12. 1日目⑫ 唐突な終わり
『いっ、たぁ……』
とっさについた手が石畳で切れ、掌に血がにじみ出ている。胸に抱えていた鞄が上手くクッションになったおかげで頭こそ打たなかったが、顔にも多少擦り傷があるようだ。
私は手についた砂を払いながら立ち上がった。そして躓いて蹴っ飛ばしてしまった何かを視認し、口から洩れた悲鳴を反射的に飲み込んだ。
それは人だった。暗い色のローブに包まれた、まだ小さな子供だ。蹴とばされた場所でうずくまったまま、ピクリとも動かない。
『ご、ご、ごめんなさい、大丈夫!?』
私は小声で叫び、その子供に駆け寄って膝に抱きかかえた。
ダニーよりも少し上くらいの年齢の少年だった。ローブのフードからこぼれる髪は明るい金髪で、幾筋か汗で額に張り付いている。肌は白く、それ故に口元が血で汚れているのがはっきりと分かった。
少年がせき込み、口から新しく血を吐く。私は真っ青になった。
『びょ、病院……病院……!』
私は苦しそうな少年の身体を抱きかかえながら、血を拭けそうなものがないか自分のローブのポケットを漁った。くしゃくしゃのハンカチが出てきたので、それで少年の口元を拭う。
そのうちに咳は落ち着いたようだが、今度はぐったりと目を瞑ったまま動かなくなってしまった。
(よかった、息はしてる……)
とにかく病院に連れて行かなければ。
あの男たちの声が遠くでまだ聞こえている。
あたりを見回してみるとここは行き止まりのようだ。幸い建物が密集しており、隠れやすそうに思える。不用品らしきものが大量に入った箱が壁の横に積みあがっており、一度こちらを見失った相手から身を隠してやり過ごすには悪くない場所だ。
私は少年を慎重に抱え、一番大きな箱の後ろに身を寄せた。これでよほどしっかりと覗き込まれなければ、見つかることはないだろう。
(綺麗な子だな)
少年の口元についている血を改めてきちんと拭うと、小綺麗な様子が際立った。
孤児だというギルやダニーも身だしなみは清潔だったが、この少年には清潔さに加えて、品のようなものが感じられた。
髪は乱れているものの、丁寧に切りそろえられている。血で汚れてはいるが、ローブの下に着ている服は質が良く、サイズも体にぴったり合っていた。
頬は白くきめ細やか。一向に開かない瞳を縁取る金色のまつげは長く、髪よりも少し色が濃い。
(見たことがある)
どくん、と心臓の音がした。
私はこの子を見たことがある。いいや、会ったことがある。
『は…………』
急速に息が苦しくなり、耳の奥でキーンと高い音がした。目に入る光景がやたらと鮮明になり、光が突き刺すようだ。頭が痛い。自分の血管の音がうるさい。勝手に涙がにじむ。
怖い。嫌だ。頭の中で誰かが叫ぶ。やめて。来ないで。
『……たすけて!』
今ではない時間の私が叫んだ。
路地の入口付近の箱が蹴飛ばされて不用品の山ががらがらと崩れた。一人の男が私たちを見つけ、もう一人を大声で呼んでいる。
私は揺れる視界の中で、少年を庇うように抱きしめた。男たちが何か悪態をつきながら近づいてくる。蹴り飛ばされた金属の棒のようなものが地面の石畳に当たって、酷い音が頭に反響する。
肩を掴まれて振り向かされ、襟元を絞められた。何かを言われているが聞き取れない。息が苦しい。
頬が焼けるように熱くなって、殴られたことを遅れて知る。抱えていた少年が膝からずり落ちた。男たちの注意がそちらに向く。駄目だ! やめて!
『あああ……っ』
喉から獣のようなうめき声を出しながら、少年に手を伸ばす。男たちが何か怒鳴っている。粗野な腕が少年から私を引き剥がそうとする。視界の端で彼の金色のまつげがふるりと揺れた。
(今度は、守るから)
彼がゆっくりと目を覚ます。腰のあたりに死に物狂いで抱き着いた私にはもう何も見えない。けれど私は、その瞼の裏に隠された瞳の色を正確に知っていた。
珍しい紫色の瞳。
その目が見開かれると同時に、空間がぐにゃりと歪んだ。
存在がぐーっと引き延ばされるような、ぐるぐるとかき混ぜられるような、感覚全部が散り散りになるような、逆にぎゅっと圧縮されていくような。
うるさい男たちの声が消えていく。頬の痛みが薄れ、先ほどまでの頭痛が遠くの出来事になっていく。
苦しさが消え、何に苦しんでいたのかも忘れ、呼吸をする必要すらなくなり、私という存在が完全に霧散した。




