62. 4日目㉑ Just kidding
「すみません、ヘレナ。まだ支度が終わっていないのです。アヤネと話したいこともありますし、しばらく下で待っていてもらえますか? それほど長くはかかりません」
クールなヘレナは、珍しく目を小さく見張った。割り込んできたユーリスの上から下まで視線を移動させ、最後に私の顔を見る。
私はもごもごと身じろぎ、目線だけでヘレナにメッセージを送った。この状況が不満です。できれば助けて欲しいです。
ヘレナは私の無言の訴えをスルーすることに決めたようだ。姿勢を正すと、片足を一歩下げて綺麗にお辞儀をした。
「承知いたしました。御用の際はお申し付けください」
階段を下りていく音を聞きながら、ユーリスが扉を閉める。ようやく声を出す自由を取り戻した私は、即座に文句を言った。
「ちょっとユーリス、酷くない!?(Hey, Yuris, That's mean, huh!? )」
「他に方法がなかったので。すみません」
悪びれもせずに言われて、少しムカッとした。
「ヘレナに体調のことを言わないつもりなんですか?(You don't mean to tell Helena about your condition?)」
「ええ」
「病院も必要ないって?(You don't need to go to hospital, huh?)」
「ええ。……でも、やけどの時とは違いますよ」
私が般若の顔になりかけたのを察したらしい。文句を先回りされて口を噤んだ。
「今日のやけども、数日前のかすり傷も、私が私自身を大切にしないことに怒ってくれたのでしょう? 今回の体調不良を人に伝えないのは逆です。言わないことが、私自身のためになる。それで納得してもらえませんか」
「どういうこと?(What do you mean?)」
「細かい説明はできません」
「…………」
それだけで納得してもらおうというのは、いくらなんでも無理があるんじゃなかろうか。
今度の無言の訴えは、きっちり受理されたようだ。ユーリスは身体を正面に向け、ゆっくりと、分かりやすい言葉を選びながら続けた。
「私が体調不良で倒れたことを他人に知られると、困る人がいるのです。私が倒れたのを見たというのなら、誰にも言ってはいけない。それが私と、私の周りにいる人間のためになります。もちろん、アヤネ、あなたを守ることにも」
するりと私の両手を取ると、低い位置から顔を覗き込む。
「お願いします。誰にも言わず、忘れてくれませんか。できれば、私が飲んでいた小瓶のことも一緒に」
切実さを含んだ物言いに、若干戸惑いを覚えた。そんなに必死に言うことだろうか。ただ体調不良を黙っている、それだけの話なのに。
ユーリスの表情には一片の笑みもない。
「……黙っていられないって言ったら?(......What if I can't stay quiet?)」
好奇心が、ポロリと口を滑らせた。本気で言いふらそうとは思っていない。ただ、少し気になっただけだ。
ユーリスは眉を下げた。
「その時は……、出来るだけ穏便に忘れてもらわなくてはならない。幸いにも、私は魔術師ですから」
きゅっと取られた両手に力が込められた。
「アシュクロフト邸へ帰る前に、私の温室にご招待しますよ」
す、と背中が冷えた。首筋に冷たいものを押し当てられたような、悪寒にも似た何かが背筋を撫でる。
脅されてはいない、と思う。彼の態度は変わらず丁寧で穏やかだ。微笑んですらいる。でも、拒否権がこちらに無いであろうことも、分かる。
「……、分かったよ、冗談冗談! ユーリスは倒れたりしてない。オレンジジュースが大好きで、いつも小瓶で持ち歩いてるってことにする(.....Alright, I'm just kidding! You didn't pass out. You're just a big fan of orange juice and always carry small bottles!)」
降参のポーズを取るのは物理的に不可能だったが、軽い調子の冗談で薄ら寒さを壊しにかかった。
ユーリスはこの返答に満足したようだ。握られていた両手が解放される。
「ありがとうございます」
微笑みの暖かさが、普段通りに戻ってほっとした。いや、さっきも微笑んではいたから、こちらの心持ちの問題かもしれない。
「いつも診てもらうお医者さんは居るんだよね?(Do you have a doctor you always see, don't you?)」
何かの病気を自覚していて、それを広めたくないのなら、口の堅いかかりつけ医は絶対に必要なはずだ。
「ええ。帰ったら、きちんと診てもらいますよ」
「それならいいんだけど。……クララにも内緒なの?(That's fine. ......Is it a secret from Clara?)」
「クラリッサには言っても構いません。ただし、他の使用人がいないところでお願いします」
クララが知っているのなら、まあ安心か。彼女ならきっと、ユーリスの体調不良を見過ごしたりしない。
これで懸念は特になくなった。私にやれることはもうないだろう。何がどうしてそこまで人に知られたくないのかは分からなかったが、本人が隠したがっていることにわざわざ介入する理由もない。
なんだかどっと疲れた。
「っていうかさあ、約束しただけ、大丈夫なの? 正直、怖かったんだけど真剣過ぎて(By the way, Is it okay that I just promised that? Honestly, I got scared because you were so serious.)」
やれやれと凝った肩を回しながら、机の端に置きっぱなしだった鞄を取り、乱れたベッドの上掛けを整える。明々後日のお茶会でこの旅行が終わるなら、ヴィクトルの寝室に入るのもこれが最後だ。
「もちろん。あなたを信用していますから」
最後の西日が部屋を照らす。ユーリスの神々しい、柔和な笑みが影に埋もれていく。
「あんまりにも……シリアスな感じだったから、温室で記憶を無くす魔術でも掛けられるのかと思ったよ(You sounded like..... so serious, I thought you meant to erase my memory by magic in your conservatory.)」
カーテンを閉めながら軽口を叩くと、ユーリスも同じくらい軽い笑い声を上げた。
「ははは」
ローブを羽織り、私に倣って近くのカーテンを閉める。下の階で、ヘレナと馬車が待っている。
(否定はしないんだ……)
脅されてはいない、という認識には、改める余地があるのかもしれない。
次回は異世界4日目のメモのため、7/22(水)21時ごろ更新します。
その後は通常通り月・金の更新になります。




