22. 2日目④ 初めての馬車
彼らと知り合って二日にも満たない私は何も言うことができず、ただ沈黙した。この人は、ヴィクトルが戻ってきたらお酒でも酌み交わしてゆっくり話をしたらいいんじゃないかと思う。
本当にヴィクトルは一週間戻ってこないのだろうか? 私にとっては楽しく観光できてラッキーだが、ラッキーと感じない人も多いだろう。
「旦那様、二枚ほど礼装を見つけました。状態から考えると、今すぐに着られるのはこれ一着かと」
二階から降りてきたケネスは、この雑然とした家にそぐわないくらい上等な男物の服を二枚抱えていた。
片方は黒い生地が灰色に見えるくらいに埃まみれで、上品な仕立てが見る影もない。もう片方はどうやって難を逃れたのか、ぴかぴかの状態をキープしていた。
よく見ればケネスの腕に衣装ブラシがぶら下がっているので、彼の仕事の成果かもしれない。
「ふむ、そちらでいいだろう。着替えを手伝ってやれ、と、言いたいところだが……お嬢さんの意見はどうかね?」
アシュクロフト氏はケネスに指示を出そうとして私を視界に入れ、複雑そうな顔になった。相手が自分の弟であれば迷わずケネスに手伝わせたのだろうが、目の前にいるのは「体は弟・中身は淑女(?)・あまり知らない国の霊(?)」という特級イレギュラー物件である。さしものアシュクロフト氏でも判断に困るところだろう。
アシュクロフト氏とケネスの視線を同時に受け、私は力強く答えた。
「自分で着替えます!(I'll change my clothes by myself!)」
運のいいことに、替えの下着と靴下はヴィクトルの寝室に入ってすぐに見つかった。物が積み上がりすぎていて、どれが使用済みの服の山なのか分からなかったので、脱いだ服はとりあえずベッドの上に丸めて他と分けておくことにする。洗濯機もなさそうだし、洗濯はいつもどうしているんだろう?
完璧にサイズの合った礼装を着こむと、少しいい気分になった。多分きっとかっこいい。姿見が無いので確認しようがないが、窓への映り込みで頑張ってシルエットを拾ったところ、ヴィクトルの姿勢の悪さがジャケットの型にカバーされているような気がした。
(鞄はどうしようかな)
あたりにごちゃごちゃ転がっている鞄は、明らかにこの礼装に合っていない。
アシュクロフト氏は一日エスコートしてくれそうだが、何かあった時に財布が無いのは少々不安だ。昨日もお金が無かったら、夜中に治安の悪い道を歩くか、道端で野宿になるところだった。
私は悩んで、目についた中で一番小さな鞄を持っていくことにした。服には合わないが、スラックスのポケットに財布を入れるとシルエットが崩れてしまうのでやむを得ない。中身は財布とヴィクトルの手帳だ。
「おや、いいじゃないか」
一階に降りると、何かの本に目を通していたアシュクロフト氏が顔を上げて褒めてくれた。ダイニング周りの掃除をしていたケネスが寄ってきて、襟とタイを素早く直してくれる。
自分でも確認したくて洗面所の鏡を覗き込んだが、思った通り悪くない。猫背のやぼったさがジャケットの立体感で目立たなくなっている。
ただ、何度見ても伸びっぱなしの眉だけはいただけなかった。簡単な手入れだけでもできないかと道具を探したが、眉切ばさみは見当たらない。
「髪が気になるが、魔術師らしいと許される範囲か。お前はどう思うね、ケネス?」
「ダルトン夫人は魔術師に理解のある方ですので、適当かと」
「ローブは他になかったのか?」
「はい。先ほど着ていらしたもの以外、見当たりませんでした」
「あれは今回着ていくわけにいかないね。そもそも社交の場に見合う魔術師のローブなどというのは、それこそかの夫人の領分だ」
後ろでアシュクロフト氏とケネスが何やら相談しているのが聞こえた。
