3. 1日目③ 日本じゃないよね?
「Ja……何?」
ダニーが隣の椅子に乗って手に触れてくれた。私はテーブルに乗り上げるように身体を伸ばしてギルにも触れ、今度は日本語で『日本』と発音する。それでも二人は困惑したままだ。
「ひょっとすると、俺らが知らない言葉かもしれません。孤児なんで、……あー、いや、俺が勉強してないってだけか」
『知らない固有名詞はそりゃあ翻訳できないか。ここはなんていう国か、確認したいなと思って』
「ここはセイヴェルっすよ。セイヴェル王国」
『セイヴェル』
知らない国だ。とりあえず復唱してみる。
「もしかして全部忘れてるやつ? 前もいたんだよなーそういうゴースト。ヴィクトルに憑くなりわんわん泣いてさー」
『あたしは全部は忘れてないと思うよ!? でも、セイヴェルは知らない国名だわ。地図とかはある?』
「あるぜ」と応じてくれたのはダニーだった。手に持った食べかけのパンを口いっぱいに頬張ると、椅子からぴょんと飛び降りて部屋の隅の本の山を物色し始める。しっかりしているのは年上のギルだが、この場所に詳しいのはダニーの方らしい。
『ここはこの人……ヴィクトルの家なんだよね。二人はヴィクトルと一緒に住んでるの?』
「いえ、俺たちが住んでるのは近くの孤児院です。ダニーは今の孤児院に連れてこられる前、ヴィクトルの家に勝手に居候していたらしくて。目を離すとこの家へ遊びに来ちまうんすよ」
お湯の沸いたケトルの火を止めにギルが立ち上がる。触れていなければ込み入った話ができなくなってしまうので、必然的にキッチンまでついていく格好になった。
「俺はダニーが悪さしないように見張りに来て、なんだかんだヴィクトルの手伝いみたいなことをするようになりました」
ギルがティーポットにお湯を注ぎ、キッチンの薄汚れた窓が湯気にあてられて束の間曇る。
窓の外は石畳の街で、向かいには石造りの小さな家が連なっていた。道幅は広く、遠目に通行人がちらっと見える。
『ヴィクトルとダニーは仲がいいんだね』
「ダニーが一方的に懐いてるっつーか。まあ、仲悪くはないと思います。ヴィクトルはダニーが勝手に入ってきて飯食ってても怒らないし」
『ギル的には困ってる感じ?』
「困るっつーか……ヴィクトルのお兄さんが俺らの孤児院に寄付してくれてる人なんすけど、その人がいい顔しないんすよ。ダニーを孤児院に連れてきたのもその人なんで。紅茶に砂糖はいくつ入れます?」
『砂糖はなしでいいわ』
「まじすか」
ギルはちょっと目を見開いたが、注文通り砂糖なしの紅茶を私に手渡し、自分とダニーのカップには角砂糖を二つ入れた。
「地図お待ち!」
ダニーがテーブルの上にバサッと紙の束を置く。ほこりが舞い、私は軽く咳き込んだ。ギルは慣れた様子で自分の紅茶をさっと避けた。
ダニーが持ってきたのは新聞紙だった。いくらか年季が入っているようで、端の方が茶色くなっている。一面の結構な範囲を割いて、粗い白黒印刷の地図が掲載されていた。
「めっちゃヨーロッパじゃん……」
「そっすね」
私のつぶやきをギルが肯定する。地図に描かれている大陸の形は、受験勉強の時に散々見たヨーロッパそのものだ。その横にはびっしりと英語が印刷されているが、私の脳みそは今この場での長文読解を拒否した。
地図は何かのニュースの説明のために掲載されているらしく、セイヴェルを含んだ周辺の国だけが切り取られた簡易的なものだった。いくつかの文字と矢印が描かれており、何かを解説しているんだろうということが見て取れる。
大陸の形は、私の知っているヨーロッパで間違いない。装飾文字で分かりにくいが、よく見るとフランスやらイングランドやら、私の知っている国の名前が見えた。
「俺ねー、セイヴェルの場所は知ってるんだぜ! えっとね、ここ!」
ダニーが意気揚々と地図の一点を指で指す。ギルはダニーを褒めたが、私はそうなんだ、とあいまいにうなずくことしかできなかった。
セイヴェルがヨーロッパ大陸の端の小さな国ということはとりあえずわかった。この家の家具は西洋風で揃っているなとは思っていたが、本当に西洋に居るらしい。
私はどうして日本から西ヨーロッパにワープしているんだろう? 幽霊ってワープできるんだっけ? 降霊術で呼び出されたとか言ってたけど、飛行機で10時間以上かかるような場所から霊を呼び出せるものなのだろうか? それとも忘れているだけで、私はセイヴェルに旅行しに来ていて、そこで事故か何かにでも遭ったのだろうか?
「アヤネ? どうかしたんすか?」
パンをあっという間に平らげたギルが、りんごをかじりながら不思議そうに尋ねる。それをいつの間にかギルの隣に移動していたダニーが物欲しげに見上げていた。もちろん自分の皿はとっくに片付け終わっている。ギルはダニーのおでこを軽くつつくと、りんごの半分をダニーの口に放り込んでやった。
むぐむぐりんごを咀嚼しているダニーを眺めながら、頭に浮かんだ疑問を口にしようとしたとき、玄関からゆったりとしたノックの音がした。
「こんにちはー。おはようございまーす。魔術師ヴィクトル、起きてますかー?」
ギルが弾かれたようにマントルピースを仰ぎ見た。
「しまった!」
つられてそちらを見れば、場違いなほどに精巧で綺麗な置時計があった。時計の針はそろそろ十一時四十五分になる。ドタバタしているうちにずいぶん遅めの朝食になっていたようだ。
ギルは私の手を放し、何事かダニーに耳打ちすると二階へ駆けあがっていった。
「もしもーし。おーい。これ居ないかな? 居ませんね? ……魔術師ヴィクトル不在、と。えーと、次の家は……」
「いるいるー! めちゃくちゃ居るよ!」
ノックと同様、あまりやる気のなさそうな呼びかけが小さくなっていったあたりで、ダニーが玄関に駆けつけた。勢いよくドアに飛びつく。
開いたドアの向こうに居たのは、ひょろっとした男性だった。
ギルよりは年上だろうか。茶色っぽいベストに似た色の帽子を被っている。何かの制服にも見えるが、シャツの首回りのボタンがあけられていて、そこに緩めたタイが引っかかっている。シャツが大きめなのか単純に彼が痩せているせいか、袖口は適当にまくりあげられていて、制服が本来与えるであろう固さを一切感じられない出で立ちだった。本人の佇まいも相まって、緩いとしか言いようのない印象の人だ。
「おっと君は、えーと、ドリーだったっけ?」
「ドリーって誰だよ、ダニーだ!」
「ごめんごめん、ダニー。魔術師ヴィクトルはいるかなー?」
「ヴィクトルはー、居るっていえば居るけど、結構かなり居ないかも」
「わお、哲学?」
男性は背の低いダニーに合わせてかがんで話をし始めた。
子供に対するやわらかい口調のせいか前半は私にも聞き取りやすい英語だったが、話が長くなるにつれ意味が取れなくなっていく。
私はダニーの横から玄関口に顔を出し、そっとダニーの手を握った。




