54. 4日目⑬ 火に関する民間信仰
皆がユーリスに呼ばれて暖炉の前に集合したのは、それからしばらく経った後だった。
丁度料理作りがひと段落した頃合いだ。
ドリフィ・ローフの生地は四角い二つの型の中にきちんと収められて、被せられたふきんの下で静かに出番を待っている。私が物珍しさだけで選んだ複雑な形の果物は皮を剥かれ、一口大に切りそろえられて。サラダボウルに山と盛られている。端々のいびつさに、皮むきの苦労が偲ばれた。
暖炉の火にかかっている鍋には鶏ガラを湯引きし、野菜と水を加えたスープが入っている。ラナはオーブンを使わないレシピでスープを作ることにしたらしい。煮込みはこのままじっくり二時間程度。オーブンを修理して、そのオーブンでドリフィ・ローフを焼く頃にきっかり間に合う計算だ。
ユーリスは暖炉の手前で、何かの薬剤を作っていた。皆が集まり始めると、かき混ぜていた器を少し離れた場所に置いて振り返る。
「皆さん、お手伝いありがとうございます。これからオーブンを動かすため、この暖炉の火を使おうと思います。下手をすると火傷をしてしまうので、お手伝いの間は私の注意をしっかり守ってくださいね」
燃える暖炉の火を背景に説明するユーリスは、さながら教壇に立つ教師のようだった。
暖炉前の家具は全て隅に寄せられていた。
床を覆っていたくたびれた絨毯も外され、晒された床には白いチョークで魔法陣が描かれていた。分かりやすく端の一部が欠けている。素人目にも未完成なのが分かった。
「この陣の中には絶対に入らないよう注意してください。円の上の空間にもです。隣の人と手をつないで……、そう、ラナとベティのように前後に立つのもいいですね。何かあった時に、お互いがお互いを止められるよう気を配ってください」
ラナがベティを、ギルがダニーを抱きかかえるようにして、部屋の隅、魔法陣から二歩以上離れた場所に並んだ。ユーリスはその列を巡り、小皿に入れた液体を指に浸して全員の額に塗っていく。万が一が起こった時のための保険だそうだ。
暖炉の炎はさかんに燃え、上に掛けられたスープの鍋からは良いにおいが漂い始めている。その暖炉の火の手前、マントルピースの外側、火の粉が飛んでも火事にならないよう石造りになっている床面の上に、細さの違う薪を並べた木組みが作られていた。
その手前にオーブンの動力部に入っていた金属板のうちの一枚が鎮座している。準備の間ユーリスが持ち歩いていた板とは違い、真ん中に大きな丸いくぼみが入っていた。
暖炉の横には、長い取っ手の付いた、深めの小さい柄杓のような形の金属のカップが二つ並べられている。
最後に全員が十分に離れた位置に居るのを確かめて、ユーリスは並べたすべての物品が見えるよう、暖炉の横に立つ。
そして聴衆に微笑み、簡単な問いかけから話を始めた。
「さて。お手伝いをお願いするにあたって、まずは火についてお話ししましょうか。ここにいる皆さんのうち、暖炉やかまどに最初の火を入れたことのある人はいますか?」
意図の読めない謎めいた質問は、昔話の語り手が前振りをする調子に似ている。
子供たちのうち三人と、大人一人が手を上げた。
「ラナ、ギル、ダニー、ヘレナ。その時に、こうして暖炉の端を二回叩くやり方を教わりませんでしたか?」
ユーリスはマホガニー色のマントルピースの端を人差し指の先でトントンと叩いた。
これにはダニー以外の三人が反応した。「洗濯屋のお隣のおばあさんもやってたわ!」とベティが手を上げる。ユーリスは頷き、話を続けた。
「この風習は、古くからセイヴェルに伝わるものです。眠っている火に合図を送り、私たち人間と、火の居所を指し示す。火は人間にとって大変有用で、無くてはならない友ですが、居場所を間違えれば困ったことになるでしょう? きちんと挨拶をして、どうやって過ごせば豊かに共存できるのか、こちらから提案するのです」
言いながら、ユーリスは細い薪の皮をスープ鍋の下の炎に翳し、火を移した。それから火が安定するまで待ち、皮全体に炎が広がり切る前に木組みの下に差し込む。軽く息を吹きかけると、木組みから煙が上がり始めた。
「それだと、火が生きてるみたいじゃん」
ダニーは直接的には言わなかったが、言葉の底に「へんなの」と言う気持ちがにじみ出ていた。
「ある意味ではその通りです」
微笑みながら即座に肯定されて、ダニーは唇をむずむずさせた。
「皆さん自身がそうしているかは分かりませんが――周りの大人、ひょっとしたらご年配の方が、暖炉の火に声をかけるのを聞いたことがありませんか?『今日も頼むよ』とか『少し借りるよ』とか。まるで、そこにおしゃべりの相手がいるように」
これには私以外の全員が「あ」と思い当たった顔をした。
「前にお手伝いに行ったケーキ屋のおばあさんが、オーブンに向かって『今日は不機嫌ね』とか言ってたかも」
「鍛冶師のおっちゃんも、良く炉に話しかけてるな」
「シスターもやってた! 暖炉の最後の火を消すときは『また明日』つってさ」
皆が口々に自分の体験を語る中、セイヴェル育ちではない私だけが取り残されていた。
考えてみれば、話しかける相手だと思えるほど火と向かい合う機会が、私の育った日本ではないような気がする。
灯りは電気だし、湯を沸かすのにも火は要らない。ガスコンロがついているキッチンを使うときや誕生日ケーキの蝋燭、お墓参りで使うマッチ。
機会が無ければ使わないような場所にしか生の火はなく、点けるのも消すのも一瞬だ。暖炉で薪を燃やすように、火を長く気に留める機会自体が存在しない。
火を点けたはずなのに未だに赤い炎が見当たらない木組みを眺めながら、火にかける時間の差に思いを馳せていると、ユーリスが薪をふいごで一度だけあおった。
(あ……)
薪の木組みの間に、ちろ、と火でも煙でもない何かが動いた気がして、私は目をこすった。
「先ほどダニーが言ったように、人は時に火を生き物のように扱う。それは、この国の人間が火の中に意思を視てきたからです」
もう一度薪をふいごで煽ると、やはり何かの気配がする。私は木組みをじっと見つめた。
「彼らは時に温かな隣人となり、時に悪霊のように荒ぶる。たとえ姿かたちに意思を見出せずとも、人々は火がそうであることを知っています。ですから、彼らと仲良くやれるよう、合図を送り、言葉を贈る。そうして私たちは、今日まで共存してきたのです」
ユーリスは暖炉の横に立てかけられていた火かき棒を教師の指し棒のように振るい、オーブンの金属板を示した。金属板は心なしか、最初にオーブンから取り出したときよりきれいになっている気がする。




