に読んだ小説の時代考証が正確であれば、この時代、一九〇九年の——明治か大正の日本は、女性が高等教育を受けていること自体が珍しい時代だったはずだ。もしセイヴェルにも似たような風潮があるとするなら、女性の私が大学に通っているというだけで「ものすごい秀才」だと思われてしまうのだろう。
実際はもちろん違う。二十一世紀の日本では、女性が大学に行くのは一般的なことなんですよ、と説明したくなったが、余計な面倒ごとが増えそうで躊躇われた。
私は大学の話題から話を逸らすことにした。あまり突っ込んで聞かれるとボロが出てしまう。
「言語は、大学で専攻していたわけではないので、そんなに分からないです。ほとんどは、昨日ユーリスが教えてくれたことを元にしました(I didn't major in language, so I'm not so sure. Most of the way I told you is basically what Yuris taught me yesterday.)」
「ユーリス卿が?」
嘘はついていない。大学の話から離れたことに安堵しつつ、私は昨日のユーリスとの会話をかいつまんで説明することにした。
「妖精の言語を学ぶときの方法論が、アヤネにも使えるかもしれません」
昨日の食事会での発音チェック中、六人目の先生であるユーリスからそんなアドバイスが出た。
「妖精の言語? ユーリスは喋れるの?(The fairy language? Can you speak it?)」
「多少は」
そういえばユーリスは魔術を使うとき、何度か相手に話しかけるような仕草をしていた。あれが妖精語だったのかもしれない。
「とはいえ、完璧には聞き取れませんし、話せません。人間と妖精では発声器官自体が異なりますからね。しかし、かつて『人の身でどう妖精の声を再現できるか』という研究に生涯を掛けた魔術師がいました。彼女の考えた方法論は、今も多くの魔術師の間で語り継がれています」
何でもその方法論は、『妖精語には英語で使わない音がある。母国語に存在しない音は、そもそも耳で区別できない』という前提から始まるのだそうだ。だから、無理に耳だけで存在しない音を判別しようとするのではなく、音の出し方を覚える。
あなたの今の状況に似ていませんか、とユーリスは言った。
「口の形、舌の形。聞き取れずとも近い音を出す方法を、体の動きから学ぶのです。アヤネは今回、場に合った相槌だけを覚えようとしているということでしたから、音さえ上手く出せれば聞き取れずともさほど問題ないでしょう。例文の英語をひたすら聞き取っても分からないのなら、その英語の教師に『聞き取れない前提』の教え方をしてもらえないか、提案してみるのも良いと思いますよ」
2026/8/7(金)の更新は20時頃になります。




