13. 1日目⑬ ちりぢりのわたし
誰かが近くにいる。
私はその人の掌に包まれていて、その人の声を聴いている。
――これは、うた?
「歌とは違うかな」
返事をしたその人は――その人は、よくわからない。男性なのか女性なのか、子供なのか老人なのか。
「それを知るには、先に君自身のことを知らないとな」
――わたしのこと?
――わたしのことは、しってる。
「そうだな。でも、知っていることと、理解していることは、同一でないことも多い」
――むずかしいこと、いうね。
「たまに言われる」
少し笑った気配がしたので、私はその人の顔を見たくなった。
「どうした?」
――わたし、わたしの、目がないわ!
これじゃあお顔が見えない! 私はパニックになった。
「大丈夫。大丈夫だ」
――やだ、やだ、こわい、こわい、こわいよお!
「怖いよな。うん、うん……」
私には頭も背中もなかったが、その人の優しい声音に、撫でられているような心地がした。
「怖いよな、訳が分からなくて」
――うん……。
「怖くていいんだ。誰だって怖いさ。君が落ち着くまでこうしていよう」
その人は終始穏やかなまま、私の恐慌が終わるまで付き合ってくれた。
どのくらい経ったのか、気持ちが落ち着いてくると、私がその人の掌からあふれ始めた。私の欠片がふわりと零れ落ち、地面に着地する。
地面の感触を得て、私はずいぶん安心した。何もわからなくて怖かったけれど、少なくとも今は自分の立つ場所を感じ取れる。
「少し怖くなくなったか?」
――うん。
――ここは、どこ?
「ここは 」
私は確かにその答えを聞いたが、聞いた端から忘れてしまった。
――かえらなきゃ。
「どこに?」
――わかんない。
――でも、かえらなきゃだめなの。
「どうして?」
どうしてと問われると、理由は特にないような気がした。そう決まっているわけでも、誰かにそう言われたわけでもない。
――でも、わたしが、かえりたいの。
帰りたい、と意識した瞬間、私は、私に足があることに気が付いた。
「それじゃあ、一緒に帰り道を探しに行こうか」
――うん!
見失いたくなくて手を伸ばすと、その人は包み込むように握り返してくれた。私はまた安心し、私に手があることを知った。
道すら分からない場所を二人、手をつないで歩く。足を踏み出すことに不思議と迷いはなかった。
――ねえ、あなたのおなまえは?
私はふと気になったことを訊ねた。
「 」
私は「 」とその名前を繰り返した。
「君の名前は?」
――アヤネ。
――戸松、絢音。
そうだ、私の名前は戸松絢音だった。
思い出すと同時に、手をつないでくれているその人のことも少し鮮明になった。多分、男の人だ。
「 は、かみさま?」
「はは、まさか」
気が付けば私には口があり、自分の声で会話していた。
「俺は魔術師だよ。ただの魔術師だ」
「ふぅん」
魔術師という言葉は、最近よく聞いた気がした。
「あたしは大学生なの」
口に出して、思ったよりも自分の身体が大きいことに気が付いた。
「大学……学校に通っているのか。どんなことを勉強しているんだ?」
「経済学とか、色々」
答えると、大学での生活をむくむくと思い出してきた。大学のキャンパス、使いづらい講堂の机、友達とよくおしゃべりしていた食堂の席からの景色。
「経済学部なんだけど、正直経済学はあんまり向いてなくてさ。経営学は結構好き。他にも好きになれるやつがあるんじゃないかって、歴史学とか国際関係学とか言語学とか、取れる講義を色々つまんでた。あと、演劇がやりたくてサークルを作ろうとしたり。文化祭は盛り上がったなー。 は? 魔術師も学校に行くの?」
「魔術師に学校はないよ。少なくとも、俺の知る限りでは」
彼は簡単に魔術師のことを話してくれた。
大抵の魔術師は年上の魔術師に師事して学ぶこと。魔術師には生まれ持っての素質が必要なこと。素質があっても導いてくれる人に出会えず、魔術師にならずに一生を終える人もいること。
「 はいい先生に出会えたんだね」
「ああ。とても幸運なことに」
彼が本当に幸福そうに言うので、私も嬉しくなった。
「あたしにとってのお母さんみたいな人だ」
母を思い出すと、自分の形がより鮮明になった。二十歳の成人女性の身体。母の影響で筋トレを始めたばかり。
「君の母親はどんな人なんだ?」
彼の声が上の方から聞こえる。それで私の耳が、彼より低い位置にあることが分かった。
「すごい人、かなあ。あたしが中学校を卒業する前か、後くらいに自分で事業を始めてね。いろんなところを飛び回って仕事してて、すごく忙しいのにあたしともできるだけ一緒にいてくれて。それに、いつもおしゃれでかっこいいの。あたしもあんな風になりたくてさ。まあ、まだお母さんみたいに、はっきりやりたいことが決まってるわけじゃないんだけど」
そんなことを話していると、次第に周りの様子が見えてくるようになった。
そしてぎょっとした。私は階段を上っているのに、彼は下っている。それなのになぜか隣を歩いて、手をつないでいる感覚はずっとするのだ。
「ひっ」
私が思わず悲鳴を上げると、彼の手が私の目を覆い、視界を遮った。
「考えなくていい。今考える必要があるのは、君のことだけだ」
「言ってることなんか怖くない!?」
「じゃあ、その怖さについて考えてみよう。どうして怖いと感じているんだ?」
どうして怖いと感じたのか? 変な言い方だったから?
