61. 4日目⑳ 何もなかったかのような
「ん……」
「ユーリス! 大丈夫?(Yuris! Are you alright?)」
目を覚ましたユーリスに、苦しむ様子はなかった。目線を動かしてあたりの様子を確認すると、こちらを見上げる。
「アヤネ……? どうかしたんですか?」
彼は不思議そうな顔をしつつゆっくりとベッドの上に起き上がり、座り込む体勢になった。
「どうかしたんですか、って……("Is something the matter?"......)」
それはこちらのセリフだ。
「……私は、どうしてベッドに?」
ユーリスは自分の身体を見下ろし、開かれたベストのボタンに気づいて留め直しながら、問うようにこちらを見た。その様子は先ほどまで苦しんでいたとは思えないほど普通で、気だるさの欠片もない。もし今部屋に入ってきた人が居たら、ちょっとベッドに座って会話を楽しんでいたように見えるだろう。
あまりにも噛み合わない調子に、私は眉を顰めた。
「ひょっとして、さっきまでの記憶が無いの?(Perhaps......don't you remember what happened a while ago?)」
「え?」
「ユーリスは倒れたんだよ! 話してる最中に急に苦しみだしたから、ベッドの上、運んだの。覚えてないの!?(You passed out! You suddenly got sick when we were talking, so I carried you on this bed. Don't you remember!?)」
「倒れた? 私が?」
ユーリスは困惑した顔をしていた。倒れる前から、こんな表情ばかり見ている気がする。
試しに倒れる直前のことをいくつか質問してみたが、彼には本当に自覚が無いようだった。やけどの手当てをして、そのあと雑談をしていたところまではおおよそ覚えているが、苦しみ始めた前後に何があったのかは全く記憶にないらしい。
「呼吸困難に、頭痛?」
どんな様子で苦しんでいたのかを聞かれたので、私から見て分かる範囲で状況を説明した。
「うん、多分。ユーリスが口に出してそう言ったわけじゃないけど、そう見えた。最初は呼吸が…荒く?なって、胸を掴んでたし、そのあとは頭を押さえてた。それで気絶した。それから大体十分経った、だけと思う
(Yes, I guess so. You didn't say anything, but you looked like that. At first you were breathing ...uh, roughly? and grabbed your chest. Then, you held your head. And you passed out. It was just about 10 minutes ago, I think.)」
ユーリスの表情はいよいよ困惑を深めていった。
私だって訳が分からない。記憶が無いのも不可解だが、そもそも体は本当に大丈夫なのか? ユーリスの言をそのまま信じるには前科がありすぎる。
私は視線をさまよわせ、何かもっと状況を理解する術がないかと辺りを見回した。夕日を零す窓が視界に入る。
「ユーリス。あの窓の周りのところ、何か見える?(Yuris. Do you see something strange around the window?)」
倒れる直前に、ユーリスが凝視していた窓だ。私には何もおかしなものは見えなかったが、魔術師のユーリスならもっと鮮明に見えるのかもしれない。何か、普通の人には見えないものが。
「……いえ」
言いながら、ユーリスはベッド脇に置いた靴に気が付き、それを履いて立ち上がった。よどみなく窓へと歩いていく後ろ姿からは、体調不良の影は感じられない。倒れた記憶が無いだけで、身体はもう問題ないようだ。本当に?
ユーリスは窓ガラス越しに改めてしっかりと外を確認したが、出てきたのは異変が無いことを伝える言葉だけだった。
窓を開けないのは、少し前にエレメントに対する守りの魔術を仕掛けたからだろう。窓の横、壁の影の中に、見覚えのないハーブのオーナメントが吊り下がっていることに今更気づいた。
「ああ、馬車が来たようですよ」
車輪のガラガラ鳴る音と馬の蹄の音が遠くから聞こえ、家の近くで止まる。ヘレナが帰ってきたのだ。
「ねえ、ユーリス。もしかして、ユーリスって何かの病気なの?(Hey, Yuris. Do you have a disease?)」
帰り支度をしなくては、と椅子の背に掛けていたローブを持ち上げたユーリスの手が、ぴたりと止まった。
「何故、そう思うのですか?」
「だって、窓の周り、何もないなら、それくらいしか原因が思いつかないよ。それに、何度か薬みたいなものを飲んでたよね? オレンジ色の瓶のやつ
(Because there's nothing around the window, I can't think other reason. You drank something like medicine a few times, didn't you? An orange bottle.)」
初めて会った日の温室でも、今日この家に入る前も。
「えっと……いつも診てもらうお医者さんはいる? 近くに病院があるならそっちの方がいいかな? この時間ってセイヴェルのお医者さんは診るしてくれるもの? 馬車があるから、行先がどこでもなんとか行けると思うんだけど
(Do you have a ......um, a doctor you always see? If there's a hospital near here, maybe we should go there? Are doctors in Seivel working at this time, aren't you? We have a carriage so we can go anywhere, I think.)」
ノックの音が響く。私とユーリスは同時にドアを振り返った。
「お嬢様、こちらにいらっしゃいますか? 迎えを呼んできました」
「ヘレナ! ちょうど良かった、今、ユーリスが(Helena! Good timing. Just now, Yuris ......)」
ドアを開き、ヘレナに事情を説明しかけたところで、斜め後ろから伸びてきた手に口を塞がれた。ユーリスの掌が、私の口を押さえている。
『んーーー!?』
そのままやや強引に、私を押しのけるようにして、ユーリスがずいと身を乗り出した。




