25. 2日目⑦ 魔術師ユーリス
鈍色のドアノブに手をかけ、ガラス張りの扉を開ける。
小さな光は我先にと入ろうとしたが、見えない壁でもあるかのように弾き返されてしまった。
『えっ、ひょっとしてあたしについてくる感じ!?』
二度三度とトライしたあと、小さな光は入るのを諦めたのか、私の肩口までやってきて頭の方へ登って行った。そのまま「ちりり、ちりり」と音を立てながら、私の頭の上で飛び跳ねる。
小さな霰が当たる程度の衝撃だが、地味に痛い。
『ちょ、やめてよ、痛いって! 分かった、分かった、入るってば、もー!』
頭を片手で庇い、屈みながらガラスの扉を大きく押し開く。温室の敷地に一歩踏み入れた瞬間、景色が一変した。
目の前が布に覆われている。正確には、誰かの洋服の胸元だ。
「面白いものを連れていますね」
至近距離で穏やかな男性の声がした。
それまで影も形もなかったローブ姿の男性が外開きの扉を腕で押さえるようにして立っており、私はその懐に飛び込むような体勢になっている。
『ひえっ』
見上げた男性の顔は、とんでもない美人だった。
彼は左腕で私を抱き抱えるようにして位置を入れ替え、入り口から遠ざけた。同時に右手で私の頭上を飛び跳ねていた光を掴む。
ちりりりりりりり……と暴れるような音がした。
男性が何かの言葉を低く紡ぐ。英語とは違う音だ。拳の中の光の暴れる音が、さらに激しくなっていく。
光の必死の抗議を意に介さず、握りしめた光に言い聞かせるように唇を近づけ、彼はさらに言葉を繋げていった。次第に光が増幅し、指の隙間から漏れ出す。
「っ!」
唐突に、握っていた何かを外へ投げ出すような仕草をした。瞬間、目に見えない何かが弾ける。
突風に目を閉じる。
次に目を開けたときには、男性の手から腕にかけて幾筋か、蚯蚓腫れのような長いひっかき傷が浮かびあがっていた。深い傷ではなさそうだが、袖口が裂け、血がにじみ出ている。
『だ、大丈夫ですか!?』
私は思わず日本語で声をかけた。
彼はちょっと目を見開くと、微笑んだ。目鼻立ちは怜悧な印象だが、そうすると優しく穏やかな雰囲気になる。
「大丈夫ですよ。ご心配、ありがとうございます」
ゆっくりした、平易で聞き取りやすい英語だった。
彼はまくり上げていた長いローブの裾に傷を隠すと、こちらに向き合った。
「はじめまして、お嬢さん。私はユーリス。あなたのお名前は?」
「絢音です。戸松絢音(I'm Ayane. Ayane Tomatsu.)」
改めて見ても、ものすごく綺麗な人だ。性別を超越した美というのを生まれてはじめて見た。
声の低さといい、首から肩の筋張った感じといい、男性で間違いない。間違いないのだが、女性的な美しさを持つ繊細な顔立ちと線の細い体が中性的な印象を醸し出していた。後ろで緩く留められている、ゆったりとウェーブした色素の薄い長い髪が、その印象に拍車をかけている。
立って向かい合ってみると、視線の高さは猫背のヴィクトルと同じか少し低いくらい。ユーリスの背筋はぴんと張っているので、まっすぐに立てばヴィクトルの方が十センチ程度は高くなるかもしれない。
「怪我はありませんね。先ほどのエレメントに、どこで憑かれましたか?」
「エレメント? わ、わかりません。ついさっき会った(Elemental? I - I don't know. I just met it.)」
言葉の不自由さとは違う要因で声が詰まった。
『あ、あれ?』
おかしなことに、私は震えているらしい。
ユーリスは表情を曇らせると、私の震える手をそっと取った。
「もう大丈夫ですよ。あれはもう、消えてしまいましたから」
そのまま両手で私の手を包み込むと、子供にするように、とん、とん、と優しく叩く。
「大丈夫、大丈夫……」
ゆっくりした「大丈夫」の声に合わせて、だんだん呼吸が深くできるようになっていく気がした。少しずつ震えが落ち着いてくる。
「少し休みましょうか。こちらへ」
手を取ったまま先導される。ぼんやりと、昨日、こうして手を引かれて歩いたことを思い出した。
(あの人は、誰だったっけ)
思い出せない。
