28. 2日目⑩ 謎空間のさらに謎
やがて頭痛が止むころには、酷い絶望感も遠い出来事になっていた。
『……ごめん、ユーリス。あたし、ちょっと変になっちゃってたかも』
支えてもらっていた上半身を自力で起こすと、ユーリスは物問いたげに微笑んでいた。
『う……』
私はつい怯んでしまった。
圧倒的な慈愛のオーラを感じる。完全に小さな子供を見るそれだ。先ほどの自分の言動が急速に恥ずかしく思えてくる。初対面の、年齢もそう変わらない人の前で未整理の感情をまき散らすなんて、仮にも大人のすることではなかった。
『ごめん! 忘れて今の! なんか滅茶苦茶なこと言ったし!!』
混乱して顔を赤くしながらまくし立てると、ユーリスの微笑みがさらに深くなった。微笑んでいるというか、ちょっと困っている。
「落ち着いて、アヤネ。残念ながら、私にはあなたの言葉が分からないのです」
「あっ、そ、そうだよね! ごめん!!!(I'm so sorry!!)」
もう駄目だ。恥ずかしい。全然格好がつかない。
「もう大丈夫ですか?」
「もう大丈夫です! ありがとう!(I'm alright now! Thank you so much!!)」
「では、立ち上がりましょうか」
「はい!!!!(Yes, sir!!!!)」
半ば下敷きにしてしまっていたことに今更気が付いて、勢いよく立ち上がった。
クララの工房の作品であろうユーリスのローブの黒が、砂にまみれて白っぽくなっている。さっき涙で濡らしてしまったし、ひょっとすると鼻水まで付けてしまったかもしれない。ユーリスにもクララにも申し訳なさすぎる。
クリーニング代はこの時代でも出させてもらえるものだろうか? 予想外の出費になるであろうヴィクトルには申し訳ないが、その分食費を削るので許してほしい。
私がじたばたと考えている間、何故かユーリスは立ち上がらず、地面に座り込んだままじっと足元を見ていた。
「ユーリス? どうかしたの?(Yuris? What's going on?)」
「ああ、いえ。少し待っていてくださいね」
ユーリスはローブの内側のポケットを探ると、小さなガラス瓶を取り出した。
この場所に移動する前にユーリスが持ち出していたあの小瓶だ。瓶の形こそ半円状の装置に流し入れたのと似ているが、心なしかそれよりも透明度の高い液体が、瓶の口までいっぱいに詰まっている。
彼は小瓶を手早く開けると、一息に飲み干した。
「さて。せっかく地面にものを書ける場所にいるので、先ほどあなたが話してくれたことについて、私に分かる範囲のことをお話ししておきましょうか」
「さっきの?(What I told you earlier?)」
「金髪の少年に関する話です。あれは、アシュクロフト卿の依頼――あなたがヴィクトルの身体から離れられないこととはまた別の話になりそうなので、あなただけにお伝えした方が良いでしょう。正直に言って私に分かることは少ないのですが、何も分からないよりは安心できるかもしれません」
「う。はい……」
改めて、先ほどの私の支離滅裂っぷりを思い知らされた気分だ。恥ずかしくはあるが、何か分かるなら話した甲斐もある。私は羞恥を一旦脇に置き、ユーリスの隣に屈みこんで聞く体勢をとった。
ユーリスはその場に座ったまま、魔法陣を描いたのと同じ棒を使って、地面に図を描きながら説明してくれた。ユーリスにもあの少年のことは分からないが、私が入り込んだ『ぐちゃぐちゃな場所』については心当たりがあるらしい。
「おそらくそれは、魔術師の言葉でクース(Qus)――”裏側” ”間隙”と言う意味の言葉で呼ばれる場所。普通の人間が入りこめば、まず戻ってこられない場所です。あなたが無事でよかった」
「あの魔術師の人が助けてくれたから(Because the wizard saved me.)」
「それは本当に幸運でした。しかし、何故タイミングよく魔術師がそこに居たのかという疑問が残ります」
なんでも、クースは本来、人間的な思念を持つ生き物が存在しえない場所なのだそうだ。修練を積んだ魔術師が入り込むことはあるが、それでも非常に危険で、長期間留まり続けるのはまず不可能なのだという。
つまり、偶然見知らぬ魔術師が通りがかり、私を見つける可能性は限りなく低い。あの場で私を助けられるとしたら、私と同じタイミングでクースに入った魔術師が居たというのが最も自然な流れだ。
「もし具合が悪くなるようなら無理に思い出さなくていいのですが……その少年が魔術師かどうかは記憶にありますか?」
「それは分かんないなあ。助けてくれた魔術師とあの子が同じ人じゃないかって考えてる?(Well, I can't remember. Do you think the wizard who saved me was that boy?)」
「そうですね。その少年がクースへの扉を開いた術者で、意図せずあなたを巻き込んだことに気づき、助けたなら辻褄が合います」
「うーん……でもあの魔術師の人って、あたしよりだいぶ背が高かった気がするんだよね(Umm……But I felt that wizard was much taller than me.)」
クースでは感覚が曖昧で、自分がヴィクトルの身体だったのか、戸松絢音の身体だったのかすらはっきりしない。たとえ私自身の身体であったとしても、十代前半と思われる少年が、成人女性より背が高いなんてことがあり得るだろうか? 小柄なアジア人とはいえ、私の身長は日本人の平均より少し高い。
「その少年が術者でないとすると、その場に別の魔術師が居たのかもしれません」
私の知る限りでは、あの少年の他には追い剥ぎが二人いただけだ。しかしかなり意識が朦朧としていたので、他の人間が居たとしても気づけなかっただろう。
「路地での出来事に関して、今私に分かるのはそれくらいです」
そこまで話すとユーリスは立ち上がり、ローブに付いた砂を手で払った。
謎が謎を呼ぶ形になってしまったが、よく分からない情報をそのままユーリスに手渡しただけなので仕方がない。結局あの少年のことは、私自身が思い出すしかないのだろう。
(思い出したいのかも、よく分からないけど)
私はお礼を言いつつ、ユーリスの手の届かない場所の砂を払う手伝いをした。