ううん、よく考えるとそこまで変じゃない気がする。何となく彼の言ったことが、何かに――そうだ、ホラー系の悪役が主人公を洗脳しようとしているワンシーンに似ていたからだ。
(でも別に、口調自体に変な感じはなかったよね)
この人はずっとそうだ。淡々としていて、でも無関心ではない。温かみがちゃんとあって、一定の距離で見守られている。
「……怖いのは、混乱しているから。訳の分からないことに気づいて、分からないままなのが怖い。怖さに形を持たせたくて、あたしの知っている怖いものにあなたの言葉を当てはめて怖くなった、……みたいな感じかも。ゆっくり考えてみたら、あなたの言ったこと自体は、あんまり怖くない」
「うん」
彼は否定も肯定もせず、「しばらく、目を閉じて」と言うと、私の目を覆っていた手をはずし、導くように私の手を引いて歩き始めた。
「君自身の感情を理解することは、とても大事だ。世界は君を混乱させるもので溢れている。理解できるものより、できないものの方が多い。だから」
彼は立ち止まると、再び私の目元を手で覆い、「ゆっくり息をして」と言った。
私は言われたとおりに大きく息を吸い、時間をかけて吐いた。そうして、自分が息をする方法を知っていたことに気が付いた。
「混乱したら、今自分が何を感じているのかをよく観察しなさい。その感情が、どこから生まれているのかをよく分析しなさい。君が気づかなくても、忘れていても、抑え込んでいても。君はいつだって、君と一緒にいるのだから」
急に教師然とした口調になってそう言うと、彼は彼の手を私の目元からそっと外した。
相変わらず理解の範疇を超えた光景が広がっている。しかし先ほどと比べると恐怖はかなり薄れていた。
訳の分からなさに対する恐れはある。でも、無理に理解しなくてもいい。分からなくても私はここに立って、息をしている。
よく見れば目の前の光景はゆっくりと、不規則に変化していた。私が上っていたはずの階段も、平坦な道に変わりつつある。
「さあ、そろそろ帰り道が見えるんじゃないか?」
「うん……」
道の先にぼんやりと、私の部屋が見えた。賃貸マンションの1Kの部屋。小さいキッチン。ひとり暮らしには贅沢な大きい冷蔵庫。
この道をまっすぐ行けば、帰れると確信があった。二十一世紀の日本。魔術なんてフィクションでしかない、私の生まれ育った場所に。
でも。
「でも、あたし、ギルとダニーに会いに行きたい。すごく良くしてくれたのに、まだお礼も言えてないの。最後に見た時、二人ともすごく傷ついてたみたいだった。あたしには理由も分かってないし、何ができるってわけでもない。けど、気になって仕方ないんだもん。会って話を聞きたい。だから戻りたいのは、セイヴェルのあの街の方!」
宣言するなり、急速に視界が変化した。一九〇九年の石造りの街が迫り、ごつごつした路地が私を覆っていく。
唐突なお別れの予兆に、私は慌てて振り返り、彼の方を見ようとした。
躍動する風景の中、その人はまっすぐに佇んでいた。微笑んでいることだけはなんとなく感じ取ったけれど、顔は見えず、手を伸ばしたけれど届くことはなく、どんどん遠ざかっていく。
私は必死に彼の名前を呼んだ。
「 ――!」
それ以上何か言葉を発する前に、私は存在ごとその場所から引き離された。