あの、おかしな空間。色がついていたのかどうかも分からない、ぐちゃぐちゃの空間で、気づけば誰かに導かれて歩いていた。愛想のあまりない、でも突き放されているわけでもない、率直な口調のあの人のことを、私はちゃんと名前で呼んでいた気がする。
今はもう、思い出せない。
――君自身の感情を理解することは、とても大事だ。
(そっか。今、あたし、怖かったんだ)
この世界に来て以来、おかしなことはいくらでもあった。
いきなり男の人の身体になっているし、海外にいるし、日付は百年以上前だし、「お前は魔術師に憑依した霊だ」とか言われるし。突拍子もなさ過ぎて、面白いこともあるもんだなーと夢でも見ている感覚になっていた。
この世界と自分のいた世界の大きな違いは魔術だけれど、その辺の人が使うわけでもなし。一晩寝て元に戻っていなくても、セイヴェルはいいところだし、周りの人たちにも親切にしてもらえて、あと一週間くらい観光できるならラッキーくらいに思っていた。
それが今、初めて、明確に「危険な異常」に出会った。
ユーリスが助けてくれなかったらどうなっていただろう? あの爆発が私の頭の上で起こっていたら? ユーリスがあの光に気づかず温室に招き入れていたら、被害は引っかき傷だけで済んだだろうか?
「アヤネ。ここに座って休んでいてください。紅茶とホットミルク、どちらが良いですか?」
いつの間にかユーリスは足を止めていた。
「……ホットミルク」
私が答えると、ユーリスは安心させるようににこりと笑い、「すぐに戻ります」と言って手を離した。
残された私は、淡い黄色の小さな花が咲く木の影に立っていた。すぐそこに鳥の巣のような形の椅子がある。吊り下げ式で、ゆるく揺れる仕様のようだ。ロッキングチェア、あるいはハンギングチェアとも言えるかもしれない。
内側は結構広く、居心地のよさそうなクッションが敷き詰められていた。ヴィクトルの大きな体でも、丸くなればここで寝られそうだ。
(……誰の趣味なんだろう)
ユーリスか、クララか。
考えてちょっと笑ってしまった。ユーリスくらいの美人がここで眠っていたら、さぞメルヘンな絵面になることだろう。
会ったばかりの人の前で寝転ぶのは気が引けたので、ロッキングチェアの端にちょこんと腰掛けてみる。初めて温室の内側をゆっくり眺めることができた。
温室は鳥籠のような形の、背の高いドーム状になっていた。南国を思わせる高い木が奥の方にちらほら並び、手前には元気に茂った広葉樹の葉がつやつやと日光をはじいていた。ちょっとした森みたいだ。
床には白っぽいタイルが敷き詰められていて凹凸がない。ところどころ色違いになっている部分には、何かの管の束のようなものが埋め込まれていた。
(めちゃくちゃ広い温室だなあ)
このロッキングチェア以外にも、花の見事な場所にはクッション付きのベンチやテーブルセットが置かれているのが遠目に確認できた。さらにはロッキングチェアの裏、密集した木の奥に、小さな家まで建っている。
ちょうどその家の扉が開き、ユーリスが小さなお盆にマグカップを一つ乗せて戻ってきた。マグカップの隣には十字に折り目をつけられた紙が置かれていて、真ん中に一粒、白い水晶の粒のようなものが置かれている。棘のない金平糖みたいだ。
「お待たせしました。少し温めすぎてしまったかもしれません。熱いので気を付けて」
「ありがとうございます(Thank you so much.)」
手渡されたホットミルクからは、ほのかにブランデーの香りがした。温かい湯気に、身体が冷えていたことを自覚する。
「良ければこちらもどうぞ」
ユーリスは金平糖のようなものについて説明してくれたが、あまりなじみのない言葉だったので理解できたか自信がない。「charm(お守り)」とか言っていた気がする。さっきの光みたいなものを寄せ付けないようにするということだろうか?
拒否する理由もないので、言われるまま口に入れてみる。咀嚼する前にほろりと崩れて溶けていく食感は、そのまんま金平糖だ。
優しい甘みが口の中に広がっていくにつれ、緊張が緩んでいくのを感じた。お守りというのが聞き間違いだったとしても、今の私にはありがたい甘さだった。