初めて馬車に乗った感想は、「思ったより揺れるんだな」だった。あれだけ凸凹のある石畳の道を走るのだから当然なのかもしれない。小さい頃に乗ったメリーゴーランドの馬車とはわけが違う。
私は積極的に窓の外を見ることにした。車酔い対策だ。単純に景色を見るのが好きだというのもある。
「ルメインは初めてかい? ずいぶん楽しそうにしているね」
住宅街を抜けたところで、向かいに座っているアシュクロフト氏が話しかけてきた。ケネスは御者台にいるので、この小さな空間では二人きりだ。
「ルメイン? ここってセイヴェルじゃないの?(Lumaine? Isn't this Seivel?)」
「ああ、それも正しい。ここはセイヴェル王国、そしてこの街は首都であり王都、都市名をルメインという」
なるほど。首都ということは聞いていたが、街の名前は知らなかった。
私が初めてだと言うと、アシュクロフト氏は街の随所で簡単な解説を加えてくれた。
トラムは最近できたもので、現在も線路を広げる計画が進行していること。主に商業・工業エリアと王城を繋げる形で走っているそうだ。
昨日ギルとダニーとソルビを食べた中央広場から出て、トラムの線路沿いに歩いた一番大きい道は中央大通り。中央広場から王城方面、特に王城周りには公的機関が集まっている。昨日変に注目されるのが嫌で路地に入った、あの高級そうな通りのことだ。
中央大通りから離れた王城周辺には貴族街が広がっていて、そこでは車も見かけることがあるそうだ。昨日追い剥ぎに襲われた路地から、大通りと反対方面に歩いていれば貴族の邸宅が並ぶ通りにたどり着いたのだろう。
これから向かうのはその貴族街の邸宅の一つで、魔術師ギルド本部とは王城前広場を挟んで反対側にあるそうだ。
アシュクロフト氏は私に分かるよう積極的に言葉を選んでくれたが、「貴族」という英語を理解するのにはかなり苦戦した。現代日本で話す機会のない言葉は案外知らないものだ。
アシュクロフト氏は揺れる馬車の中で、上質そうな小さい紙と万年筆を取り出し、ずいぶん苦労しながら「nobility」「aristocrats」(貴族)と書き出してくれた。しかし私には伝わらず、「Duke, Marquess, Earl, Viscount, Baron」と具体的に書き出してもらってやっとピンときた。「Earl」は「伯爵」、「Baron」は「男爵」のことだ。
「ああ、わかった!(Oh, I got it!)」
「おや、ようやく伝わったか。よかった」
これから行くのは「Viscount」の奥方のところだよ、と指を指される。この並びで行くと「Viscount」は「子爵」だろう。
貴族だの爵位だの、別世界の話過ぎて実感が湧かないが、いきなりすごい人のところに行くんじゃないだろうか? 知らない世界を垣間見ることができそうなのには正直ワクワクする。けれど、こちらは完全なる平民育ちだ。いきなり会いに行って失礼にならないだろうか?
私の戸惑いが顔に出ていたのか、アシュクロフト氏は微笑んだ。
「心配しなくていい、私は伯爵だからね。でも、これは――私が貴族だということは、他の人には秘密だよ」
伯爵――つまり、これから訪ねる夫人より格上ということだ。
身分というものを全く意識しない場所で育ったせいか、その称号の凄さをぼんやりとしかイメージできない。身なりの良さから考えると、そこまで驚く告白でもなかった。しかし「秘密」の部分をずいぶん強調されたので、重要なことなのだろう。
私は人差し指を唇に当て、こくこくと頷いた。
アシュクロフト氏は満足げに頷き、馬車の窓の縁に身体を預けると、口を閉ざして窓の外を眺めはじめた。
察した私はそれ以上話しかけることをせず、静かに窓の外を眺めた。
多分、ちょっと酔っちゃったんだろうな。
こんなに揺れる場所で、熱心に文字を書きすぎである。
会って間もない大人の男の人と狭い空間で二人きりになったが、もはや沈黙に気まずさは感じなかった。




